小説家・夏油傑の事件簿 04


高級旅館よろしく、いくつかの客室には部屋風呂がついている。あいにくナマエの部屋にはついていなかったから、露天大浴場に向かった。山の上の方に位置しているから海を一望というわけにはいかなかったけれども、山から温泉街、海に向かってを一望することが出来て中々の眺望だった。

「いい景色だなぁ」

これは確かにビジネスホテルではお目にかかれない景色だ。この宿を取ってくれた夏油に感謝というところだけれど、またどうして同じ宿に部屋を取るなんてことをしたのか。本当に袖の下なのかなんなのか、思惑がよくわからなかった。

「……夏油先生、お金は持ってるんだよね…」

売れっ子作家だ。自分では食えない職業だと言っているし、出版業界に身を置くナマエにも作家業だけで生計を立てることの難しさはよくわかっている。専業作家で食べていけるのは一握りであり、夏油はその一握り側の人間だ。
けれどもずっとあの古いアパートに住んでいるらしくて、他に仕事場を持っているわけでもない。持ち物はそれなりに良いものを持っているが、それならあのオンボロインターホンぐらい直したらどうなんだ。

「…作家先生ってやっぱり変わってる」

ナマエが夏油傑を担当することになったのは約一年前。ほかに二人ほど担当を持っているけれど、両方とも専業作家ではなく会社勤めとの兼業である。専業になるほどの作家というのは変わり者が多いのかもしれない。
熱海温泉の泉質は塩分が多い。傷なんかに良く効くらしいし、効能の書かれた看板によれば美肌効果もあるようだ。温泉を堪能して、このあとも仕事相手と顔を合わせるのだからと化粧を直してから露天湯を出る。オフィスカジュアル程度の雰囲気の服に着替えて部屋に戻ると、夏油から連絡が入っていたから彼の泊まる一階の客室に向かった。

「夏油先生、ミョウジです」

客室の扉をノックして声をかければ、中から「ああ、入って」と聞こえてきた。客室に入れば浴衣に着替えた夏油がちゃぶ台の前に座り、こちらに向かってひらりと手を挙げた。

「あれ、ミョウジさん浴衣着ないの?」
「え、ああ、まだ食事とかなんとかで外に出るかと思いまして」
「夕飯ならここで食べるよう手配してあるよ。君の分も」
「えっ」

部屋食を用意してもらうこともできるとは言っていたけれど、夏油はそのつもりだったらしい。手招かれてちゃぶ台の向かいに座ると、夏油がナマエに茶を淹れてくれた。いつもと反対の状況に少しペースを乱される。

「お部屋食頼まれるつもりだったんですね…」
「まぁね。ミョウジさんと一緒に食べたくてさ」

どこまで本気かはわからないが、既に用意してもらっている食事を無駄にすることは憚られる。しかももうあと十数分で部屋食の運ばれてくる時間になるらしい。またも彼のペースに巻き込まれたようだ。

「明日はどうされるんですか?」
「滝の方を見に行く予定だよ。近くで例の洞窟も見つかるかもしれないし」
「わかりました」

地元の人間もピンとこない伝承の洞窟がそう簡単に見つかるとは思えなかったけれど、それで新作のインスピレーションが湧くならそれはそれで成果と言える。そうこうしているうちに中居が戸を叩き、特産品を中心にした豪勢な部屋食が振舞われた。

「ミョウジさんとこうしてちゃんと食事するのって初めてだよね」
「そういえば…そうですね。打ち合わせでも食事をすることってあんまりなかったですし」

編集であるナマエは営業と違って外部の人間と会食する機会も少ない。作家との打ち合わせでも喫茶店でコーヒーを飲むようなことが多かったから、言われてみて初めて気づいたことだけれど、顔を合わせて二人きりで食事をするのは初めてだ。夏油は綺麗な箸さばきで焼き魚を解体しながら食べていて、それには及ばない自分の箸さばきが少し恥ずかしくなった。

「ミョウジさんは、何が好き?」
「えっと、食べ物…ですか?」
「食べ物とか…それ以外でもいいから、ミョウジさんのこと教えてよ」

夏油が茶碗蒸しをつつく。これも人間観察の一環か何かだろう。好きなもの、と突然言われても困るが、例えば食べ物ならなんだろうか。甘いものは好きだけれど、コーヒーはブラックがいい。

「…甘いものは好きですよ。あんまりにも行列には並ばないタイプですけど」
「甘いものね。広尾に親友のお気に入りのパティスリーがあるんだ。今度買ってきてあげよう」
「えっ、いいですよ、お気遣いなく…」

それから今思い浮かべたコーヒーはブラック派だとか、和食派だとか、思いついたことをぽつぽつと口にした。人間観察の一環だろうとはいえ自分のことばかりを話すのは少し気恥ずかしいように思えて「夏油先生はどうなんですか?」と聞き返した。

「私?食の好みはそんなにないんだけど…まぁでも酒は好きかな。友人に酒豪がいてね、おすすめの酒を紹介してもらったりしてるよ」
「え、お酒お好きなんですね。全然知らなかったです」
「そういえばこんな話も初めてだね」

酒を飲むのならどんなものを飲むんだろうか。ワイングラスを傾けてるのはあんまりにもそれらし過ぎる。ウイスキーグラスなんかも似合うだろう。いや、でもビールジョッキなんかも逆に似合う気になる。なんて、結局想像の中の彼はどれも似合ってしまって困った。
顔を付き合わせて食事なんて何を話せばいいのかと思ったけれど、話し始めると案外つまることなく話すことが出来た。初めて顔合わせをした日もこんなふうだったと思う。何を話したらいいかわからなくなってしまうナマエに夏油が心地よいタイミングで話を振ってくれた。このひとはコミュニケーション能力が高い。


夕飯を終え、明日の集合時間を決めて解散し、ナマエは自分の泊まる部屋へ戻る。料理は随分量が多くてお腹もパンパンだし、なんなら少しだけ残してしまった。旅館あるあるだと思うけれども、食事の全体量を少し減らしてくれないものだろうか。いや、事前に言えばそういう対応だってしてくれるのだろうが。
もう一度、今度は室内の大浴場に向かって風呂を浴びた。今度は化粧もきっちり落として浴衣に着替える。窮屈な服を着ているつもりはないけれど、旅館の浴衣はゆったりとしていていい。

「はぁ、さっぱりしたぁ」

ぐっと伸びをする。客室の数があまり多くないこと、平日だということもあって他の観光客は少なかった。いまだって時間帯が少しズレているせいか、脱衣所から浴場まで貸し切り状態である。
ドライヤーで髪をしっかり乾かし、トートバッグに詰め込んだ着替えを手に客室の方へと戻る。客室冷蔵庫のミニバーにもいろいろ飲み物は入っていたけれど、牛乳はあっただろうか。いや、旅館のミニバーに牛乳が入っているイメージはない。

「……ロビーのところにあるかな」

ロビー近くに設置されている自動販売機に牛乳は売っているだろうか。殆ど通り道だし、ついでに覗いて行こう。そう思って角を曲がったところだった。

「あ、ミョウジさん」
「えっ…!アッ!夏油先生!?」
「浴衣だね。大風呂行ってきたの?」

出会いがしらに夏油がいて、思わず咄嗟に顔を隠した。いまはもう寝るだけだと思って完全にノーメイクである。一瞬不審そうにした夏油だったけれど、その理由が化粧にあるのだとすぐに察して「隠さなくてもいいのに」と言った。

「そ、そういうわけには…」
「ちょっと飲まない?部屋に来いとは流石に言わないからさ」

夏油に手招かれ、少しもつれそうな足取りのままロビーラウンジに向かった。髪で少しでも顔が隠れるように画策しながら、バーカウンターの併設されたロビーラウンジのテーブルに置いてあるメニューを夏油が手に取る。

「何飲む?」
「あ、えっと…私お酒飲めなくて…」
「え、そうなの?じゃあ…この辺なんてどう?ノンアルコールカクテル」

彼に勧められるがままシャーリー・テンプルというノンアルコールカクテルを注文した。彼はモスコミュールをオーダーしていた。シャーリー・テンプルはジンジャーエールとグレナデンシロップ、それからレモンをステアして作られるそうだ。ザクロの甘ずっぱさが心地いい。

「…美味しいです」
「だろう?私の親友も下戸なんだけど、雰囲気だけでも飲みたいって言うもんだから、そのうちノンアルカクテルに詳しくなっちゃって。こんなところで役に立つとは思わなかったな」

彼の親友、というと、最近良く話に聞く例の探偵先生だろうか。気になって「例の探偵事務所の?」と尋ねると「そう。五条悟ね」と返ってきた。夏油傑という人はあまり自分の話を積極的にするタイプではない。その彼がこんなに「親友」と言って話題にするということは、きっと彼の中でも随分な重要人物であるとみえる。

「高校の同級生さん、でしたっけ」
「そうそう。入学初日にいろいろあって殴り合いの喧嘩したんだけど、なんだかんだで馬が合っちゃったっていうか、そのままずっと今まで続いてるかんじ」
「えっ、殴り合い!?」
「あはは、私も子供だったからねぇ」

入学早々同級生と殴り合いの喧嘩をしたなんて地元の先輩からも聞いたことがない。夏油がまさかそんなやんちゃなタイプだったとは想像もしておらず、思わずぎょっと彼を見る。

「まぁ悟とは色々あったけど…今は探偵事務所もやってるし、良い助手の子も入ってくれたし、ようやく安心って感じなんだよね」
「それまではなにかご心配事が?」
「心配っていうか…悟は昔からなんでも出来るタチだったから、そのせいで何に対しても張り合いがないっていうかさ…浮き世離れして上手く呼吸が出来ていない魚みたいな…そんなふうだったんだよ。だけど今は自分と水面までの距離も、そばで泳いでる仲間がいることにも気付けた…って、そんな感じなんだ」

突飛な比喩に一瞬頭が追い着かなくて、一拍遅れて話を飲み込む。五条悟なる人物がというよりは、こうして自分の昔の話をしている夏油に興味があった。手元のグラスの中で氷がカランと溶けて音を立てる。

「素敵ですね、仲の良いご友人がいるのって」
「そうかい?ミョウジさんも友達多そうだと思ってたけど」
「そんなことないですよ。陰キャなんで、交友関係広くもないですし」

特にこれと言って劇的なことはなかったし、自分の人生は彼の人生に比べて華やかさに欠けるだろう。こんなにも才覚溢れて絵になる人なのだから、きっと学生時代から華やかだったに決まっている。

「ミョウジさん可愛いんだからモテたんじゃないかい?」
「まさか!告白なんて一回もされたことないですよ!」

彼氏がいなかったわけではないけれども、今まで付き合った恋人は皆自分から告白をしてどうにかお付き合いに漕ぎつけたという感じだったし、学生時代なんてもっとそうだった。スクールカーストという言葉は好きではないけれど、当てはめるとすれば良くて真ん中の少し下くらいのものだっただろうと思う。
卑屈なことを言ってしまって話を打ち切ってしまったな、と気まずくなって、シャーリー・テンプルのグラスを傾けた。淡い赤色が涼しげに揺れている。グラスを目の前のコースターに置くと、それに続くかの如く夏油がモスコミュールのグラスを持ち上げた。グラスのふちに飾られたライムが上下する。

「十代のガキには、まだ君の魅力がわからなかったかな」
「…夏油先生、ちょいちょい口悪いですよね」
「おっとこれは失礼」

少しも思っていなさそうな声音で「失礼」なんて言ってみせて口角を上げる。薄い唇は歪な三日月のようで、触れたところから夜に浸食されてしまいそうだ。口の上手さや普段のナンパな感じから察するに、こうして女を口説くのが常套手段と見える。背後から刺されるなんてことにはなってくれるなよ、と心の中だけで忠告をした。

「ミョウジさん、メイクしてないと結構幼く見えるんだね」

そう言われて自分がノーメイクだったことを思い出し、時すでに遅しと分かりながらも両手で顔を覆った。夏油はそれを愉快そうにくすくす笑っていた。


翌朝、また夏油の部屋に集合させられて朝食をとり「あれ、こんな早くからメイクすませちゃってるんだね」などとからかわれながらも今日の動きについて最終確認をする。今日は動きやすい恰好で山の中を散策する予定である。
創作のインスピレーションはどんなところから得られるかわからない。売れっ子作家先生にさらなるベストセラーを生み出していただくべく、今日も今日とて尽力するだけである。

「さ、行こうか」
「はい!」

夏の朝の清々しい風に包まれながら、二人は緑濃く生い茂る山の中に足を踏み入れた。



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