小説家・夏油傑の事件簿 10


12月初旬某日。ナマエは白本を手に夏油のアパートに向かった。白本とは、まだ装丁の施されていない状態の素のままの書籍のことである。いわばプロトタイプのようなもので、発行前に白本や、まだ製本されていない本文のままのゲラと呼ばれるものを関係者に配り、販促活動をするのである。
千駄木の駅で下りてお馴染みの坂道を上っていく。今日は原稿の督促が用件ではないから、足取りがいつもより軽いのはそのせいかもしれない。築年数が自分よりも遥かに年上だろうアパートの一階の角部屋で足を止めると、旧式な音符マークのついたインターホンを押す。音が鳴らないから、まだインターホンは修理されていないらしい。コンコンコンとドアを直接ノックすれば中から「空いてるよ」と夏油の声がかけられた。

「ミョウジです、お邪魔します」

ドアノブを回して扉を開くと、今日はかろうじて寝起きではない程度にだらしのない格好をした夏油が居間でひらひらと手を振っていた。靴を脱いで揃え、もはやナマエの専用と化しているスリッパをはいて部屋に上がった。

「夏油先生、白本上がってきたので取り急ぎお持ちしました。馴染みの書店員さんにお配りして帯のコメント頂こうと思ってます」
「ありがとう。評判はどう?」
「めちゃくちゃ良いですよ!連載の時から良かったですけど、今回はいつも以上に白本のご依頼本当に多くって」

編集や営業の伝手で馴染みの書店員にゲラや白本を読んでもらって発売時の帯のコメントを書いてもらったりするのはよくあることだった。今回も御多聞に漏れずそのパターンで、営業担当がせっせと各店舗を回っている。

「これ良かったら。新宿御苑のタルト専門店のなんですけど、美味しいのでオススメです」

手土産の箱をひょいっと持ち上げて見せて、そのままいつもの調子でキッチンの洗い場に置きっぱなしになっているコップを手際よく洗っていく。「コーヒー淹れましょうか」と声をかければ「ああ、頼むよ」と予想通りの返事があった。

「ミョウジさんの買ってきてくれたタルトいただこうか」
「はい。一緒に準備しますね」

皿を戸棚から取り出してタルトをそれぞれ用意して、コーヒーと共に居間のテーブルのところへ運んだ。このテーブルは作業用のものではなくて食事をとったりするためのもので、取材に使っただろうメモが乱雑に置かれている。

「あれ、夏油先生、これまた取材ですか?」
「ああ。桜のほとりだってシリーズになるかわからないしね。面白いことがあれば取材は欠かさないようにしないと」

メモをひょこりと覗くと、そこには『真海伝道会』だとか『浦廻様』だとか耳慣れない文字が並んでいる。「それ、悟のとこの話聞いたやつでさ」と説明が付け加えられた。中には『洗脳』なんて物騒な文字も並んでいる。

「随分特殊なお仕事受けてらっしゃるんですね…」
「まぁ、それに限っては警察も絡んでるやつだから、特に珍しい案件みたいだったけれどね」

そういえば最近面倒な案件多そうなんだよなぁ。と夏油がぼやいた。サクラコの話を断片的に聞いたときから思っていたが、相当特殊な探偵なのだろう。これならネタには事欠かないだろうな、と職業病が頭の中をよぎる。

「来週そこの助手の子に取材させてもらう約束してるんだ」
「ああ、前に話してらした女性の方ですか……夏油先生、妙なトラブル起こさないで下さいね?」

確か若くて可愛らしい女性だと言っていた気がする。ナンパなタチが相当強い担当作家にじとりとした視線を向けた。

「おや、嫉妬してくれるのかい?」
「何言ってるんですか。取材を口実に呼び出してるんですから何かあったらクレームになりかねないし、親友の好きな女性に手を出して泥沼三角関係なんてやめてくださいよって心配です」

いつもの調子でふざけたことを言う夏油に釘をさす。さすがにそこまで信用していないわけではないが、取材だと呼び出して強引な聞き取りをして裁判沙汰のトラブルに発展した例は編集部に腐るほど蓄積されている。プライベートなら口を出すことでもないけれど、取材を口実にしているのなら別である。

「安心してよ。さすがに親友の彼女寝取る趣味はないし、そこまで女性に困ってるというわけでもないしね」
「それなら結構ですけど」

多少失礼な物言いをしてもどこ吹く風で対応してくれるのは、彼の元々の性分と今まで築いた信頼関係のおかげだろう。最初はこのナンパで自由な作家にどう接すればいいものかと悩んだものだけれど、今ではお互いの適切な距離感というものが測れるようになってきていると思う。夏油が皿に盛ったタルトを口に運ぶ。

「あ、このタルト美味しいな」
「気に入っていただけて良かったです。このピスタチオのタルトが一番の売りらしくて」
「へぇ、そうなんだ。クリームチーズが甘すぎなくてちょうどいいね」

良かった。あまり甘いものが好きというわけではない彼にタルトの差し入れを持ってくるのは少し迷ったのだけれど、最近見つけて特別美味しい店のものだったから、食べて気に入ってくれたら嬉しいと思っていた。

「夏油先生、桜のほとりですけど、シリーズ化の話通りそうなんです。次のお話書いていただけそうですか?」
「本当かい?いやぁ、構想は多少あったからすぐにでも取り掛かれるよ」
「助かります。よろしくお願いします」

夏油の色よい返事にホッと胸をなでおろす。昨日の編集会議でも桜のほとりはとても評判が良くて、是非続編をという声が編集部の中でも強かったのだ。連載時の評判も良かったが、好評が好評を呼んで書店員の中でも発売前から話題になり、今回は白本の依頼がいつもの倍以上あった。

「連載開始の時期が決定したらまたお知らせしますので、シリーズタイトルを考えていていただければと思います」
「ああ、わかったよ。シリーズタイトルかぁ」

心なしか夏油は少し楽しそうに見えた。ナマエとしても夏油のシリーズ連載の原稿を扱うのは初めてのことである。こちらとしても気合が入るというものだ。ひょっとしたら小説家夏油傑の代表作のひとつになるかも知れない。

「夏油先生、さっきおっしゃてた次回作の構想って少し聞かせていただくことは可能ですか?」
「ああ、もちろん。令嬢が助手になって初めての依頼。舞い込んできたのは心中した息子を探してほしいという依頼。故人をどう探せというのかと彼女は不思議に思ったが、探偵はなんの躊躇いもなくその依頼を受けると決める。舞台は群馬県の山奥の集落、依頼の調査に向かった探偵たちの目の前で殺人事件が起きて……という具合さ」
「群馬ですか。必要な資料があればまた仰ってください。すぐにご用意しますので」

あらすじを聞いているだけでワクワクする。続編ということで、一作目の期待とそれを裏切られてしまうかもしれないという不安が読者の中でもないまぜになっているはずだ。実際問題、一作目の方が良かったと言われてしまうシリーズ作品は少なくない。とくに最近よく囁かれるのが、作中の恋愛要素の落とし込み方の加減である。どこをターゲットにするかによってそのあたりの加減を決めていかなければならない。

「あの、夏油先生、シリーズのターゲットってどうお考えですか?バディものですし、客層の線引きを曖昧にしたままにするとブレてしまうかな、と思いまして」

こういう話は早い方がいい。出来る限り作家の意向は尊重する方向だけれども、こちらとしては把握できている方が有り難い。

「うーん、広く捉えてもらえるようによくある曖昧なカンジでもいいと個人的には思うんだけどね」
「だけど?」
「モデルがバレたらそうはいかないと思って」

モデル?と言葉尻を聞き返す。この作品のモデルと言えば、例の親友の探偵とその助手である。マイペースで自由な夏油に好き勝手な注文をつけられるなんて、まったくとんだ逸材である。

「じゃあ、ロマンスの要素にも少し振っていきましょうか」
「ああ、そうしよう。私もロマンスはあまり書いたことがないから、新鮮でいい刺激を得られそうだ」

夏油の作風は恋愛の絡む描写が多くない。作品の中で愛憎劇などはあるけれども、主人公にきっちりと健全な恋愛の描写を持たせるのは初めてのことなんじゃないだろうか。そもそも男女バディだって初めての試みだ。
今までの作風を好んでいる層からすれば、変な方向に舵を切ったと思われかねない。作品の力で殴るのが最も有効な手段だけれど、そもそも手に取ってもらえるようにお膳立てしていくのは自分たちの仕事である。

「そうだ、夏油先生、年始のパーティー出られます?出欠取ってくるようにとお達しがあったんですけど」
「毎年恒例の新年会ね。まぁそうだな…今年は他の賞レースの類いの集まりにも参加してなかったし、新年会くらいは参加しておこうかな」
「わかりました」

編集部のお達しのひとつだった新年会の件を確認して、手元のスマホにたぷたぷとそれを入力した。一年前の新年会のことを思い出す。吊るしのスーツでは寸法が合わないからと彼はいつもオーダーメイドのスーツを仕立てて身にまとっている。何でもわりと着こなしてしまうけれど、スーツ姿はまた格別だった。
そういえばオーダースーツ然り高そうな時計然り、そこそこの収入を得ているはずの夏油は一体どうしてこんな古くて狭いアパートに住んでいるのか。別に他人の私生活なんだからと思うと同時に、服や時計にかけられる金があるのならせめてあの旧式な音符マークのついたインターホンのアパートくらい卒業すればいいのにとも思う。

「夏油先生、失礼なことお伺いしても良いですか?」
「ああ、構わないよ。ミョウジさんからの質問なら何でも大歓迎さ」

夏油がタルトをまた口に運び、閉じた唇を小さく動かしながら咀嚼をする。気になってしまったものをそのままにしておくのはあまり好きではないし、お言葉に甘えてこの勢いのまま聞いてしまおう。

「あの、夏油先生って、どうしてこのアパートに住んでらっしゃるんです?荷物も多くて手狭に見えますし、なかなか、その、年季の入ってる物件ですし…」

流石に「何でしっかり収入あるのに狭いボロアパートに住んでるんですか」とは聞けなくて、なるべく婉曲表現で言葉を選ぶ。もっとも、目の前で「ああ、そのことか」と言う彼にはナマエの本音なんて透けてしまっているのかもしれないけれど。

「この近くに団子坂ってあるだろう。あれ、ランポのD坂のモデルなんだよ」
「え、そうなんですか?」
「そう。私が作家になろうって決めたときさ、D坂読んでたんだよね。そういう原点みないなものに触れられる場所だから、引っ越しは考えてないんだ」

想像以上にしっかりとした理由を聞かされて、なんだか不思議と感心してしまった。作家になったきっかけやそのエピソードなんかは聞いたことがなかったし、まだまだ彼のことは知らないことばかりだ。もっと彼のことが知りたい。それが担当編集としてなのか、それだけではないのか、自分でも判断が出来ないのだけれど。

「それに文京区に住んでる作家ってなんかかっこいいし」
「…なんか凄いなって思って損しました」
「はは、男なんてそんなもんだよ」

夏油が少し行儀悪くテーブルに頬杖をついて笑った。世の中の男性の一般論は知らないが、絵になる男にそう言われてしまうとなんだか説得力があって納得してしまいそうだからやめてほしい。
ナマエがげんなりしていると今度はクスクス声を漏らしながら笑い、ナマエの淹れたコーヒーをこくりと口にした。

「あ、そうだ。ミョウジさん、今度また旅行に行かない?」
「えっと、取材ですか?今度はどこに取材に?」

夏油の提案にスケジュールを確認するため仕事用の手帳を取り出そうとがさごそ鞄を漁る。熱海では随分妙なことに遭遇してしまったけれど、取材としてはかなり良い収穫があったように思う。取材費に関しても桜のほとりの実績で降りやすくなるだろう。さて今度はどこに取材に行くつもりなのか。少しだけわくわくしてしまう。ナマエが行き先を尋ねると、夏油がフルフルと首を横に振った。

「違う違う。次はプライベートで行こうよ、旅行」
「え…!?」

ちょっと待て、そんなの話がまったく違う。夏油は「どこがいい?せっかくだし、いいホテル取ってゆっくりしようよ」とまるでナマエが快諾することを前提にして話を進めてきた。

「な、なんで夏油先生と二人で旅行に行くなんて話になるんですかっ!」
「おや、私はプライベートとは言ったけれど、二人きりとは一言も言っていないよ」

引っ掛けのような言葉に「やられた」と顔が真っ赤になっていく。今の文脈だったら誰だってそう理解するに決まっている。夏油だって勿論確信犯で、にんまりと薄い唇を三日月形にして笑っていた。



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