08 煙火と死神


2月。北海道の冬は想像以上に厳しい。はぁはぁと手に息をかける。それでもすぐに冷えていってしまう。兵舎での生活はそれなりに順調だった。兵士たちの顔と名前も徐々に一致するようになってきたし、人数分を炊かなければいけない大きな釜の使い方にも慣れてきた。これで多少は月島の役に立てるようになるかもしれない。そう思った矢先のことだった。

「玉井班!今すぐ出ろ!」
「はいッ!!」

夕方、兵営の中が俄に騒がしくなり、何人もの兵士が装備を整えて兵営を出て行く。もうそろそろ夕食の時間だというのに、異様な緊張感に建物全体が包まれた。ナマエは夕食の支度はしなくていいと鶴見に言いつけられ、鶴見の執務室で待機をしていた。

「あ、あの……何か、あったんですか…?」
「少しね……一人兵卒の行方が知れなくなってしまっているんだ」
「えッ……!」

行方不明なんて一体誰だろうか。ひょっとして月島だろうか。彼のことはここ一週間ほど顔を見ていない。屈強な兵士たちでも誘拐事件なんかの被害者なるものなのだろうか。それとも誘拐などの事件ではなく何かの事故か、敵との交戦か。いやちょっと待て、この時代の彼ら日本軍にとって「敵」とは何か。

「鶴見中尉殿!!報告します!!」
「入れ」
「失礼します!先ほど市街地東部の川下で尾形上等兵を発見しました!!」

ひゅっと思わず息を飲んだ。その被害者とは尾形だったらしい。報告に来た一等卒はそのまま川の正確な位置や発見時の様子などを鶴見に報告していく。

「よし、私も向かう。ナマエ、今日はこの部屋にいなさい」
「わ、わかりました……」

鶴見はまるで本物の親戚の娘にするように頭を撫で、外套を手に部屋を出ていく。ドッドッドッと心臓が急速に鼓動するのを感じた。何かが始まってしまう気がする。それが一体何なのか、今のナマエには想像もつかないことだった。


低体温症で死亡する寸前で発見された尾形はかろうじて命を取り留めたが、一度意識を取り戻してまたすぐに失い、小樽市中にある陸軍診療所に入院を余儀なくされた、話によれば崖から滑落し、凍えるような川を漂ってなんとか岸にたどり着いたのだろうという話だった。
尾形は何者かと揉みあいになったのではないか。そう予測した鶴見により、発見された山に伍長の玉井が率いる班が調査のために派遣された。問題なのはここからだ。玉井率いる岡田、野間、谷垣の計四名の班が翌日になっても戻らなかったのだ。

「……四人も事故…なんてことは…ない、のかな…」

足を滑らせることもあるだろう。しかし彼はこの北海道を拠点にする第七師団だ。そうやすやすと雪山で事故を起こすものかとも思うし、玉井班の四人に関しては先に尾形の滑落の件を知っているからことさら事故には気をつけていたはずだ。屈強な兵士たちがそうも同じような場所で事故に遭うものだろうか。

「ミョウジさん、ちょっといいか」
「は、はい…!」

一人悶々と考えていると、扉の向こうから月島の声がかけられた。驚いて居住まいを正し、それから扉の方へ向かって彼を招き入れる。月島はここ二週間ほど旭川の本隊に戻っていて、顔を合わせるのはなんだか久しぶりのことのように思えた。いつの間に戻ってきていたのだろう。

「つ、月島さんお疲れ様です……も、戻ってみえてたんですね…」
「……ああ、昨日の晩にな」

月島の顔を見るとホッとする。ここ数日かなり空気がピリついていて、どの兵士もがまるで臨戦態勢とでもいうように気が立っていた。まるで何か敵と戦っているかのようだ。

「これから少し面倒な男がここで取調べを受けることになる。今日は炊事や洗濯の類はしなくていいから、この部屋を出ないでいてほしい」
「え、と、わかりました…」

ナマエが頷くのを確認すると、月島は慌ただしく部屋を出て行った。そして一時間もしないうちに兵営の中がガタゴトと騒がしくなる。月島の言っていた「取調べ」が始まったらしい。
正直な話、この世界に来てから彼らの任務を身近に感じることは初めてだった。軍人といえば他国の侵略者と戦うのが常であるが、島国である日本にそういう敵は少ない。

「取調べって…どんな人だろう…犯罪者…だったら警察に捕まる、よね?」

一人残された部屋でぽつんとこぼす。あまり日本史に明るい方とはいえない。明治時代の戦争といえば日清戦争と日露戦争が思い浮かぶが、年号まで覚えているわけじゃない。騒ぎは想像よりも大きくならず、普段にない物音が多少漏れ聞こえてくるくらいだった。
問題はその晩だ。母屋の二階で暴れるように大きな物音が鳴り響き、ナマエは部屋の隅でぎゅっと身体を小さくした。昼間に物音がしてから何時間も経っているが、まさかまだ取調べが続いているのだろうか。

「俺は不死身の杉元だッ!!」

声が大きすぎて漏れ聞こえてくる。何が起こっているんだろう。捕らえてきた人間が暴れているのか。ドタドタと兵舎中の兵士たちが母屋の二階に集まっていく気配がする。物音と雄叫びは一旦収まり、その数時間後にはまた同じ部屋が騒がしくなった。今度は表の厩舎の馬まで騒いでいる。

「ひっ……い、一体何が…」

恐ろしくて仕方がないが、ナマエに割ける余裕はないらしい。誰かを頼ろうにも今日は部屋から出ないように言いつけられている。そのうちガシャンと騒音が一旦収まり、またドタドタと軍靴が騒がしく鳴り響く。

「街で一番の病院へ連れて行け!!医者の顔に銃を突きつけてでも叩き起こして治療させるんだ!!」

鶴見の鋭い声が飛ぶ。誰かが怪我をしたんだろうか。ランプの光がぼんやりと外を照らす。鶴見のあんな声を聞くのは初めてだ。ゆったりとした逃げ場のない話し方にゾッとすることはあったけれど、こういうのは初めてだ。

「け、怪我の人…大丈夫かな…… 」

外の様子が分からないのは百も承知だけど、と思いながら窓から外を覗く。馬橇が遠ざかっていく音がした。あんなに焦って連れて行ったのだから、運ばれたのは部下の一人かもしれない。確か宇佐美は二週間ほど不在にすると言っていた。玉井班の四人はいまだ行方知れずだ。今日この兵営にいるのは二階堂兄弟、三島、小宮、それに月島…。顔を思い浮かべながら指折り数える。
馬橇が遠ざかっていって数分後のことだった。今度は母屋の方から焦げたような臭いが漂ってきた。

「え、え、うそっ……何の臭い…?」

逃げなければ。いや、逃げていいのか。しかしこれがもしも火事ではなくて兵営の中で戦闘が行われていたら自分は間違いなく足でまといになる。月島に言われた通り中にいた方が得策なのか、それとも出て行くべきなのか。出て行くなら扉しかない。部屋にある窓は鉄格子がはめられていて、窓を開けたところで逃げられない。

「な、なにか燃えてる…?ひょ、ひょっとして火事…?」

血の気が引いていく。遠くで家屋の梁が焼け落ちるような音がする。足をもう一歩踏み出した瞬間また轟音が鳴り響き、足がすくんでその場に縫い付けられた。もしも火事なら早く逃げなくては。

「ど、どうしよう…出ていかなきゃ…でも…」

がやがやと部屋の外から兵士の逃げ惑うような声が聞こえてきた。いよいよこれはまずい。火の手が回れば逃げ場の少ないこの部屋から脱出するのは非常に困難だろう。ずしん、と建物が揺れた。扉のフレームが軋む。その隙間からもやもやと煙が入り込んできた。太ももの力が抜けてしまい、ナマエはその場に座り込んだ。その拍子に入り込んだ煙を吸い込んでしまった。

「けほっ…けほっ…」

大きく咳き込む。煙を吸い込んだせいか意識が一瞬ホワイトアウトした。視界が霞む。足に力が入らなくて、がくがくと膝が震えるから立ち上がることもできない。煙がさらに部屋の中へと入り込んでくる。
もうダメだ、と目を閉じた時、部屋の扉がけたたましい音を立てて蹴破られた。煙と炎の迫る向こうから飛び出してきたのは煤まみれの月島だった。

「ミョウジさん…!!」
「つ、月島さ……!!」
「今助ける!煙を吸うなよ!」

月島はすかさずナマエの傍によると、両脇に手を差し込んで立たせようと試みた。しかしナマエの足には未だ力が入らず、がくがくと震えてロクに踏ん張ることもできない。

「あ、あ……ご、ごめんなさッ……」
「チッ……!息を止めていろ!!」

そう言うなり月尾はナマエを抱え上げ、蹴り破った扉の方へ飛び出した。ナマエは振り落とされないように必死になって彼の首元に抱き着く。じりじりと木材の焼ける音がして、真横で柱が倒壊した。
右に、左に、月島に抱えられながら燃える兵舎の中を駆け抜け、ようやくその熱気の中から抜け出す。

「ミョウジさん、もう大丈夫だ」
「あ、つ、つきしまさん……」

恐る恐ると目を開けると、顔を煤まみれにした月島がナマエを見つめている。その背後でごぉごぉと兵舎が燃えていた。

「中尉殿ッ!何者かが火を……離れてください!弾薬に引火します!」
「杉元…いや、杉元一味に入れ墨を集めさせた方が効率がいいな。奴らのほうが一枚上手だ」

兵卒の声の上がったほうを見れば、外套を着こんだ鶴見が兵舎を見上げていた。杉元、入れ墨、集めさせる…。彼らが請け負っている任務の内容か。

「鶴見中尉殿申し訳ありません、火の回りが早くて…中尉殿の部屋の刺青人皮を持ち出せませんでした…」

いれずみにんぴ。隣から聞こえてくる単語をどうにか頭の中で変換しようにも前半の「刺青」はまだしも、後半の「にんぴ」が何のことかさっぱりわからない。怯えるように冷や汗をかいて報告をする兵卒に対し、鶴見は平然とした様子で「それは無事だ」と言ってのける。そして着こんだ外套をがばりと脱いだ。

「おかげで暑いわ。あついあつい」

外套の下に着こんだものにぎょっと視線を向ける。それは皮革めいた素材に幾何学模様のような曲線と直線が描かれている。ところどころに丸に囲まれた漢字が散りばめられていて、しかしそれらが一体どんな意味を成すのかはさっぱりわからない。およそ普通の衣服には見えず、なにかぞっと冷たいものが背筋を伝っていく。
鶴見がじっと視線をナマエに向けた。

「ああ、月島。ナマエを助け出してくれたか」
「はい」
「ナマエ、こちらに来なさい。弾薬の倉庫に引火するのも時間の問題だ」

鶴見は外套をそのまま脱ぎ去ると、ナマエに向かって手を差し伸べる。驚きのあまりずっと月島に抱えられるような姿勢になっていたが、いつまでもこんな体勢でいるわけにはいかない。その手を取って立ち上がれば、鶴見は外套をナマエの肩にかけた。
少しの間も置かないうちに消防団がポンプ車を引いて現れ、兵舎の消火活動が行われた。幸い弾薬を保管している倉庫には引火しなかったものの、母屋は全焼、鶴見たちは住み替えを余儀なくされた。


新しい住まいは小樽市内の民家だった。母屋を兵士たちが使用し、小さな離れをナマエが使うことになった。あの日の火事はなんだったのか。そもそも、尾形が滑落して大けがを負ったあの日から何かがおかしい。玉井班は未だ行方不明のまま、火事のあった日だって何者かの取り調べを行っていたし、耳慣れない言葉をいくつも聞いた。

「どうかねミョウジくん。新しい住まいは」
「あ、えと…もったいないくらい、です…」
「困ったことがあればなんでも言ってくれ」

あの得体の知れない肌着のようなものはなんだったんだろう。ろくに明治時代を知らないナマエにとって「この時代ではよくあるものなんですよ」と言われればそれまでだけれど、あれにはなにかそんな言葉では済ますことのできない威圧感のようなものを感じた。

「あの…つ、鶴見中尉…お、教えていただきたいことが、あるんです…」
「なんだね」

疑問をそのまま口にするべきか。いや、自分は知らないほうがいいことなのかもしれない。知らないままで彼らに協力が出来るか?待て、そもそも自分の未来の知識を使って協力しても良いものなのだろうか。

「なんでも言いなさい」
「あ、えと……その…」

鶴見は決して威圧的な態度を取ることなく紳士然とナマエに微笑みかける。彼はナマエがここに来てから手荒に扱うこともぞんざいに扱うこともしなかった。死ぬ前よりも死んだ後の方がよっぽど人間らしい生活を送っているなんて妙なことだ。喉が渇いていく。喉と喉がぺっとりと張り付く。

「い、いれずみにんぴって……あ、いえ、その……なんでもない、です…」

ナマエはぺこりと頭を下げ、厨の方を確認するために踵を返す。鶴見がひっそりと笑みを深めた。深淵に足を踏み入れようとしていた。そのことをナマエはまだ、知る由もなかった。







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