09 死神の微笑み


軍での任務は基本的に二人以上の複数人で割り振られる。勿論場合によっては単独で指示を受けることもあるが、よっぽどの密命に限られた。だから尾形が近隣の山でひとり滑落したなんていう話は、何か疑うところがあるに余りあった。
こんな時に自分は小樽を離れている。鶴見からの命令で旭川の本隊に置いている新任少尉、鯉登の補佐を務めているのだ。

「尾形はまだ目を覚まさんらしい」
「生きているのが奇跡的なくらいです。顎が割れていると聞きますし、目を覚ましてまともな証言が得られるかどうか…」

電話で小樽の兵卒から報告があった。雪山で滑落した尾形は真冬の川に突っ込み、そのまま顎を割って流されたらしい。低体温症寸前で発見され陸軍診療所に運ばれ、顎の手術を受けたものの意識不明のまま。一度だけ目を覚ましたが、また気を失って今日に至る。

「まったくあの男は何を考えているかわかったものじゃない…鶴見中尉殿も何をお気に召しているのか……」
「……さぁ。私には分かりません」

月島の返答に鯉登はため息をついた、平静を装いながらも内心苛立っているのは月島も同じだ。正直なところ、尾形には造反の疑いがかかっていた。あれはいまいち本心の読めない男だ。鶴見は造反に確信を持っているわけではなさそうだが、なんだかきな臭いものを感じて仕方がない。今回の単独行動の件はその造反の疑惑を強める一件だった。

「そういえば月島、小樽の兵営には鶴見中尉殿のご親戚の令嬢がいらっしゃるのだろう。どんなお方だ?」

興味津々、と言わんばかりの様子で鯉登が尋ねてきた。旭川にナマエがいたときは顔を合わせていないし、鯉登は小樽へ合流していないからまだ姿かたちを見てさえいないのだ。兵営に女性なんて、と言いそうなものかと思ったが、そうでもないらしい。恐らくナマエのことを鶴見の遠縁と聞いているからだろう。

「どんな…と言われても、私も大してお話しする機会はありませんから」
「そうなのか?ナマエ嬢のことは月島に任せていると鶴見中尉殿は仰っていたが…」

また余計なことを言ってくれる。確かにナマエがここに来てから接触する機会は一番多く、しかしそれは懐柔するように指示を受けているのだから当然のことだ。けれど人となりを他人に説明するほど彼女のことを理解しているわけではない。

「……お優しくて繊細な方ですよ。それから…努力家だと思います」

前半はお世辞と婉曲表現、後半は思わず付け足してしまった本心だった。100年以上先の未来からこんなところにやってきて、着付けも釜戸の使い方も知らなかった。それが今ではさも当然のように兵卒の中に混じり、兵営で飯炊きをしている。彼女を拾ってすぐのころの様子に比べると随分と成長したものだと思う。

「お前がそう言うのなら相当に努力家でいらっしゃるのだろうな。事情があるとはいえ男だらけの兵営で苦労も多かろう」

鯉登は月島の言葉を少しも疑わずにそのまま飲み込み、まだ見ぬナマエに思いを馳せているようだった。


武器弾薬を旭川の兵営から持ち出したのがついに上官である和田大尉に露見してしまった。しかも鶴見が予定にないほどの兵卒を小樽まで連れ出しているということもついでに露見し、もう我慢ならないと小樽の鶴見の元へと押しかけるに至った。列車で小樽まで到着すると、その足で馬に乗って小樽の山に向かう。これはもちろん鶴見の予想の範疇である。

「鶴見!」

前方に鶴見とおなじみの小隊の面々が揃っている。あれは尾形滑落の原因を探りに出たあと行方がわからなくなっている玉井班を探しているのだろう。玉井、岡田、野間と三人とも屈強な仲間であるし、谷垣に関しては阿仁のマタギの生まれだ。雪山で遭難するとは考えづらい。

「貴様私の部下たちを勝手に小樽まで引き連れてどういうつもりだ!!」
「これはこれは和田大尉殿」
「一名は重体、四名が行方知れず、一体小樽でなにをしているのだ!?おまけに旭川から武器弾薬もごっそり持ち出してきたそうじゃないか!ただではすまされんぞ鶴見!」

和田が馬上から降り、鶴見に向かって怒声を飛ばす。鶴見が奉天会戦で負った額の傷からどろりと液体が漏れ出た。鶴見は手巾を取り出すと涼しい顔でそれを拭う。

「失礼。奉天会戦での砲弾の破片が前頭部の頭蓋骨の一部を吹き飛ばしまして、たまに漏れ出すのです。変な汁が」
「そもそもそんな怪我のありさまで今後も中尉が務まるか!もう庇いきれん!!」

和田は鶴見に詰め寄ると眼前を人差し指でびしりとさした。鶴見は指越しに和田をじっと見つめる。

「鶴見!貴様が陸軍に戻る場所はもはやないと思え!!」

和田がそこまで言い終えると、鶴見はすかさず人差し指に噛み付いてそのまま食いちぎる。「血迷ったかあああああ!!」と悲鳴に似た声をあげた和田が鶴見に掴みかかって右手を引き戻そうとしても、それを許すことはなかった。ポウッと噛みちぎった人差し指を吐き出せば、それが和田の額にペチンと当たる。

「頭蓋骨と一緒に前頭葉も少し損傷してまして、それ以来カッとなりやすくなりましてね。申し訳ない」

淡々と冷静な声でそう言う。再び手巾を手に今度は血で汚れた口元を拭った。和田は予想もできない出来事に絶句し、鶴見が平然と軍帽を直しながら「それ以外はいたって健康です」と続ける。

「向かい傷は武人の勲章。ますます男前になったと思いませんか?」
「正気ではないな」

正気ではない。その通りだ。ここにいる全員が鶴見の熱に圧倒され、その身を捧げようとする男たちである。無論自分も正気ではなかった。もうずっと、ずっと。鶴見に生かされて、この命を彼のために使うと決めた時から、ずっと。

「撃て」

和田が合図をする。後ろに控えていた月島は「はい!」と応答して小銃を掲げると銃口を和田の側頭部に向けた。そしてそのまま引き金を引く。和田の頭部が弾ける。

「服を脱がせて埋めておけ。春には綺麗な草花の養分になれる。戦友は今でも満州の荒れた冷たい石の下だ」

鶴見の声が雪の降りしきる中で冷たく響く。満州の地にはあの戦争で死んでいった戦友がごまんと埋まっている。ろくに弔ってやれなかった者もいた。あの恐ろしく重い曇り空が目に焼き付いている。

「ロシアから賠償金もとれず元屯田兵の手元に残ったものはやせた土地だけ。我々の戦争はまだ終わっていない」

そうだ。鶴見劇場はこれからが見どころなのだ。最前列のかぶりつきで、月島は道化にだってなる覚悟だった。


刺青人皮のことを探っている男がいるとにしん蕎麦屋の女将から垂れ込みがあったのはそのすぐ後のことだった。出動した兵士によってその男が引っ捕らえられ、小樽の兵営で取り調べを行う手筈になった。まだどんな輩かわからないし、刺青の囚人である可能性もある。ナマエにはおさんどんの類はしなくていいから部屋を出ないようにと強く言い含めた。
自分がいればまだここまで神経質になることはなかっただろうが、あいにく鶴見から別の任務に出るように言われている。同じく彼女の素性を知る宇佐美も長期で兵営を空けているし、何かとんでもないことにならなければいいが、と内心不安は募った。

「おい、なんだこの騒動は!!」

言い付けられた任務を終えて夜中に兵営に戻ると、まるで暴動でもあったのかと思うほどに荒れていた。拘束していた男が元第一師団の兵卒「不死身の杉元」であり、その杉元と二階堂兄弟が乱闘を起こしたらしい。

「鶴見中尉殿はどちらだ!」
「は、はらわたの飛び出た不死身の杉元を馬橇で病院に運んでいます」
「二階堂は!」
「洋平が杉元に殺されました。浩平の方は暴れないように拘束して一階の厨に隔離を…」

月島は一等卒に状況を報告させながら建物の中を進んだ。階段を登ったところの一室に杉元を拘束していたようで、報告の通りのこの騒ぎというわけだ。二階堂兄弟は捕えたときから既に遺恨があったらしく、手を出すなという鶴見の命令を無視しての行動だったらしい。
杉元を拘束していたという部屋を確認しに行くと、乱闘の痕跡と血痕が残されている。

「二階堂洋平の遺体は」
「一階の居間に移動させました」

窓を見ると、鉄格子が一本ひん曲がっている。戦闘でそうなったのか。一瞬侵入者を疑ったが、こんな隙間では子供が入れるかどうかも怪しいと思い直して思考を払う。とりあえず鶴見不在の間に兵卒をまとめておかなければ、と登ってきたばかりの階段を降りていく。その時だった。

「か、火事だ…!!」

一等卒の一人が声を上げる。下り途中だった階段をひとつ飛ばしで駆け降り、声のする方向へと走っていく。居間と厨のある方向から煙が流れてきて、その様子から見て火の回りが激しいことが予測された。

「火事に巻き込まれるぞ!全員外に出ろ!」

月島が鋭い声を飛ばせば、消火活動を試みようとしていた兵士たちも手を止め、一斉に外に向かって走っていく。この建物は窓から逃げることができないのだから、消火には見切りをつけて早く逃げなければ手遅れになるだろう。

「そうだ…ミョウジさんは…!?」

自分が部屋から出ないように言いつけたのを律儀に守っているのか。火事だと言うのに、と思うも、離れにいる彼女には火事が起きているかどうかなど知る由もない。それに騒動の大きな物音で怯えてしまっている可能性だってある。

「月島軍曹殿!?」

背後で呼び止める部下の声などまるで聞こえていなくて、月島は離れに向かって駆け出した。間に合ってくれ。
飛び込んだ敷地の中で母屋の方はかなりの勢いで燃えている。全焼するのも時間の問題だろう。ここは元商店ということもあるせいか、窓には全て鉄格子がはまっている。助け出すなら入り口しか道はない。母屋の梁が一つ焼け落ちる音がした。煙が徐々に視界を奪っていく。それを吸い込まないように腕で口を覆い、月島は離れの中をナマエの部屋に向かって進んだ。
ナマエの部屋の前に辿り着き、扉を開こうとするも熱のせいなのかなんなのか、うまく開けることが出来ない。煙はどんどん離れの中に充満していく。月島は一歩下がると、勢いよくその扉を蹴り破った。

「ミョウジさん…!!」

中には逃げ遅れたナマエがぺたんと腰を抜かして床に座り込んでいた。泣きそうな顔のまま「つ、月島さ……!!」と必死に月島の名前を呼ぼうとする。

「今助ける!煙を吸うなよ!」

月島はすかさずナマエの傍によると、両脇に手を差し込んで立たせようと試みた。しかし腰を抜かしたナマエの足にはやはり力が入らず、がくがくと震えてロクに踏ん張ることもできない。

「あ、あ……ご、ごめんなさッ……」
「チッ……!息を止めていろ!!」

時間がない。彼女を走らせるより自分が抱えた方がよっぽど早い。そう判断した月島はナマエを抱え上げ、蹴り破った扉の方へ飛び出した。ナマエの小さい手が振り落とされないようにと必死になって月島の首元を掴む。
じりじり炎が広がり、真横で柱が一本倒壊した。間一髪だった。腕の中のナマエは耐えるように小さくなり、右に左にと走ってようやく外にたどり着く。危なかった。弾薬に引火していたら二人とも命はなかっただろう。

「ミョウジさん、もう大丈夫だ」
「あ、つ、つきしまさん……」

抱えたまま地面に膝をつき、ナマエにそう声をかける。彼女は恐る恐る目を開け、潤んだ瞳が月島をじっと見つめた。背後でごぉごぉと兵舎の燃える気配がする。そばには鶴見が到着していて、一等卒が報告を始めた。

「中尉殿ッ!何者かが火を……離れてください!弾薬に引火します!」
「杉元…いや、杉元一味に入れ墨を集めさせた方が効率がいいな。奴らのほうがいち枚上手だ」

ナマエが焦点の定まらない視線のまま鶴見を見上げた。周囲を見回したが杉元の姿はなく、逃げられたのか逃がしたのか、少なくとも捕えて戻ってきたわけではないことはたしかだった。

「鶴見中尉殿申し訳ありません、火の回りが早くて…中尉殿の部屋の刺青人皮を持ち出せませんでした…」
「それは無事だ」

鶴見が着こんでいた外套を半分ほどがばりと脱ぐ。その下にはいつも彼が身にまとっている刺青人皮がしっかりと着こまれている。あれはこちらが三人もやられながら手に入れたものなのだ。無事でよかった。

「おかげで暑いわ。あついあつい」

火事の原因はなんだったのだろうか。今日はナマエも厨に立っていないはずだ。誰かが釜戸を使っていたのか、火鉢か、それとも煙草の不始末か。いや、偶然にしては都合がよすぎる。不死身の杉元の伏兵か。月島が淡々と思考を巡らせていると、鶴見がその視線をナマエに向けた。

「ああ、月島。ナマエを助け出してくれたか」
「はい」
「ナマエ、こちらに来なさい。弾薬の倉庫に引火するのも時間の問題だ」

鶴見は外套を脱ぎ、ナマエに向かって手を差し伸べる。ナマエはおずおずとその手を頼りに立ち上がり、肩に外套をかけられる。鶴見がひっそりと笑った気がした。







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