鯉登音之進の場合

マッチングアプリ。それは出会いの減った現代人が効率よく好みの相手と出会うための魅力的なツールである。


ぴろん、通知が一件。ユーさんがイイネをしました。それをホーム画面で確認してナマエはアプリを開く。イイネを送ってきたユーさんなる人物はプロフィール画像も設定されておらず、自己紹介も三行ほど。これは良いも悪いも判断できない、ということで当然スキップだ。

「出会おうっていうのにプロフ写真載せてないのマジ意味わからんな」

思わずそうぼやき、アプリを閉じてスマホを伏せる。目の前の課題に戻ろうとノートパソコンに向かうと、じっと向かいから視線を感じた。顔を上げればじっと綺麗なアーモンド形の目がナマエを見つめている。

「…どうかした?」
「いや、何の意味がわからんのかと思って」

生真面目にそう返してくる彼は鯉登音之進。ナマエと同じ地政学系のゼミを取っている同級生だ。ナマエを悩ませるこのアプリはきっとこの男には一生関係のない代物だろう。なにせこの顔面の良さで、しかも実家は随分裕福らしい。学内でも隙あらば女子学生が彼を囲んでいるし、嘘か本当かは知らないが非常勤講師の一人が彼のことを好いていると聞いたこともある。

「鯉登には一生縁のない世界の話」
「そんなのわからないだろう」
「わかるわかる」

一年前にやっていたもっとフランクな、限定的な異性の関係のためのマッチングアプリなら鯉登に勝るとも劣らない美形が登録している事例もあったが、今ナマエがやっているのは割と真面目な交際向けのものだ。それなりに美形もいるが、やはり出会いのない環境だったり今まで出会いに恵まれなかったりという登録者が多い。語弊を恐れずに言うのなら、鯉登ほどモテるようなやつが登録するものではない。

「ゲームか?ほら、夏の特別ログインボーナスが云々と前言っていた…」
「ああ、違う違う」
「じゃあなんだ」

鯉登はしつこく聞き出そうとしてきた。彼には関係のない話だろうし面倒だからと説明を省いたが、それが返って彼の好奇心を刺激してしまったのかもしれない。ナマエは勿体ぶることでもないかとスマホを表に返し、アプリを指さす。

「これだよ。マッチングアプリ」
「まっんぐちあぷり…?」
「そ。自分の写真とか登録して、恋人探しするやつ。彼女欲しいのに写真も登録してない人って意味わからんなって独り言」

端折りに端折って説明すると、鯉登は分かったんだか分からないんだか「なるほど」と相槌を返してくる。ナマエはもう一度スマホをひっくり返し、今度こそ課題に向かう。

「ミョウジは彼氏が欲しいのか?」
「え?ああ、うん。前の彼氏と別れて一年も経つし、合コン行ってもなんか不発だし」

常に相手を途切れさせたくない!とまでは思わないが、周りの同級生は大体彼氏持ちで遊びに行く回数も減ってしまったし、一年もフリーだとそろそろ彼氏いてもいいんじゃないかという気分になった。彼氏と別れた直後に自棄になってやっていたフランクなそれと違い、サクラや業者が比較的少ない代わりにポンポンとマッチングして付き合って、というふうにはことが運ばない。相手によっては長々メッセージのやりとりをすることになるし、その途中で返事が無くなることもしばしばある。

「そうか……」
「ホラホラ、下々の世界のことはどうでもいいから課題やっちゃお」

思いのほかマッチングアプリに興味を持ってきた鯉登をそう軌道修正し、締め切りのそこそこに迫って来ている課題に二人で向き合うことにしたのだった。


このアプリを始めてから三人ほどカフェで会って話をしてみたが、三人ともなにかピンと来るものがなかった。コミュニケーション能力が低い方ではないからそこそこ会話は続くけれど、気を遣いながら相槌を打っているという気持ちが拭い去れない。出会ったばかりなのだから当然だと思う反面、そんなに気を遣う相手と付き合いたいか、と言われると返答に困る。
結論から言って、ナマエはまた会いたいと思えるような相手には出会えていない。

「うわ、雨ヤバいな…」

ゼミ棟を出ようとしたら、目の前が白むほど雨が降っていた。折り畳み傘は一応リュックに入っているけれど、この様子では焼け石に水だろう。雨が少しでも弱まるまで待っていようか。それともどうせ濡れるしと諦めて帰ってしまったほうがいいだろうか。

「ミョウジ、なんだ、傘を忘れたのか?」
「あ、鯉登。いや持ってるんだけど折り畳み。この雨じゃ無理っしょ」
「折り畳みは瞬殺だろうな」

出入り口付近に姿を現したのは鯉登だった。彼はナマエの隣に立ち、軒先の雨をじっと眺めている。

「鯉登は傘忘れたの?」
「いや、迎えの車待ちだ」
「うっわ、お坊ちゃま」
「今日はそのまま実家に呼ばれてるからな」

お坊ちゃまだなんてそんな言葉は言われ慣れているのか、鯉登は全く取り合わない。鯉登の実家は都内の大豪邸だと聞いたことがあるが、そう言えば彼は一人暮らしをしている。大学からそんなに遠いのか。普段の話を聞いている限り、専用の車と運転手くらい完備されていてもおかしくなさそうだが。

「鯉登ってなんで一人暮らししてんの?」
「は?なんだ急に」
「いや、ちょっと気になってさ。だって実家っていても都内でしょ?実家のが便利じゃない?」

ナマエがそう言うと、鯉登は一度むっとした顔になってから口を噤む。何か気に障ることでも言ってしまっただろうか。
ナマエの実家はぎりぎり関東だが、大学までの通学距離を思うと実家暮らしは現実的じゃない。そういう理由で一人暮らしをしているけれど、通える範囲に実家があるなら実家の方が楽そうだなと、一人暮らしの面倒くささの部分を思い浮かべる。

「自分で言ったことを忘れたのか?」
「え?何が?」

鯉登がそう言ってぷりぷり怒りだしてしまった。ここまでの文脈でそんな言葉で責められるような覚えが全くない。理由は分からないが、鯉登は理不尽に怒ったりするタイプではないし、恐らく気付いていないだけで自分が何か悪いのだろう。

「あー、ごめんごめん。なんか悪いことしちゃった?んだよね?」

取り急ぎ謝罪の言葉を口にすれば、鯉登はじっとナマエを見下ろした。身長差もあるし、美形の真顔だし、これはかなり迫力がある。

「付き合うなら実家暮らしの男は嫌だと、お前が言ったんだろう」
「え?そんなこと言ってな───言ったわ」

鯉登から飛んできた思いもよらない発言に一度とりあえず否定をしようとして、その間に自分の過去の発言を省みて結局肯定をする。なにもここ最近という話ではなく、元カレとも出会う前の話だったような気がする。
そこまで深いこだわりがあったわけではなくて、何となく一人暮らしでしっかりしてる男子っていいよね、みたいなそんなノリの発言だったように思う。

「いや、言ったけどそんなの人それぞれの好みじゃん。世の中の女の子がみんな彼氏は一人暮らしじゃなきゃって思ってるわけじゃないし」

というか、鯉登の場合は一人暮らしだろうが実家暮らしだろうが関わりなく女は寄ってくるのではないかと思うが。なだめるつもりでそう言ったが、鯉登のヘソは曲がったままのようだ。
そのときスマホの震える音がして、鯉登がごそごそとポケットからスマホを取り出した。迎えの車が到着したのだろうか。

「お迎えきた?」
「いや。来たのは迎えじゃなくてイイネだ」
「は?」

大真面目に鯉登がそう言うものだから思わず短音が漏れた。SNSの類は苦手だからやっていないと言っていなかっただろうか。SNS以外のイイネってなんだ。そうぐるぐる頭で考えていたら、鯉登が「ハァ」とため息をついてスマホのディスプレイをずいっと見せてきた。

「このアプリ役に立たん。全然マッチングしない」
「はぁ!?あ!?なんっ…で鯉登がやってんの!?」

思わず出した大声が玄関口に必要以上に響いた。鯉登の差し出した画面には間違いなくマッチングアプリが表示されている。同性のプロフィールは原則見ることが出来ないので「女の子のプロフィール並んでるとこんな感じなんだな」とどこか冷静な頭の片隅で考える。この画面を開いているということは、間違いなく鯉登がこのアプリをやっているということだ。

「よく分らんがイイネが毎日届く」
「え、まぁ鯉登イケメンだしね」
「イマイチ使い方がわからん」

ぷりぷりと怒っていた空気はいつの間にかなくなっている。が、それよりも何故鯉登がマッチングアプリなんぞを始めているのかという疑問で埋め尽くされていく。興味本位でというのならSNSの話をした時にでも食いついてきそうなものだというのに。

「気になる子いたらイイネ返せばいいじゃん」
「別にいない」
「え、うーん…じゃあ自分が良いなと思った子にイイネしてみるとか…」

イイネが毎日届こうがその中に気になる女性がいないのならば仕方がない。イイネが来たなかから必ずしも選ばなければならないわけではないし、自分から選びに行くのもひとつに手だろう。しかし鯉登はなにか得心がいっていないような様子だった。

「ミョウジにはどうやったらイイネ出来るんだ?」
「は?」
「お前がいないか少し探してみたんだがさっぱり見つからなくてな」

一体何を言っているんだろう。そう思いながらも口からは冷静に「個人特定して検索とかIDで検索とかできないから…」と探しても見つからないという鯉登に答えを与える。

「そうか……これを使えばミョウジとマッチングできるのかと思ったんだが」
「いやいやいやどういうことよ。てか普通リアルの知り合い見つけちゃったらスルーでしょ!」
「どうしてだ」

じっと真剣な顔が返ってきた。別になにかからかってやろうという意図ではないのは明白だし、そもそも彼はそういう男ではない。そうなれば導き出される答えはナマエの中で「まさか」と思っている可能性のみであり、顔にカッと熱が集まる。

「や、てか…ならアプリとか使わなくても、いいじゃん…」
「そうなのか?」
「……そうだよ」

自分で言っておいて恥ずかしくなってきて、ナマエはもごもごとなんとか返す。すると鯉登のスマホがまた鳴って「イイネ届いたの?」と聞けば今度は迎えの到着の連絡だと返ってきた。

「乗っていくだろう。家まで送る」
「…うん」

自宅まで送ってもらうまでの道中、アプリで彼氏を探しているのだからアプリを使わなければ付き合えないと思った、なんて冗談みたいな話を聞かされて、むず痒いやらおかしいやら嬉しいやらで感情がぐるぐるかき混ぜられる。
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