小説家・夏油傑の事件簿 05


熱海はその土地の大部分を丘陵が占めている。温泉は歴史的にも古く、1500年程前の文献ではすでに発見を文献で確認することが出来る。言い伝えによると、海中から吹き出した源泉によって魚が死に、読んで字のごとし「熱い海」から熱海と名付けられたとされている。
徳川家康も湯治に逗留し、家光以降は熱海の湯が江戸城に献上されていた。
そんな熱海は文人の心を射止め、尾崎紅葉はこの地を舞台にした「金色夜叉」を発表し、志賀直哉、太宰治、谷崎潤一郎を初めとする多くの文豪に愛された。もとは風俗産業が盛んな温泉街であったが、温泉目当ての観光客が増えるに従ってそれは下火になり、熱海大火、バブル崩壊、伊東沖群発地震などの危機を乗り越えながら、日本有数の観光地として今も賑わっている。

「まぁ、そういうわけで、このあたりは少し海岸線を離れたらすぐに山に入っちゃうんだよね」
「なるほど、確かにすごい山道ですよね」

この近くの山に滝がある、という旅館の老夫の言葉を参考に、旅館から10分も車で走らないところにある登山道を見つけてそこに向かった。整備もそこそこの登山道に入った。湿った土の匂い、風に揺れる木々の音、種類もわからない鳥のさえずり。海岸線の観光地は夏らしい暑さだったけれど、山の中に入ってしまえば随分と涼しく感じられる。

「ここの登山道、あんまり使われてないみたいだね」
「た、確かに登山道ってわりには草が凄く伸びてると言うか…」
「登山道って全部が全部しっかり誰が管理してるってわけじゃないんだ。管理者が不明確な登山道も多いし、利用者が少ない登山道は手入れされてないなんてパターンもザラなんだって」
「そうなんですか…」

登山なんて林間学校のハイキングみたいなものしかしたことがないから、その管理がどう行われてるかなんて調べたこともなければ考えたこともなかった。確かに言われてみれば、登山者の安全や自然環境の保護のためにも管理は必須だろうが、これでもかというほど無数に山のある日本では登山道だって無数にあるわけで、そのすべてを決められたとおりに管理し尽くすということは困難なことだろう。例えば富士山や槍ヶ岳、剣岳のような登山者の多いだろう山はしっかりと手入れされているだろうが、名の知れていない山の登山道まですべてというのは現実問題難しい。

「夏油先生お詳しいですね。登山とかされるんですか?」
「いいや?悟が持ってる山の管理がどうとかって話をしてる時に聞いたんだ」

出た、親友「五条悟」だ。ナマエが友人の話をして夏油と五条が親友であるということを知ってから夏油はあれこれと五条の話をするのだが、そのひとつひとつのエピソードがやたらと濃い。地方の山の一角などであればそれなりの金額で購入できると思うけれど、今までの話からして五条悟という人物は大変な大金持ちのようだし、どうせそんな規模の話じゃないのだろう。探偵業がそれほど儲かるとは思えないし、探偵と言うのは金持ちの道楽のよううなものなのかもしれない。

「…五条さんって不思議な方ですね…」
「そうかい?まぁでも、あいつも結局好きな子には手も足も出せないただの男だよ」

夏油が愉快愉快とばかりに口元だけで笑う。足元は獣道ではないが、整備が行き届いているとは到底言うことのできない程度には荒れていた。シダ植物がのっそりと伸び、石には苔がびっしりと生えている。一応軽い登山なら出来る程度の装備を備えたつもりだが、これは想像していたよりも本格的な登山になるんじゃないのか。

「あの、夏油先生?私ご覧の通り結構な軽装備なんですけど…」
「大丈夫。そこまで深いところには入らないようにするから」

そういうふんわりとした調子で過信するから遭難事件は起きるんじゃないのか。そうは思ったけれども、そこまでは言えなくて押し黙る。登山道を進むこと10分程度、ちょろりょろと水の音が小さく聞こえてきた。

「夏油先生、水の音がしますよ。川が近いんでしょうか」
「ああ、そうかもしれない。こっちから聞こえてくるね…」

夏油はそう言って周囲を観察する。ナマエもそれに倣って周囲を見回す。耳を澄ませて注意深く音のする方を探ると、シダ植物と木の葉の隙間にきらりと水が光っているのを見つけた。

「あっ、夏油先生、あそこ、水が見えますよ」
「本当だ。どこかから湧いてきてるのかな…支川のひとつには見えないし…」

夏油が注意深く足元を確認しながら水のところまで降りていく。ついて行こうとしたら「ちょっとそこで待ってて」と言われてそこに留まった。ざり、ざり、と土と小さな石を踏む音の間に小枝がパキリと折れる音が混じる。

「げ、夏油先生、大丈夫ですかー?」
「ああ。大丈夫!やっぱりどこかから流れてきてるみたいだ!」

距離を補うように少し大きな声でやりとりをする。夏油は水の流れているらしい地点に到着すると、その場に屈んでなにやら触って調べだした。数分もしないうちに立ち上がり、もと来た道を行きよりも手こずりながら戻ってきた。

「川っていうよりはやっぱり水が一部漏れてるって印象だった。北の方から流れてきてるね」
「地面に沁み込まずに流れてるってことは水源地が近いってことですよね」
「そうだね。ひょっとしたらあの水源辿れば例の滝に辿り着くかもしれない」

そもそもこの山に入ったのは甘露の磐屋のことを調べるためであるが、それとは別に旅館の老夫から出てきたのが自殺の名所だという滝の話もある。根拠はわからないが、老夫の祖父の話では甘露の磐屋が自殺者を引き寄せると言っていた。その話が本当なのであれば、滝の近くに目的の洞窟があるかもしれない。

「北上してみよう。もちろん危険のない範囲でね」
「わかりました」

夏油の言葉にナマエはこくんと頷いた。足元の良くない登山道をまた二人で登っていく。勾配はそれほど急ではないけれども、大きな石が増えてきたせいで足元は悪くなるばかりだった。

「…もう少し先まで行ったらさすがに限界かな…」
「そうですね…帰りのことを考えるとこれ以上はちょっと厳しいかもしれませんね」

ただ山を登って降りるだけなら大した問題じゃないかもしれないが、滝を見つけようと手掛かりを見かけ次第都度脇道に逸れようというならあまり深くまで入るべきではない。出来る限りで夏油の取材を全うしようと認識を共有し、山を登ること30分程度、地面が湿り、微かに水の流れているように見える地点を見つけた。

「さっきと同じ水源のものでしょうか…」
「そうかもしれないね。方角的には同じだ」

先ほどよりも登山道に近かったため、ナマエも屈んでそれを眺める。川の流れにはほど遠いが、そのあたりから雨水が湧き出ているようには見えない。どこか大きな水源から漏れ出てしまっているというほうが合点がいく。下で見たよりも水量は少しだけ多いように思えた。
さて、どこかに何か手掛かりになるようなものはないだろうかとキョロキョロあたりを見まわすと、少し上の、生い茂った木々の間に古びた建物のようなものが見えた。ナマエはそれを指さしながら夏油のほうを振り返る。

「夏油先生、あれ…あそこに何か小屋みたいなの見えませんか?」
「見えるね。登山道の管理用の山小屋か何かかな…」
「え、それにしては少し離れてません?」

登山道の管理のためにこうして山小屋が設けられているのは当然の話だけれども、管理するための小屋をわざわざ遠くに作ったりするものだろうか。それほど大きい山というわけでもないのだし、登山道の脇にでも作ればいいものに思える。古びたそれは登山道からは少し離れているようだし、管理のためというなら不便だろう。

「ちょっとあの山小屋のほう行ってみようか」

こくりとそれに頷く。数メートルそのまま登山道を登り、山小屋とほぼ水平になるだろう地点から脇に逸れていく。山小屋までも草が生い茂っているようだが、細く道のように草が踏み倒されている。

「…夏油先生…これ、獣道じゃないですよね…?」
「獣道じゃないと思うよ。ほら、そこ見て」

夏油に言われて指さされた方向を確認する。そこには靴の痕跡を確認することが出来た。そうか、こうして草を踏み倒しているのは山の動物の類いではなく人間だということだ。しかも痕がはっきりと残っているのだから、古いものというわけでもないだろう。

「……ゴミがまとめてある。しかも結構新しそうだよ」
「本当だ…じゃあつい最近も誰かがこの山小屋使ったってことですかね…?」

扉のそばには丁寧にゴミが袋にまとめられている。泥や木の葉の類いもそれほどついていないし、これは少なくとも一週間以内にはこのゴミをまとめた人間がいるだろうということが推測できた。

「で、でもそんなに最近使ってるにしては登山道にひと気はなかった…ですよね…?」

これが管理のための山小屋なのであれば、もっとこの登山道は整備されているはずだ。しかし登山道にそういう痕跡は見られなかったように思う。だったら一体何故──と思った時だった。

「何の用じゃ!」

突然山の奥の方からしわがれた怒鳴り声が聞こえてきて、夏油もナマエも揃ってびくりと肩を震わせた。声のほうをハッと見ると、着古したジャージのようなものを着た老年の男がこちらに向かって恐ろしい勢いで草をかき分けて走ってきている。

「お前ら!何じゃ!ここで何をしておる!!」
「えぇっと、すみません、私たちは大学で──」
「ワシの家に近づくな!離れろ!!」

夏油が自分たちのことを説明しようとしたけれど、聞いてきた割には言い訳をさせてくれずに捲し立ててくる。ついに山小屋に辿り着いた老人は扉の近くにある鍬を手に取ると、二人に向かってブンブンと振り回した。夏油が咄嗟にナマエを自分の背中に庇う。

「落ち着いてください!私たちは怪しいものではありません!」
「どけ!どけ…!!ワシの家に触るな!!触るな!!」

鍬を振り回している、というよりは振り回されているような有り様ではあったけれども、襲い掛かってくるそれにうっかり当たりでもしたら怪我は免れない。ナマエも夏油も大きく後ろに退いた。

「出ていけ!出ていけ!この山から出ていけ!」
「すみません、今出ていきますから──」
「呪ってやる…!」

ついに登山道まで追い返され、まるで境界線を引かれているかのように老夫はそこで立ち止まった。夏油はナマエの背中を軽く押しながら、登ってきた登山道を下る。数回後ろを振り返ったけれど、老人はそれ以上追ってくることはなかった。
ある程度距離を取ったところで立ち止まり、ナマエはハァハァと切れた息をどうにか整える。あの老人は一体何者だったんだろうか。

「はぁ…はぁ…び、びっくりしましたね…あのお爺さん…」
「ああ。全く話が通じる様子がなかったね」

夏油は少しも息を切らしていない様子で、小屋があった方角をすっと見上げた。それにしてもすごい剣幕だった。ナマエが「ひょっとしてこの山の持ち主でしょうか…」と言うと、夏油は首をひねる。

「ここの持ち主は地方自治体のはずだ。一応私今日の登山届は役所に提出してるしね。まぁ一反程度で個人が所有してるってこともなくはないけど、地方自治体が所有してる山の登山道のすぐそばが私有地なんて…そんなケースは少ないんじゃないかな」
「えっと、つまり…」
「あのお爺さんは勝手に住んでるんじゃないかってことだね」

夏油の口から出された推論にひゅっと喉が締まるような感覚に陥った。登山道さえろくに整備されていないこんな山奥に電気も引いていない状態で勝手に住んでいるだなんてどういう状況だ。あの老人は相当な剣幕だったし、何か触れてはいけない事情があるのは想像に難くない。

「こんな山奥に勝手にって…」
「人里で住みたくない理由があるのか、住めない理由があるのか…私が作品に出すなら、例えば若い頃に辛酸を舐めた厭世家か、逃亡生活を送ってる犯罪者にするかな」
「…後者だったらシャレになりませんよ…」
「だね」

だね、じゃなくて。と突っ込みたかったけれども、現状あの老人が何者かを特定するだけの材料はない。

「とにかく、今日はこのまま山を降りよう。ミョウジさんには怖い思いをさせて悪かったね」
「いえ、私は大丈夫ですから」

兎にも角にも、またあの老人に見つかってどやされても面倒だ。今日のところは取材もこの程度に留め、一度旅館に戻ることにした。山道は帰りのほうが普段使わない足の筋肉を使う気がする。夜は温泉でしっかり解さないと明日の筋肉痛は免れないだろう。それにしても一体、あの老人は何者なのだろうか。



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