小説家・夏油傑の事件簿 07


小さいころ、図書室に入り浸って本を読むのが好きだった。父の仕事の関係で転勤が多く、その度に転校していたからあまり友達が出来なくて、図書室が心安らげる場所になっていた。本が友達とまでは言わないが、それに近いものがあって、本に携わる仕事がしたいと思うようになった。それで大学の就活のときは出版社を片っ端から受けまくり、現在の会社に就職するに至ったというわけだ。

「……ん、うぅ……」
「おはよう、ミョウジさん」
「んぁ……おは、よ…」

瞼の向こうに光を感じ、意識が浮上してくる。反射的におはようと応えたが、実家に帰ってきたんだったか。いや、でもいまミョウジって。

「えッ…!!夏油先生!?」
「よく眠れたかい?」

そうだ、思い出した。昨日は不審者に客室に押し込まれ、そのまま眠るわけにもいかず夏油の部屋に泊まらせて貰ったのだ。ナマエは飛び起きて壁にぺったりと背中がつくまで驚くほどの勢いで後退る。夏油は座椅子に腰を下ろして優雅に茶を飲んでいた。

「す、すみません!先生より眠ってしまって…あっ!化粧ッ!」
「フフフ、そう焦らなくてもいいさ。すっぴんだって一昨日見てるし」
「そ、そういう問題じゃないですっ!お仕事相手の方にみっともない姿を見せるわけには…」
「まぁまぁ。ほら、お茶淹れたところだから飲むと良い」

このままこれ以上ごねていても仕方がないと、とりあえず洗面台を借りて顔だけは洗ってきた。そのあと座椅子のところまで戻ると、夏油がナマエの分を用意して待っていてくれた。向かいに座り、いただきます、と言ってから湯呑を手に取る。

「朝から何人か警察が来てるよ。パトカーが表に停まってないから、旅館としては表沙汰にしたくないのかもしれないね」
「まぁそうですよね…お客さん商売ですし、穏便に済ませたいっていうのが本音でしょうね…」

パトカーが表に停めてあれば、何か事件か事故があったのかと勘繰られるに決まっている。噂に真実は関係ない。その内容がどうだったとしても、人は面白い方に想像を広げるし、それはすぐに大きな風評被害を呼ぶ。今回の被害者は自分であるが、そこまで強く害されたわけでもない。それを大事件にしてくれと思うほど鬼ではない。

「…あの、身支度整えたいんですけど、私の荷物ってちゃんと受け取れるものなんですかね?」

不意によぎったのはそんな些細な疑問であった。昨日不審者が出てからそのまま夏油の客室に来てしまったから荷物は置きっぱなしだ。化粧品から着替えからなにからそっくりそのまま放置している状態である。事件と言っても物盗りや殺しではないとはいえ、警察が来ている状態でもさらりと受け取れるものなのだろうか。

「ああ、それならもう受け取ってきたよ。そこにおいてある」
「えっ…」

夏油がひょいっと部屋の隅を指さす。本当だ。昨日はなかったはずの自分の荷物がまるっとそこに置いてあった。代わりに受け取ってきてくれたのか。そういうのって本人じゃなくてもいいもんなんだなぁとのん気なことを考えていると、夏油がそこに付け加えた。

「君の恋人だって言ったらわりと簡単に受け取れたよ。警察も不用心だよね」
「えっ!?あっ…ハァ!?」
「警察は疑うのが仕事のはずなんだけどなぁ。ま、旅館の仲居さんもいたからすぐに信じたのもあるだろうけど」
「ちょっと!どんな嘘ついてるんですか!」
「いいじゃないか。嘘も方便ってやつさ」

夏油が悪びれもせずにそんなことを言った。いや、些細な嘘だとは思うが、自分たちは恋人でもなんでもないビジネスパートナーである。もう関わることのない観光先の人間だとはいえ、妙な嘘をつかれたら困る。
ナマエがムキになったところで夏油がそんなものを相手にするわけもなく、どこ吹く風で平然と茶をすすっていた。
身支度を整えると、警察から軽い事情聴取があった。被害がそれほど大きくないこと、現時点ではパトロールを強化する程度の対応しか取れないということから、事情聴取は驚くほどあっさりと終わった。

「さて…今日は予定を繰り上げてもう東京に戻ろうか」
「え?どうしてです?」
「どうしてって…君をあんな目に遭わせておいてこれ以上付き合えとは言えないよ」

事情聴取が終わって一度客室に戻ると、夏油がそんなことを言い出した。気を遣ってくれるのは有り難いけれども、せっかく時間と取材費をかけてここまで来ているのだ。出来ることなら時間の許す限り取材を続けたい。

「夏油先生がもう充分だとお考えなら反対しませんけど、私のことを気にしてくださっているだけなら大丈夫ですよ。ほら、この通りピンピンしてますし、せっかくですから納得いくまで取材続けませんか」

ナマエがそう言うと、夏油は驚いて切れ長の目を大きく見開いた。中途半端な仕事はしたくない。夏油がフッと目元を緩めて「まったく君は強い女性だな」笑った。

「…それに、私少し気になるんです。昨日の侵入者…私を狙ってきたんだとしたらあの山のお爺さんしか思い当たらなくて…」
「…まぁ、確かにね。あの山から老人がひとりで旅館まで来て誰にも気付かれずに二階に上がって…っていうのが可能なのかどうかは疑問が残るけれど、タイミング何かを考えても心当たりと言われればあのお爺さんくらいしか可能性がない」

誰にも見つからずに旅館に侵入することが可能だったのか、可能だった場合壺は何故ひとりでに落ちたのか、そもそも一体何の目的でこんな犯行に及んだのか。まだわからないことだらけだけれども、どうせ取材をするのならまたあの山に登るのもいいかもしれない。

「行きましょう!こんなにいいネタ他にありませんよね?」
「フフ、その通りだ」

ナマエが気合を入れるように努めて明るく振る舞うと、夏油はそれに気付きつつもそれ以上の無粋な言葉はかけずに同意するに留めた。二人はそこから外出の準備をして、帳場でチェックアウトを済ませてから夕方までには荷物を取りに来る旨を伝えて預ける。玄関先まで出たところで右側から声をかけられた。

「お客様方、昨夜は当館の不手際でご不快な思いをさせてしまったようで、申し訳ございません」

声をかけてきたのは、初日に滝のことを教えてくれた老夫、カワタニだった。昨晩の件は既に従業員の中で共有されているようだ。事が事なのだから当然だろう。

「いえ、スタッフの方に謝っていただくことでは…」
「若い女性が突然背後から首を掴まれるなんて恐ろしい思いだったでしょう…」

カワタニがぐっと眉間に皺を寄せてそう言った。確かにのど元過ぎればなんとやら、というだけで、あのまま夏油達が来てくれなければどうなっていたかはわからない。この場合の旅館の過失かどういうふうに捉えればいいのかわからないけれども、目の前で申し訳なさそうな顔をするカワタニを責める気にはなれなかった。

「ひょっとして…お客様方昨日山に行かれたんじゃないんですか?」
「え?」
「悪いことは言いません。甘露の磐屋を探しているなら、あそこには近づかないほうがいい」

神妙な顔つきでカワタニが言った。彼の祖父は自殺の名所の滝が甘露の磐屋の影響を受けていると言っていた。それを言い含められていれば、こう忠告したくなるだろう。ナマエはそれに「ええ」だとかなんとか曖昧な返事をして旅館を出る。タクシーの配車を頼んでいたから、それに乗り込んで昨日の山に向かった。
同じところでタクシーを降車し、登山道に入る。昨日と変わらず、整備されていないそこを進む。天気が良く日差しは暑いけれど、やはり山の中に入ってしまえば涼しく感じられた。

「夏油先生、昨日の山小屋の場所覚えてます?」
「ああ、大丈夫。大体の場所は覚えてるよ」

良かった。ナマエは登るのにも下りるのにも必死だったから、正直どのあたりだったか記憶が曖昧だったのだ。シダ植物の茂るなか、石に生えた苔に足を取られてしまわないように注意しながら斜面を登っていく。昨日と同じ場所に漏れ出ているような水の流れを確認することが出来た。
鳥が囀り、穏やかな様子ではあるが、昨日のことを思うとそれさえもなんだか不穏なものに感じられて仕方がない。進むごとに足元が悪くなり、着地した石がぐらりと揺れて体勢を崩した。あ、転ぶ、と思った瞬間にすかさず手が伸ばされる。夏油だ。

「あっ…」
「おっと、危ない」
「すみません…」
「足元不安定になってきてるね。気を付けて」

夏油に支えられている状態から体勢を元に戻す。こんなところで足でも挫いたらシャレにならない。もう一度気を引き締めて前を向いた。さわさわと木の葉が揺れる。そこからまた登山を再開し、入山から30分以上経ったところでまた水の流れている地点に到着した。

「ここだ。ほら、あの山小屋」
「昨日のですね。今日もあのお爺さんいますかね」
「私が前に出るから、今日は少し話を聞けるか粘ってみようか」

ひょっとしたら、あの老夫が昨日の不審者かもしれない。そう思うと危険なのは承知だけれども、犯人なのだとして、動機を知りたい気持ちもあった。他人が近寄ることさえ嫌い、こちらの話も聞くことなく「呪ってやる」とまで言ってきた。ここに勝手に住んでいるのなら一体何を隠しているのか。自殺の名所と言われている、この山で。

「…今日はいないみたいだね」

山小屋に近づいても、怒号が突然飛んでくることはなかった。夏油が周囲を観察し、ナマエもそれに倣う。カーテンもかけられていない窓からは確かに日用品が覗いていて、生活を垣間見ることが出来た。

「薪を切ってるような場所もあるね。熱源はこれで確保してるのかな」
「水とかは…まぁ探せば川とかもあるんでしょうね…」

電線がないから勿論電気は通っていないが、自家発電という線もある。文明的な暮らしをするには不十分だろうが、上手くやりくりすればギリギリ生活は出来るのかもしれない。もっとも、野生動物なんかの危険もあるわけだから、安全な生活とは到底言えないだろうが。

「訳アリの世捨て人…って言うには、生活が杜撰に見えなくもないな。自給自足で生活しようとする人って、畑とかもやってること多いし」
「そうですね…死ななければ充分、みたいな、そんなふうに見えます」

これは本格的に関わってはいけないひとかも知れないと抑え込んだ不安が徐々に大きくなるのを感じつつ、ぐるりと山小屋の周辺を歩いて回った。少し離れたところまで人間が踏み入っているような痕跡があって、それに従って進む。足元に何かが落ちているのが見え、それを確認しようと近づくと、生い茂る草が絡んで体勢を崩してしまって今度こそ前のめりに転んでしまった。

「わッ……!い、いたた……」
「ミョウジさん、大丈夫?」
「はい、大丈夫で──」

す、と言い切る前に地面についた手元に違和感を覚えた。土の感触だけじゃない。何か人工的な、ビニールのようなものを感じる。恐る恐る自分の手元に視線を向けた。

「あれ、夏油先生…これ…」

ナマエが転んだ先で見つけたのは、まるで落とし穴でも隠すかのような本物の葉で出来た巧妙なカバーのようなものだった。一見落ち葉が積み重なっているだけに見えるけれど、ナマエの手は確実にその下に入り込んでいる。夏油がすぐそばに屈み、慎重にそれをめくり上げた。

「…これは……」
「縄梯子と…落とし穴……?」

1.5メートル四方程のそれは、どうやらビニールシートを土台にして作られているもののようである。縄梯子が隠され、真ん中のあたりにマンホールのように穴が空いている。順当に考えれば、この穴を降りるための縄梯子なのだろう。

「あの、ここ、奥から風吹いてきてませんか…?」
「吹いてきてる。しかもちゃんと冷たい風だ。それに微かにだけど水の音かしてるね…」
「井戸…か、なにかでしょうか…」
「いや、井戸だったら風が吹いてきてるのは少し不自然だな…ここからどこかに繋がっているのかも…」

穴を覗き込むと、ひゅうっと冷たい風が吹きあがって髪を揺らした。耳を澄ませると、確かに微かな水の音が聞こえてくるような気がする。夏油の言う通りひょっとしてここからどこか水辺にでも繋がっているのだろうか。水辺、と言われて頭に浮かぶのは、あの洞窟のことだ。

「夏油先生、ひょっとしてこの先が…甘露の磐屋…?」
「……降りてみよう」

夏油が小さくそう言って、ナマエは頷いた。縄梯子を縦穴に下ろし、夏油、ナマエの順番でゆっくりと下っていく。到達した穴の底は、更に洞窟のように横側に広がっていた。



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