08 Help me


ナマエが姿を消した。行き先に心当たりはない。そんな中でも当たり前に仕事はあるわけで、神々廻は変わらず現場と殺連とセーフハウスの三角移動を続けていた。彼女の提案もいままでのこともすべてハニートラップで、自分から逃れるための作戦だったのかもしれない。ナマエがいなくなった今、それが最も整合性の取れた仮説であり、考え得る中で一番現実的なものだった。

「神々廻さん、いまの曲がり角、右」
「ん?ああ、せやったな」

何も変わらない。変わらないと言い聞かせても注意力は散漫になった。べつに、彼女が来る前に戻っただけだ。女に騙されたというレッテルは貼り付くが、生活は変わらない。今までひとりでしてきた日々の営みをひとりでこなす毎日に戻るだけ。変わらない。変わらないはずだ。

「神々廻さん…いまの交差点、左…」
「…おん」

自分へさんざん言い聞かせている言い訳には相当無理が生じていた。現場での失敗こそしていないが、普段フォローするはずの大佛にフォローされているというシーンが何度もある。いまだってカーナビをつけているのに曲がり損ねた。当然大佛にもかなり訝しまれていて、流石に誤魔化すのも難しい。

「あっ」

大佛が短く声を上げる。カーナビがリルートを開始して、新しい順路を案内する。神々廻は自分がまたしても案内されている道を間違えたのだと理解した。大佛の視線が痛いくらいこちらを見つめ続けている。

「神々廻さん、今日も調子悪いね」
「……すまん」

もう謝るしかできなくて、神々廻は大きなため息とともに謝罪を吐き出した。神々廻が訝し気を通り越して心配そうな視線を投げる。一番行動を共にすることが多い大佛なら、いかに彼女が他人に対して無頓着であっても気がついて然るべきである。

「神々廻さん、なにかあった?」
「べつに…」

誤魔化せていないとわかっていてもナマエに逃げられてへこんでいるなんて本当のことを言うのは憚られる。状況を簡潔に言語化すればするほど自分の悩みが大したことのないもののように聞こえるからそれもまた腹立たしい。
大佛が「ナマエちゃん…」と核心を突きそうになってきたものだから「次のコンビニで休憩しよか」とあからさまに話を逸らした。今日は新作アイスで誤魔化されてくれたが、こんなのだっていつまでもは続かない。


自然とナマエと過ごしたセーフハウスに足が向かった。癖づいてしまっていて、当然のように「ただいま」と声をかけてしまう。もちろん駆け寄る足音も「おかえり」の返事もない。暖かく感じられた空気もなければ、腹の虫を誘うような料理の香りもなかった。

「……は、なにしてんねん」

自嘲が漏れる。もしかしたら彼女が帰って来るんじゃないかと、ありもしない可能性に期待している。愚かしい自分にため息が出る。
本当に、ハニートラップにかかったのだと割り切ってしまえたら良かった。そう決めつけて割り切れないのは、彼女が最後を覚悟したように抱いてくれと言ったこと、そして残していった「ごめんね」の書き置きが引っかかっていたからだった。
身体を使って籠絡しようという腹なのなら、もっと早く誘惑してきたはずだ。しかしそうではなく、まるで最後の思い出でもねだるかのように「わがまま」と称した。

「ナマエ」

返事などないとわかっていても、この部屋で彼女の名前を呼べばうっかり返事が投げられてきそうな気になった。自分だけの声が反響する部屋で何もする気になれず、ベッドルームに足を運ぶとベッドメイクもする気のないそれに大の字に寝転がる。いつも通りの天井が広がっていた。このベッドでナマエを抱いた。傷だらけで美しい身体は甘やかで、痺れるような感覚が芯のような部分に残っている。

「……あかん」

ダメだ、この部屋には彼女との思い出が多すぎる。神々廻はベッドの上から起き上がると、髪をくしゃりとかきあげた。ここは随分前から借りていて、ひとりで過ごした時間のほうが圧倒的に長いはずだ。なのにもう、彼女の存在が染みついて消すことができない。


彼女が姿を消して一か月。ナマエがいないと思うと、セーフハウスに帰るのもだんだんと億劫になった。殺連の近くに借りている小さなアパートにばかり籠るようになり、食生活もだいぶすさんでいる。むしろナマエが来る前の生活よりも不健康になった。
カップラーメンをすすりながらスマホを確認するが、ナマエからの連絡はない。いや、そもそも彼女を拘束した際に通信機の類は収集して破壊していたし、その後買い与えてもいないのだから神々廻の連絡先さえ知る由もないのだが。

「あほくさ」

未練たらしくぐるぐる考えている。彼女から姿を消したのだ。逃げられたのだ。次に見つけたときは殺さなければいけない相手なんだから、いっそこのまま会わないほうがいいのだろう。何も成長できていない。甘さでターゲットを逃がすのは一度目ではなかった。
考えたくもないのに、ひとりでいると考えてしまう。今まではひとりの時間をどうやって過ごしていたんだったか。それさえ思い出せなくなって、なるべく詰めて任務を入れるように
していた。

「神々廻ー、顔色さいあくだね!」
「ア?」
「あはは、目つきも悪ぅ」
「生まれつきやボケ」

殺連関東支部で任務の間の所用を済ませているところを南雲に捕まった。南雲はからかう気満々という態度だし、どうせ神々廻とナマエのあいだに何かがあったのだろうということは察しているに決まっている。

「ねぇ、原因当てたげよっか」
「いらん」
「ナマエちゃんでしょ」
「いらんつったやろが、殺すぞ」

じとりと凄んでみても効果があるわけがない。それどころか南雲は「あはは、あたりだ」と愉快そうに笑った。いや、そもそもこの男の相手をしたのが悪かった。もうこれ以上は無視を決め込んでやるしかない。神々廻はもう取り合わないぞ、という姿勢を見せ、黙ってタブレット端末に向かう。

「ねー、なんでわかったか教えてあげよっか」

煽る南雲を無視する。タブレット端末には次の任務の詳細情報が出ていて、そこには三年前に規定違反をして殺連を追われた殺し屋の情報が表示されていた。つまらない任務だ。とりあえず時間がかかりそうな任務をやって気を紛らわそうとして、現場を遠いところにして、だから香川だった。これはかえって移動時間にあれこれと考えてしまうかもしれない。

「神々廻、教えてほしい?」

これからはもっと関東圏で済むような任務にしよう。一件一件に時間がかかるのは結構だが、移動で時間を食うなら頭の中は暇になってしまうのだから同じことだ。隣で駄々をこねる子供のように南雲がグルグル椅子を回転させる。目障りだが、取り合うともうどうせ止まらなくなるに決まっている。

「ねーねー、知りたくないのー?びっくりすると思うんだけどなぁー?」

視線を一瞥もくれていないのに南雲は「ねーねーねー」とやかましく続け、ピクピクと瞼が痙攣した。タブレットを操作する手に力が入り、本体が小さくミシッと鳴った。まずい、これの弁償は避けたい。南雲が神々廻の前に回って、強制的に視界にカットインしてくる。タブレット越しに煙たげな視線を少しだけ向けると、にんまりと笑みを深める。

「蓮東会のメンツが雁首揃えて密入国してきたらしいよ」
「…は?」
「日本で何しようとしてるのかわからないけど、下手に刺激したら蓮東会の母体である三令会との抗争に発展しかねない。上からの指示は現状監視だけど、さて蓮東会は何しに来たんだろうね?」

飛び出てきた言葉に思わず反応してしまって、南雲があからさまに「かかったな」と悪い顔を浮かべる。蓮東会が何をしに来たのかわからないが、まさかナマエを直接手にかけに来たのか。真相はわからないけれど、連中を始末する千載一遇のチャンスだ。いや、ナマエがいなくなった今そんな必要はない。だけど。

「連中の動向次第では僕が動くように指示受けてるんだけどさ、もしも連中がORDER狙って仕掛けて来たって展開になったら…返り討ちにしちゃうのは、仕方ないよね」

にっぱーっと南雲が満面の笑みをみせた。何を言おうとしているかなんて馬鹿でもわかる。神々廻はタブレット端末を反転させて南雲に表示された任務の内容を見せ、トントントンと指先で画面を叩く。

「南雲、お前、うどん食いたない?」
「本場のうどん美味しいよねぇ」

神々廻が右手を差し出すと、南雲もスッと手を出して固く握った。交渉成立だ。蓮東会潜伏の場所は隣県の港湾の廃ビル。ここから小一時間でつくだろう。移動距離が短いから、面倒なことは考えなくて済みそうだ。


ナマエがいなくなったと言っても、蓮東会の連中が秘密裏にORDERへの刺客を放っていたことは事実である。もしもうっかり鉢合わせてうっかりこちらの安全が害されるようなことがあれば、それには然るべき対応というものが必要だ。
本音を言えばナマエの手がかりを探していたし、彼女が本当にハニートラップのために自分に近づいて来ていたのかどうかを確かめたい気持ちがあった。女々しいことだと自分でも笑えてくる。しかしもうこれには後がないのも確かなことだった。ここで彼女を探さなければ、もう二度と会えなくなる。そんな確信めいた予感がある。

「はぁ、埃っぽくてかなわんな。ホンマなんで殺し屋ってこういうカビ臭い場所に集まりたがるんやろなぁ」

港湾地区の倉庫に隣接する廃ビルのひとつ。南雲から潜伏先として伝えられたそこに足を踏み入れ、神々廻はたらたらと文句を垂れる。ビルは随分な築年数であることと、そもそも長期間にわたり使われていないことでかなり劣化が進んでいた。内装らしい内装はすべて朽ちていたし、ボロボロの長机やクッションのはみ出たパイプ椅子が転がっているのが関の山という具合だ。

「……奥か」

以前この蓮東会の前身の組織である蓮千会とは戦闘に至ったが、そもそもその母体の三令会は喧嘩気質の組織ではない。本国では殺し屋業の側面もあるが、どちらかと言えばそれらを食い物にするビジネスを中心にしている組織である。上は衝突を懸念して様子を見ろと指示を出しているようだけれど、正直なところ、当時蓮千会を始末したところで三令会は知らぬ存ぜ部を通して切り捨てたのだ。三令会本体との抗争に発展していたらあの規模では済まなかった。今回だって同じことが起こるに決まっている。
足音を消したまま一番奥の、恐らく倉庫部分とシャッターで繋がっているだろう部屋を目指した。人の気配がある。いち、に、さん、よん。何人でもいい。数は死体になってから数える。証言者なんてひとりで充分だ。神々廻は勢いよくドアを蹴破った。

「誰だ!?」
「邪魔すんで」

懐から銃を取り出してヘッドショットを決める。サプレッサー付きの銃にしているのは、単純に大きい音が耳障りだからだ。神々廻は三人の頭を打ち抜き、残りのひとりの首に金槌をぐっと当てたまま尋問を始めた。

「お前ら、蓮東会のもんやな?」

神々廻の問いに対して男は無言を決め込んで、神々廻は口を割らせるために金槌の釘抜の方を力づくで喉にめり込ませていく。みしっと醜い音が鳴って喉が潰れていく。ぐぇえ、とカエルの潰れるような呻き声をあげる。

「ウッ……お、おれたちはなにもっ…!」
「何もしてへん警戒の仕方ちゃうやろ。なに目論んどってん」
「む、向こうの倉庫で女を始末してる…!俺たちの組織の女だ!お前たちには関係ないッ!!」

ぴくりと指先が痙攣するように動いた。手掛かりどころか生きない大当たりじゃないか。神々廻は無意識のうちに自分の口角が上がるのを感じる。

「大ありや、ボケ」

神々廻はそのまま金槌で男の首をねじり切り、地を浴びてしまわないように身を翻して倉庫のほうへと急いだ。閉じられたシャッターの隣に朽ちかけた木製の通用口がある。それを蹴破るべく足を上げた。この先に彼女がいる。ナマエの失踪の真相なんて、彼女を拷問しているだろう男を殺してから聞き出せばいいことだ。






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