愛と遺言 15


駅から徒歩五分程度のビルの二階が事務所だ。古めかしい階段をのぼって二階にたどり着くと、木製の扉に金文字で「五条探偵事務所」と書かれている。ここがナマエの勤め先である。この事務所に初めて足を踏み入れたのは、一年ほど前のことだったと思う。あの時はノックをして招かれた身だけれど、今は手に持った鍵で自ら扉を開いて足を踏み入れる。

「おはようございます」

まだ無人の事務所は換気を済ませていないから空気が少し淀んでいる。ささやかな荷物を定位置に置くと、窓を開けてまず空気を入れ替える。この時期は寒いから開けるまでは少し億劫だけど、午前中の比較的澄んだ空気が流れ込んでくるのは気持ちがよかった。

「コーヒー淹れちゃおっかな」

普段は五条が来てからコーヒーの準備を始めるのだけれど、最近は彼の本業の方が忙しなくて、そもそも来ない日だとか、昼過ぎに来る日も多い。給湯室で湯を沸かしているあいだに窓をすべて閉めてしまって、すっきりと空気の入れ替わった事務所の中でエアコンのスイッチを入れる。事務所が温まるまではコーヒーで暖をとろう。


──家入の研究機関の一室の中、ナマエはディスプレイに表示された見知らぬ番号と通話を始めた。

「も、もしもし」
『ビルから飛び降りたって聞いたけど、生きとったんやなぁ』
「えっ…あなた何で私の番号を……」

独特の関西弁。わけを知った様子でそう言ってくる相手が誰かを想像するのは難くなかった。和室で彼に拘束されていた時のことが脳裏によみがえり、ゾゾゾと背中に寒気が走っていく。この声は間違いなく禪院直哉だ。

『もうちょい長いこと引っ張れると思うたんやけど、えらい博打うって俺の催眠解いてくれたらしいやんか』
「あなた一体何の用なんですか。なんで五条さんに──」

意図の読めない直哉の言葉にナマエは多少の苛立ちを隠せない様子でそう吐き捨てる。通話の相手が直哉だと読み取った五条はナマエの耳元からスマホを抜き取り、スピーカー状態にして机の上に放り出した。

「直哉、久しぶりだね?」
『悟くんやん。どうやった?俺のサプライズ』
「超最悪だったよ。流石禪院家のくそボンボンだねぇ」
『ハハ、あんまり褒めんといてや。それに、もう家とは関係あれへんねん』

言葉の攻防が続く。飄々として直哉は随分と余裕がある様子だ。五条家の情報収集能力や下せる様々な手段の多さを知らないわけではないと思うが、なにか策でもあるのだろうか。そう思わせるほど直哉の様子は落ち着いている。

「お前のおかげでもうめちゃくちゃだよ。清岡家の人間を何人も罷免したり懲戒解雇したり…面倒なことこの上ないね」
『悟くんが楽しんでくれたんやったらよかったわァ。もうちょっと長いこと効果継続させとくつもりやったんやけどな。女なんぞに救われてしもたね』

女を蔑む言葉を隠すことなく笑い混じりにそう言ってみせてナマエはぐっと眉間に皺を寄せる。直哉は「はぁーあ」とわざとらしくため息をついた。

『もっと遊んだりたかったんやけど、残念やわ。俺、今からフライトやねん』

フライト?と五条が聞き返す。スマホの向こうで空港の搭乗アナウンスのようなものが聞こえた。はっきりとは聞き取れないが、漏れ聞こえる内容から判断するにどうやら国際線のようだ。

「へぇ。海外に高飛びしようって魂胆か」
『行き先は内緒や』
「なるほど。海外となれば流石に五条家でも早々手を出せないってことか。お前らしいねぇ」

そのかわり。と五条の声がいつになく低く続く。ピリッと空気が凍りつくのがわかった。ハッと五条の顔を見ると、二ィっと右の口角だけを大きく上げた。

「日本に戻ってきたときは、無事で済むと思うなよ」
『ほな、悟くんの熱烈な歓迎楽しみにしとるわ』

本当にどうとでも出来てしまいそうな五条にそんなことを言って笑い飛ばしてしまえるのは、彼の自信の表れなのだろうか。直哉は『ほなね』とまるで親しい友人との電話を終えるような気安さでそう言い、スマホからは終話を知らせる電子音だけが響いていた。

「はぁ、今からあいつの身柄追跡するのは難しそうだな…空港もどこのだか聞き取れなかったし」
「いまの通話って逆探知とかって出来たりしないんですか?」
「流石にスマホの逆探知なんか出来ちゃうのは日本じゃあ公安くらいだろうねぇ」

ひょっとして、と思ったが、どうにもそういうわけにもいかないらしい。天下の五条家といっても警察や諜報機関ではない。国内ならまだしも、海外に紛れ込んだたったひとりの男の身柄を追跡拘束するのはそう簡単な話ではないようだ。

「野放しにしておくのも癪だけど、正直なところ直哉の身柄は保留かな…星読みだ催眠だ云々の話は立件するのは現実的じゃない。今はLSDの件と殺人の線で警察に捜査を依頼するくらいが関の山だろうね」

五条でもそうそう解決出来ない事態があるのか、と当たり前のことに少し驚きながら、ナマエは「わかりました」と頷いた。結局直哉のことは七海に報告するに留まったが、警察でも証拠が不十分すぎて捜査することは難しいらしい。見事に禪院直哉は逃げおおせたというわけだ。五条に妙な対抗意識と執着心を持っていたあの男が、このまま逃げて終わりだとは到底思えなかった。


事務所でコーヒーを飲みながらメールをチェックする。数件届いているメールはすべて営業のメールばかりで依頼は一件も入っていない。まぁこの探偵事務所はだいたい閑古鳥が鳴いているし、これは通常運転だと言える。あとは郵便受けから回収してきた郵便物の仕分けをしておこう。
そうこうしているうちに扉の外からコツコツコツと階段を上ってくる音が聞こえる。この足音は五条のもので間違いない。数秒でドアが開かれ、白い髪を揺らしながらひょっこりと五条が顔を出した。どうやら今日は朝から出勤する日のようだ。

「おはよ、ナマエちゃん」
「おはようございます」

ナマエは座っていたソファから立ち上がり、それと入れ違いになるようにして五条は自分のデスクチェアに腰かけた。給湯室で彼好みの甘いカフェオレを用意すると、五条のデスクまで運んでいく。

「ん、ありがと。依頼は来てる?」
「いえ、今日のところは一件も来てないですね」

ナマエは届いている封筒のいくつかを仕分けして、不必要なものをシュレッダーにかけた。今月の資金収支表の作成もそろそろ進めておいたほうがいいだろう。今日の業務内容を頭の中で思い浮かべていると、五条が「そういえば」と口を開いた。

「直哉、今マカオにいるみたいだね」
「えっ!分かったんですか!?」
「うん。うちの伝手でカジノに出入りしてるところを突き止めたよ。流石にどうのこうの手は打てないけど」

世間話のテンションで切り出された話題は少しも世間話じゃなかった。あの電話の一件以降海外に行ったということ以外なにも分からなかった禪院直哉の所在が判明したらしい。海外にいる人間の足取りまで追ってしまうなんて、五条家の情報網というのはどうなっているんだろう。

「カジノでひと稼ぎして軍資金作ったらまた仕掛けてくるつもりかもねぇ」
「ま、また、五条さんにってことですか?」
「そーそー。あいつってば昔からなんか僕に執着してんだよねぇ。まったくモテモテで困っちゃうよ」

まるで面倒な訪問販売に嫌気がさしたような身軽さでそう言って見せる姿は、まさか自分がドラッグと催眠術でどうこうされたとは思えないような態度である。あんなことが彼にとって日常茶飯事とは流石に信じたくないけれど、そもそもこの事務所に舞い込んでくる依頼自体、ナマエの常識の範囲内を大きく超えている。

「そうなったらナマエちゃんにはまた迷惑かけちゃうかもしれないけど…その時は今度こそ僕が全力で守ってあげる」

ナマエが黙ったのを不安に思っているからだと解釈したのか、五条がそんなことを言い出した。今はべつに自分の身を案じるよりも禪院直哉によって降りかかる彼への不利益を思っていたところだったが、彼がひとりでその渦中に巻き込まれるよりは自分もそばにいられるほうがいい。

「べつに迷惑なんかじゃないですよ。一緒にいられた方が安心できます」
「あらまぁ可愛いこと言ってくれちゃって。じゃあお礼にナマエちゃんには僕の残りの人生全部あげちゃおっかな」
「は!?え…!?」

突拍子もないことを言われて思考が一瞬フリーズする。五条が頬杖をつき、かたちの良い唇が綺麗な三日月を描いた。

「ナマエちゃんだけが、この先もずっと僕の特別なんだから」

彼のデスクに乗っているカフェオレと同じくらいに甘い言葉をかけられ、恥ずかしさとか嬉しさとかいろんな感情がぐるぐると混ざる。出来ればあんな危険な事態には一生巻き込まれたくないものだけれど、彼と一緒にいるためだと思えば些細なことなのかもしれない。五条がデスクチェアから立ち上がり、ナマエにそっと歩み寄って五条がナマエの指先をさらった。

「…それって五条さんの勘ですか?」
「いいや。これは僕の願望」

彼の長く美しい指先がナマエの柔らかい手を包み、お互いの温度がじわじわと混ざりあう。視線がかち合い、まるで引力が働いているかのように引き合って、だんだんと顔が近づいた。もう少しで唇が触れてしまう、という瞬間、事務所の電話がけたたましく鳴り、ナマエは慌てて飛び退くと電話を手にして耳に当てる。

「は、はい!五条探偵事務所でございますっ!」

常套句を反射のように吐き出せば、電話口からおずおずと遠慮がちな声音で「あの、父の遺言状を見てお電話したんですが…」と聞こえてきた。これは依頼の電話だ。ハッと五条を見て電話口で聞いた名前を伝えるように復唱する。五条はその名前を聞いて右側のキャビネットの前に迷いなく立った。

「はい、承知しました。では、お気をつけてお越しください」

ナマエはそう言って通話を終了し「五条さん」と声をかける。彼はもうファイルのひとつを開いていて準備は万端ということだろう。彼の勘もすっかり元通りになっている様子にホッと胸をなでおろした。

「今回の依頼は人探しか…さて、どうなるかな」
「行き先ってどこですか?」
「その行き先から探す感じだねぇ」

五条がナマエにファイルを開いたまま差し出す。十年前に蒸発した兄弟を探してほしいというのが今回の依頼内容のようだが、これはまた随分と骨が折れそうな依頼である。五条はカップの中の甘いカフェオレをぐいっと飲み干した。

「じゃ、今日も営業開始といこうか」

ナマエはこくりと頷き、ファイルの中身にもう一度目を落とす。一体ここにはどんなラストワードが残されているのか。資料に目を通したナマエがパッと顔を上げると、五条がいつも通りの笑みを浮かべていた。

「ご依頼人のラストワード、必ず聞き届けましょう!」

非日常への扉は、そうそうお目にかかれないように見えて実はごく身近に存在する。しかしナマエにとってその非日常は、いつの間にか着実に日常へと変わってしまった。今日も五条探偵事務所の日常が始まる。



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