星呑む子 01


ナマエの新居は1LDK、駅から徒歩5分の風呂トイレ別独立洗面台付き。築年数は多少古いが、リフォームをして間もないのかさほどそれは気にならない。この充分すぎる住まいが家賃不要だというのだから驚きである。
ナマエは黒いスカートに白いシャツを着て、洗面台の前で前髪をちょいちょいと整える。ヒールの低いパンプスに足を滑り込ませ、ドアを開けて部屋を出ると鍵を閉めた。さて、本日も元気に出勤である。
ナマエは階段をコツコツと一階分降りて、木製の扉をかちゃりを開ける。五条探偵事務所。ここがナマエの新しい職場であり、同ビル三階が新しい住まいだった。

「おはようございます」

中に声をかけてみるが、五条の姿はなかった。始業時間まではまだ五分ほどある。とりあえず事務所の換気と応接セットの掃除をしよう。窓の鍵を開けてがらがらがらと開けば、外からの心地いい風が入り込む。駅がそれなりに近いから、サラリーマンや学生が忙しなく行きかっていた。

「はぁ…探偵事務所って言ってもなぁ」

転職して三週間、依頼らしい依頼はまだ来ていない。ここは探偵事務所と言っても普通のそれではなく、依頼人から生前受けた依頼を死後に遂行する「遺言探偵」である。依頼が舞い込むということは誰かが亡くなったということだからある意味良いことのように思えるが、商売としてはかなり危ういのではないだろうか。ここの給料はとりあえず前の会社の1.5倍と聞いている。そもそも前の仕事だって高給取りというわけではなかったが、明らかに探偵事務所の方が閑散としているわけだし、こんなことで給料は満足に支払って貰えるのか不安で仕方ない。
換気を終えたあたりでコンコンと扉をノックする音が聞こえ、こんな朝早くから依頼人だろうかとドキドキしながらも、襟元を正して出迎える準備をする。「どうぞ」と声をかける前に扉が開く。

「おはようございます。五条さん。今週の資料持って来ました」

訪問者は男。地味なスーツ姿でアタッシュケースを持っている。眼鏡をかけていて、顔は少し疲れているように見えた。まさかナマエがいるとは思っていなかったのか、目を眼鏡の向こうで目をパチパチと瞬かせていた。

「え、と……?」
「お、おはようございます…?」

お互いに探り探りという有り様で、次の言葉を探していた。沈黙が流れる。彼の言った「五条さん」「今週の資料」という発言から、目の前の彼が恐らく依頼人などの客人ではないことは推察できた。

「えーっと、五条さんは不在みたいで……」
「ああ、じゃあどこかで甘いものでも買ってきてるんでしょうね」

ナマエよりも目の前の彼のほうがよっぽど五条のことを心得ているようだ。五条からは聞いたことがなかったが、彼はここの先輩社員なのだろう。自己紹介をしようと口を開くと、またしても扉がかちゃんと開かれる。

「ナマエちゃんおはよーってアレ、伊地知じゃん」
「おはようございます。今週の資料です」
「ん」

扉を開けたのはこの探偵事務所の所長、五条悟である。手には某カフェチェーン店のスイーツドリンクが握られていた。なるほど、甘いものとはこれのことか。眼鏡の彼の予想は大当たりというわけだ。

「五条さん、彼女が例の?」
「ああ、そうそう、こないだから働いてくれることになったナマエちゃん」

五条が眼鏡の彼に向かってそうナマエを紹介して、ナマエはぺこりと会釈をした。彼には従業員が増えるという話はしていたのだろう。働き始めてまだ短いが、この事務所は従業員がこんなにも必要なのか。いや、むしろ足りていたところにナマエが無理やり入った形になってしまったんだろうか。

「初めまして、伊地知といいます。よろしくお願いします」
「ミョウジです。ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、よろしくお願いします」

男──伊地知が名乗り、ナマエも同じようにして名乗る。五条が間に入って「伊地知にはどんな迷惑かけてもらっても大丈夫だから」と冗談か本気かわからないことを言って、隣で伊地知が「五条さんより迷惑をかけるなんてことは早々できないと思いますよ」と、これまた冗談か本気かわからないようなことを返す。

「あ、そうだ。伊地知このあと戻るだけでしょ。ちょっと駅前のコンビニでプリン買ってきてよ」
「いや、私も仕事が…」
「いいじゃんいいじゃん。三人分」
「はぁ、わかりました」

ナマエをほったらかしにそんなやり取りが行われ、伊地知はアタッシュケースをデスクの脇に置くと入ってきたばかりの扉からまた出ていく。この事務所で五条以外の人間と遭遇したのは今日が初めてだ。

「おはようございます。私以外にも従業員がいるなら教えといてくださいよ」
「伊地知は僕の秘書みたいなもんだからここの従業員じゃないよ」
「え?秘書なんですよね?」
「うん。僕の個人的な秘書みたいなもの」

個人的な秘書ってなんだろうか。執事のようなものか、いや、現代日本ではなかなか聞いたことのない表現だ。コーヒーを淹れようかと給湯室に立つと「伊地知にやらせるからいいよ」と飛んでくる。プリンを遣いっぱしられた上にコーヒーまで淹れなきゃいけないなんてとも思ったが、五条が「いいからいいから」と強く言うので仕方なくナマエの指定席と化しつつある応接セットのソファに腰かけた。

「ナマエちゃんどう?仕事慣れた?」
「慣れたというか、依頼が一件もないので慣れたか慣れてないか自分でもわからないんですが…」
「あはは、そうだったね」

五条はのほほんとのん気な様子だ。依頼に対する姿勢や判断力なんかは先日間近で見たのだから疑っているわけではないが、商売っ気がないというか、経営者としては能力が些か心もとないのではないか。
そんなことを考えているうちに伊地知が戻ってきて、五条が指示する間もなく給湯室に立ち、コーヒーを淹れる準備を始めた。なんともよく教育のされていることである。

「ミョウジさん、砂糖とミルクは入れますか?」
「あ、はい」

給湯室からコーヒーのいい香りが漂ってくる。伊地知は三人分のコーヒーを手に応接セットん運び、デスクのでラップトップを眺めていた五条もナマエの隣に腰かけ、大の大人が三人雁首揃えてプリンとコーヒーを囲むという何とも職場らしからぬ有り様になる。

「いっただきまーす」

五条が嬉々としてプリンを口に運び、ナマエと伊地知もそれに続いた。昨今はコンビニスイーツも馬鹿にできない。そりゃあ高級パティスリーとまではいかなくても、ちょっとしたご褒美には打ってつけである。

「そうだ、五条さん例の件ですが…」
「ああ、それなら先週片付いてる。USBに諸々入ってるからあとはいつもどおりに」
「承知しました。ではいつもの通りに進めておきます」

五条と伊地知のやりとりは以心伝心というか、昔からの慣れた雰囲気を感じる。立ち入れないようなその完成された雰囲気に少し気後れした。いや、ナマエなんてまだ出会って間もないのだから、彼らのように出来なくて当然なのだが。邪魔にならないように黙ってプリンを口に運んでいると、その様子に気が付いた伊地知が気を利かせて話を振った。

「ミョウジさん、三階の住み心地はいかがですか?」
「あ、快適です。一人暮らしには充分過ぎるくらいで…」
「そうですか。それは良かったです。エアコンとか水回りとか何かトラブルがあれば言ってくださいね」

ありがとうございます、と返してみたが、あの物件の管理は伊地知の仕事なのだろうか。社宅ということで転がり込んだ時には五条があれこれ説明をしてくれただけで、大家らしい大家には会っていない。

「伊地知、エアコンの取り付け工事から簡単な水回りの修理まで大体できるから。夜中でも呼び出して良いよ」
「えっ、凄いですね!?」
「いや、夜中は勘弁してほしいんですけど…」

何故だか五条が自慢げにそう言って、はははと伊地知が笑う。ナマエに出来るのは家具の組み立てくらいのものである。水回りやエアコンの取り付けが出来るのなら、現場系の資格か何かでも持っているのだろうか。
あれこれと話しているうちにプリンとコーヒーを平らげ、五条と伊地知はまた二人にしか分からないような指示語ばかりの以心伝心のやり取りをいくつか繰り広げた。そのすきにカップを回収し、給湯室で洗っておく。

「じゃあまぁそっちは任せるから。ハンコ必要な時は適当に押しといてよ」
「そんなこと出来るわけないでしょう…」
「冗談だよ。で、収支報告は?」
「来週には上がります。出来次第メールでお送りしますので」
「りょーかい」

少し会話は漏れ聞こえるけれど、食器を洗う水の音で明確には聞こえない。そもそも他人の会話に聞き耳を立てるものではないのだから、いいといえばいいのだけれど。蛇口を捻って水を止めるころには、伊地知が帰り支度を始めていた。

「ミョウジさん、私はそろそろ失礼します」
「あ、はい。お疲れ様です」

律儀にナマエにまでそう声をかけ、伊地知は事務所をあとにした。五条の個人的な秘書だなんて言っていたけれど、このまま事務所にいるというわけではないらしい。あくまでこの短時間の印象だが、自由奔放な五条に振り回される苦労人の伊地知、というイメージが頭の中で出来上がる。

「さーて、伊地知も帰っちゃったし何からやろうかなぁ」

うーん、と五条が伸びをした。ナマエが入所して三週間、まだ依頼は一件もない。五条はなにやらラップトップを見ているが、どんな作業をしているのかはナマエの知るところではなかった。
右側のキャビネットは自由に開けることを許されているので、せめていままでの依頼がどんなものだったのかを勉強しようかとファイリングされたそれらを読み込んでいく。なくした指輪を探してほしい。音信不通の弟に自分の死を知らせてほしい。秘密の金庫の中身を誰にもわからないようにして秘密裏に捨ててほしい。依頼の内容は様々だった。
一体これからどんな依頼をこなすことになるのか。未経験者オーケーなんて言われているが、自分に現場が務まるのだろうか。

「あ」

紙をめくる音ばかりの聞こえる静かな事務所内に五条の小さな短音がやけに響いた。何だろう、と思って五条のほうを見ればちょいちょいと軽く手招きをされる。それに従ってデスクに近づけば、画面を見るように五条が指をさした。

「……故人の遺言による調査依頼……これって…!」
「やったねナマエちゃん、初仕事だよ」

メールの中身は紛うことなき五条探偵事務所への依頼である。ついにこの閑古鳥の鳴くばかりの探偵事務所にも仕事が舞い込んできた。


五条探偵事務所 御中

突然のご連絡を失礼いたします。禪院恵と申します。
先日拙宅の当主である禪院直毘人が永眠し、その折の遺言状により、生前貴所へ依頼を差し上げていたことを知りました。私どもとしましては故人の遺志を尊重したいと考えております。
お忙しいところ恐縮ではございますが、一度ご連絡を頂戴出来ますと幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。

禪院恵



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