小説家・夏油傑の事件簿 08


縦穴はどうやら、人工的に作られたものではないように思われた。そこから横向きに広がる洞窟のような穴も同様だ。深さはおよそ4メートル強といったところだろうか。見上げると果てのないほど深いというわけではないが、穴の側面に足場らしい足場もなく、自力で上まで登るのは難しそうだった。

「…ミョウジさん、この洞窟の先…光が見える」

夏油にそう言われて今度は横に広がる穴に目を向ける。こちらは高さ1.5メートルほどで、人ひとりが通るので精一杯の横幅だった。夏油の言う通り、横穴の先から光が見えている。行き止まりではなく、この穴はどこかに続いているらしい。

「行ってみよう」
「はい」
「足元、気をつけて」

こんなところから一体どこに繋がっているというのか。あの木の葉で出来た手作りのカモフラージュはまるでここへの入口を隠す役割を持っているように思える。夏油が背を屈めながら先に洞窟に入り、ナマエも続く。8メートルほど進めば、想像よりすぐに光のもとに辿り着いた。

「え…ここは……?」

辿り着いた先は、まるでスポットライトがあたるかのようにまるくぽっかりと外の光が差し込む場所だった。登るように横へ移動したためか、最初の縦穴よりも浅い位置にあり、また穴が大きいためによく太陽が差し込んでいる。まるで遠慮するように山の木々も穴の周囲には見えず、こんな深い場所にあたたかな陽だまりを作っていた。

「じ、人工的な穴…じゃないですよね?」
「多分ね。ミョウジさん、ここが甘露の磐屋かもしれないよ」
「え?」

夏油が確信めいてそう言った。「これ見てごらん」と言われるがままに彼の指さす先に視線を持っていく。穴の壁面には幾重にも蔦が這い、2センチ程度の黄色みがかったオレンジの星型の花が咲いている。数えきれないほどの花は、まるでこの陽だまりの持ち主とでもいうような存在感である。一体何の花なのか、残念ながら花の知識が乏しいナマエにはわからなかった。

「この花、夜来香だ」
「えっと…いえらいしゃん?」
「そう。日本ではトンキカズラの別名もある。原産地はベトナムとか中国の暑い地方で寒さに弱いから日本では鉢栽培して適宜場所を変えて育てたりするんだけど…ここは立地条件が上手いこと育成に合ってたのかもしれないね」

この星型の花の名前は夜来香というらしい。6月から9月に花を咲かせ、暑い地域を好み、寒さを嫌う。日本で育成が不可能というわけではないようだけれど、話を聞く限り沖縄でもないのに自生しているというのは相当珍しいことのように思える。夜来香の自生が珍しいことはわかったが、それと甘露の磐屋にどんな関係があるのかあ。

「えっと、あの、夜来香が咲いてることと甘露の磐屋にどんな関係があるんですか?」
「この花、夜になると甘い匂いが香るんだよ」
「あっ…!天女が夜に甘美な香りで男を誘うって…!」

磐屋の向こうに天女がいて、夜になると甘美な香りで香りで男を誘う。しかし決して覗きに行ってはいけない。それは天女の皮を被った鬼女である。入ったが最後、男は鬼女に喰われて決して帰っては来られない。それが甘露の磐屋に関する伝承である。その甘美な香りの正体は夜来香だったのか。

「ひょっとして匂いにつられてこの穴に落ちちゃったってことですか?それで上に戻れなくて…みたいな…」
「それかここが元々、外と繋がっていたのかもしれない」

夏油がナマエをちょいちょいと手招く。それに従って近づくと、夏油が「そこで止まって」と足を止めさせた。えっ、と思って足を止めると、俄かに足元の地面が崩れる。その下に水の流れが確認できた。地面を抉るようにして、すぐそばを川が流れているのだ。

「こんなところに川が流れてる…あの、これって登山の途中で見つけたものの水源でしょうか?」
「可能性は高いね。推測の域を出ないけれど、ここは元々川から繋がる洞窟だったんじゃないかな。地殻変動か何かで入口が塞がって、言い伝えと夜来香だけが残された…そう考えれば、伝承で穴ではなくて洞窟だと言い伝えられていた説明もつく。香りにつられて洞窟に入ったはいいが、戻ろうとしたところをこうして罠にみたいに川に足を取られて、急流に流された…とかね」
「なるほど…それだと言い伝えに筋が通りますね」
「それなら危険を回避するための作り話としても齟齬はない」

ここで真偽のほどを確かめることは出来ないが、夏油の説は説得力があるように思えた。山の中に隠された「もうそこにない洞窟」とは、随分とミステリアスな話である。山小屋の老人は、明らかにここへ繋がる縦穴を隠していた。この甘露の磐屋を隠していたんだろうか。
ナマエは水の流れから視線を外し、ぐるりと穴の中を見回した。まるで閉ざされた箱庭のようだ。五畳ほどの空間の中に光が燦々と差し込み、壁を覆う蔦には花が咲く。そのうえこれが夜に甘やかな芳香を放つとなれば、おとぎ話のような話である。

「あれ、地面になにか……」

見回した視線の終点に不自然に土が盛り上がっているところを見つけた。一歩、二歩と近寄ると、その土の一番上には20センチ程度の大きさの石がぽつんと置かれていた。そこに何かが彫られている自然に出来たものではない。誰かが彫ったものだ。

「…タ、キ、モト、ナミコ…?」

石に彫られているのは恐らく名前のように思われた。機械や専用の道具で削ったのではなく、恐らくもっと原始的な方法で彫られているのだろう。溝の深さもまばらだし、文字の線も切りっぱなしのように鋭利だ。しかしそれは間違いなく、誰かの墓標だった。

「誰かの…お墓?」

ナマエがそうこぼすと、夏油が隣に立ってその石を確認する。彼もこれが墓標と思しきことに異論はないようだった。一体誰のものだろう。そもそもここはどう考えても墓地ではない。許可申請なんてしているとも思えない。一体誰の墓なのだろう。

「…ミョウジさん、私の後ろに」
「え?」

夏油が何かに気が付いたかのようにそう言って、ナマエのことを背後に庇うようにして前に出る。ナマエたちの通ってきた道を辿って、ザリザリと洞窟を進む音が聞こえてきた。ドクドクと緊張が走る。あの老人が自分たちに気付いて追ってきたのか。暗がりからのっそりと顔を出したのは、予想の通り昨日の老人だった。

「お前ら……ここで何をしている!!」

老人の視線が夏油達から下に逸れ、その動きだけで足下の墓標を確認したのだとわかった。夏油が両方の手のひらを見せて自分たちに敵意がないことを示した。

「我々は研究で甘露の磐屋を探しに来ただけです。決して敵意があるわけではありません。地方自治体の許可は得ているのですが……」

夏油が随分な口先八丁で仕掛けた。まぁ個人的な研究と言えなくもない。地方自治体の許可なんて登山について届けを出しているくらいのものだけれども、この土地があくまで公のものだということをこの男の前で言葉に出して強調したかったのだろう。

「お前ら役人か、ここを潰すつもりで来たんか!」
「いえ、そういうわけでは──」
「触るな!触らないでくれぇ!」

老夫が何か武器を持っていないかということを警戒したが、向こうも声を荒げるだけで攻撃してこようという雰囲気はなかった。

「…どうして、こんなところにお墓があるんですか?」

夏油が静かな声で尋ねる。老人は皺の寄った喉をひくりと動かした。もう少し口を軽くしてやったほうがいいだろう。夏油が「まさかタキモトさんのお墓がこんなところにあったなんて…」とまるで知ったふうな口調で嘯く。もちろんタキモトナミコという人物に心当たりはひとつもない。
夏油の言葉に老人は怒りをフッと引っ込めて、吊り上がっていた眉を下げると、眉間には苦しそうに皺が刻まれる。

「頼む…放っておいてくれんか…ワシはただここでお嬢様の墓守をしながらひっそり暮らしたいだけなんじゃ…」
「どうしてあなたがそんなことを?」
「ワシのせいじゃ…お嬢様は死んで、ワシだけがおめおめと生き残ってしまった……」
「生き残る、とは?」
「滝じゃ。この山の上の……もう50年以上前のことじゃ。大旦那様もお内儀様も亡くなったと聞いておる…あと少しだけ、あと少しだけ待ってくれんか…」

苦しげな表情から言葉がポロポロこぼれ落ちていった。墓守、滝、ワシだけがおめおめと生き残ってしまった。言葉が見えない線のようなもので繋がれていく気がした。ひょっとしてこの老人は、この墓に眠る女性と心中をしようとしたのか。自殺の名所であるという、滝から飛び込んで。

「先のない老いぼれよ、あとは野垂れ死ぬだけのごみ屑同然のジジイじゃ」
「……この墓を守るためとはいえ、人に危害を加えるのを見過ごすわけにはいきませんよ」
「き、昨日のことか?そのぅ…怒鳴って悪かった。ここから離れてくれればそれで良かったんじゃ…怒鳴ったことは…申し訳なかったと思っておる…」

力のない声が落ちていく。老人はその場に膝をつくと、神妙な顔つきでナマエたちの奥にある墓標をじっと見つめる。老人が今口にしているのは昨日の山中でのことだけであり、旅館でのことは含まれていないように感じられる。自ら謝罪するのであれば、まとめて打ち明けてしまってもいいものを。それに嘘をついているようには見えなかった。

「ワシはもう何にも持っちゃいない。頼む、ワシから何も…何も奪わんでくれ…」

老人の声は最後にはもう泣き出しそうなものになっていた。夏油とナマエは顔を見合わせる。夏油が老人に向き直り「失礼ですが、お名前は」と尋ねると、老夫は「イケダといいます…タキモリ様のお屋敷では、丁稚みたいなもんをやっておりました」と答えた。

「とりあえず、今日のところはご無礼します。ご事情があるとは知らず、失礼しました」

夏油がそう聞き分けの良い素振りを見せると、老人──イケダはホッと胸を撫で下ろしたように見えた。そこから適当に話を合わせ、来たときと同じように洞窟を通り抜けて縦穴から縄梯子で地上に出る。
イケダはまた「ここは見なかったことにしてくれ」と懇願し、それを曖昧な顔で躱しながらその場を離れた。自分が下手に口を出して面倒なことにしてしまわないようにと黙っていたけれど、現場から充分に距離を取ってナマエが口を開く。

「昨日よりも落ち着いてましたね」
「まぁ、役所の関係者を匂わせたからね。どうにか墓を守りたいって気持ちがより大きく出たんだろう」

それにしても大胆なことをしてくれる。あんなのハッタリにも程がある。少しでも突っ込まれたら出来る言い訳なんてなかったんじゃないか。いや、ひょっとすると夏油はそこまで台詞を用意していたかもしれないけれど。

「それにしても……あのイケダってお爺さん、昨日の不審者ではなさそうに見えたんだけど、ミョウジさんはどう思った?」
「…私も違うように思いました。多分もっと身長低かったような…。それに声もちょっと違う気がします」

暗がりだったから特徴をしっかり覚えているわけではなかったけれど、今日改めて声を聞いて、昨晩の不審者のものとは違うように感じた。

「そうか…じゃあイケダさんじゃないのなら一体誰が…」
「真っ先に大きな声をって言ってみえましたけど、昨日の夜のことを言うなら大きな声ってほど大きい声じゃなかったし、それより首を掴んだことの方言いそうですもん」
「首?」
「あれ、言ってませんでしたっけ?昨日、初めに後ろから首を掴まれたんですよ。そのあと声出したら口をふさがれて身体を拘束されてって感じで……」

そこまで説明してハッと気が付いた。夏油と旅館の従業員たちが来たころには口を塞がれている状態だった。それに警察の聴取のときもそのことが頭から抜け落ちていて、背後から掴まれて、としか話していない。つまり犯人がナマエの首を掴んだという事実は犯人とナマエしか知らないことだ。

「…夏油先生、私、首を掴まれたなんて……誰にも言ってません。だからこれは犯人と私しか知らない事実のはずです」
「…つまり、そのことを知っている人物が犯人ってことだ」
「はい。そのひとに心当たりがあります」

動機が何なのかまださっぱりわからない。けれど犯人であることは恐らく間違いがない。
ナマエと夏油は急いで山を下山すると、開けたところでタクシーの配車を頼んで乗り込んだ。



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