愛と遺言 12


暗闇の中は温度を感じない。瞼を開けているはずなのに、まるで瞼を閉じているのと変わらないような気になった。ぼんやりと自分と周囲の境界線が溶けていくような感覚に陥る。見えているような見えていないような闇の中で自分のかたちが失われていく。その時だった。天頂に小さく星が輝く。白くてささやかで、まばたきをすればそれだけで見失ってしまいそうな星だ。

『誰だ?』

その星に気が付いた途端、周囲に景色が現れた。コンクリートの地面で、奥には人ひとりが通るのでやっとだと思われるような道が続いている。先ほどまで暗闇にいたはずなのに、ここはどうにも屋内に見える。

『どうしてこんなところにいるんだ、俺は』

確かにそれは自分の声であったが、しかし自分の意思とは関係のないところで発せられた声だった。細い道の奥から誰かが走ってくるような足音が聞こえる。しかしその道と自分との間には大きな溝のようなものが広がっていた。

『なんでこんなところにいるんだ、僕は』

誰かに呼ばれたような気がする。大きな道のほうを見れば、天頂に輝いていたはずの小さな星が浮遊していて、対岸からこちら側へと飛んでくるのが見えた。しかし勢いを失って溝の中へと落ちていく。
きっとこの星を逃してはいけない。根拠もなくそんな気になって落ちていく星に向かって精一杯手を伸ばした。

『───ちゃん!』

今一体誰の名前を呼んだのか。自分で呼んだはずなのにわからなかった。ただただ今は目の前のこの星を逃すわけにはいかないと、そればかりを考えていた。

「……夢」

緩やかな微睡を経て覚醒すると、そこは見知ったような見知らぬようなベッドの上だった。記憶の欠落する前の自分が住んでいたらしいマンションは、生活に必要なものが揃っていても殺風景に見える。五条はベッドから上体を起き上がらせると、枕元の時計を確認する。午前5時。夢を見るにはそれらしい時間だ。もう一度寝そべってはみたけれど、結局眠ることなんてできやしなかった。


怒涛すぎてすっかり失念していたが、自分は会社経営を任されている身であると伊地知が言っていた。10年も経過しているならしかるべきだ。しかしこんな状態で経営など出来るはずもなく、現在は伊地知がうまく立ち回ってなんとか回してくれているらしい。いままであまり直面したことのない「自分ではどうしようもない状況」に正直かなり焦っていた。
こんな状態の自分に出来ることは少ない。記憶がないというこの状況を利用してやろうなんて連中は思いつくだけで両手じゃ足りなかった。

「ノブキコ、お前俺んとこ来てていいのかよ」
「悟さまの一大事なんですもの。婚約者の私がお手伝いして当然でしょう?」

婚約者のノブキコはそれはそれはもう献身的で、10年間の欠落している五条の不便を補うように何から何まで世話をして回った。彼女とこんなにも円満な仲だっただろうか。いや、自分の中で覚えがないのだから、空白と化している10年間で何かがあったのだと考えるほかないだろう。

「悟さま?」

ノブキコが覗き込むようにして上体を折り曲げる。綺麗なアーモンド形の瞳は長い睫毛に縁どられて、つんとした鼻先も程よい厚さの唇も、10年間で彼女も歳を重ねたが、相変わらず人形めいた美しさである。分家筋と言いつつも清岡家とはそこそこ近い血縁で結婚も繰り返しているし、自分の家の遺伝子に近いものを感じた。

「どうなさったんです?そんなにジッとこちらをご覧になって」
「別に」

ノブキコのことはごく幼いころから知っている。それこそ10歳になるかならないかくらいの時点で婚約者だということが内定していたような間柄だ。10年前、自分の中で彼女に対して従妹程度の親愛の情しかなかったはずであるが、10年でいつの間にか探偵事務所なんて訳の分からない商売も始めているくらいだし、心境の変化のようなものがあったのかもしれない。
連想ゲームのように探偵事務所のあの女のことを思い出した。彼女を見ていると胸の奥がざわつく。言葉で表現ができないような感情が湧き上がって、胸の中に靄がかかったような気分になる。

「悟さま」
「今日はもういい。オマエも帰れよ」

熱心に自分の世話を焼くノブキコに違和感を抱いた。それは自分の記憶が欠落しているからなのか、それとももっと別の何かなのか。とりあえず今は判断できる材料が今は少なすぎる。ノブキコを帰らせてひとりきりになった部屋の中、五条はじっと自分の指先を見つめて思考を整理した。

「……ノブキコと結婚は…してねぇんだよな…」

これは大いに疑問な点のひとつであった。自分があまり了承していなかったとはいえ、ノブキコと自分は婚約の内定の関係にあった。それを継続していたというなら、何故まだ結婚もせずに婚約者のままなのか。家のやり口や今までのケースのことを考えると、女の方が16歳になってすぐとは言わないが、成人してすぐには籍を入れていたほうが自然だ。しかし未だに、彼女は婚約者のまま。

「結婚、できない事情……」

なんらかの原因があると仮定してみても、その仮定さえままならないんだからどうしようもない。ため息をついて記憶を整理するよう心がける。それでも10年ほど前の時点からぷっつり途絶えたまま、いつまで経ってもロードが終わらないゲームのように何もかも進んでいかなかった。

「……ミョウジ、ナマエ…か」

ノブキコのことを考えていたはずなのに、いつの間にか思考はあの探偵事務所の従業員の女に向いていた。自分と話をするたびに揺れる瞳。それに好意が混ざっているだろうことはそういう視線を向けられる機会が多かったからすぐにわかった。だけどなにか、彼女の視線には違うものが混ざっているように思う。そのなにかがわからない。

「くそ……」

頭の中で解決できない問題たちがどんどん絡まっていく。自分は器用な方で、やれば大抵のことは苦労もせずにそれなりに出来た。自分をコントロールするなんてお手の物のはずだ。なのに今は絡まる問題がそのまま黒いものにかわり、脳みそを締め付け、思考を鈍化させる。こんなことは初めてだった。
しばらく何をする気力も起きなくて、ジッとソファに座って意味もなく壁側に視線をやって冷静さを取り戻そうとした。何十分か、何時間か、そうしているとすぐそばでスマホが鳴った。
一体誰だと思ったらナマエからの着信だ。伊地知たちから他人と不用意に連絡を取るなといわれているが、この女なら元々知っているのだから問題ないだろう。電話に出たところで何を話せばいいのかもわからなかったが、とにかく五条はスマホの緑色のボタンをタップして通話に応じた。

『あの、もしもし…五条さん?』
「おー」

「おー」と「あー」の間くらいの相槌を打って、ナマエからの続きを待つ。ナマエは少し息をするような間を持って、それから『お願いがあって電話したんですけど』とようやく言葉が続いてきた。まぁ従業員と雇い主なのだから何か業務上のことだろう。そう言えばこのところずっと探偵事務所とやらは稼働出来ていないはずだし、休業か何かの相談だろうか。

『明後日、××町のビルに来てほしいんです』
「はぁ?」
『どうしても、お話したいことがあって…屋上で待ってます』
「なんだってわざわざ屋上なんかに……」
『屋上が一番、都合がいいので』

よく知りもしない女のわけのわらない頼み事は混乱を極めた。「探偵事務所の件?」と尋ねてみるも、彼女は煙を巻くように『そのときお話しますから』の一点張りだ。不審に思ったものの、退屈な軟禁生活とうっすら感じるこの先への不安に、五条はナマエの申し出を受けることにした。

「…都合って、何の都合だよ」

通話を終えたスマホをソファに放る。声は落ち着いているように感じられた。あのあと泣いたんじゃないかとなんとなく思っていたから、彼女の凪いだ声に安心したような、残念なような、妙な気持ちになった。


翌々日、ナマエに呼び出された××町のビルに足を運んだ。伊地知も丁度出かけているようで、軟禁の監視の手は幸いにも緩んでいた。
足を踏み入れたそのビルは五条家の持ち物のひとつだった。バブルの頃に建てたらしい古い5階建てで屋上への扉は施錠されているはずだ。彼女はここで一体何の話をするつもりなのか皆目見当もつかない。そもそも立ち入り禁止の屋上にどうやって入るつもりだろう。もちろん自分が言えば鍵なんてすぐに手に入るけれどナマエの『待ってます』の言葉にその話をすることも出来ず、鍵がかかってるじゃないか、と気が付いたのが電話を切ったあとだった。

「……開いてる」

ドアノブに手をかけて回すと、少しだけの抵抗をもって扉は容易に開かれた。ぎいっと鉄製の扉がいびつな音を立て、隙間から風が吹き込むことによって押されて一気に開く。ざぁっと吹く北風は冷たく、露出している指先を容赦なく冷やした。

「……五条さん」

数メートル先に呼び出しの張本人であるナマエが立っていた。彼女は随分と重たそうな白いワンピースを着ていて、幾重にも重なったその布で足元さえ見えない。とてもじゃないが普段着でないことが明らかだった。

「…こんなところまで呼び出して一体何の話だよ」

どうにか言葉を絞り出してそう尋ねてみたけれど、正直なところ、異様なこの空気感に呑み込まれてしまいそうだった。吹きさらしの屋上、遠い喧騒、真っ白な非日常感を纏ったワンピースを着る女。彼女はこんなところで何の話をするつもりなのだろうか。

「依頼です」
「依頼ぃ?」
「はい。探偵事務所に、私からの依頼です」

彼女の声は冷静なままだった。探偵事務所といっても、生前の依頼を依頼人の死後に遂行するとかいう変わった探偵をしているんじゃなかったか。それに依頼されようにも自分より彼女の方が今は探偵業のことをわかっている始末だ。五条が考えている間にもナマエは「依頼料は完全前金制。ちゃんと振り込んでますよ」と続けている。

「私、五条さんのためなら、なんだって出来ますよ」
「はぁ?」
「だから五条さん、私からの依頼聞いてください」

突飛な発言を受けて眉間に皺を寄せる。そこで「あ」と気が付いた。生前の依頼を依頼人の死後に遂行する、いわば遺言探偵。つまり依頼の遂行は、依頼人の死をもってしか遂行されることはない。ナマエがぎゅっと五条の手を握る。

「……私のこと、この先は一生忘れないで」

ナマエはそれだけを言うと、五条の手を放して屋上の隅の手すりの方まで走っていった。それから重いだろうワンピースをひらりと器用にさばいて手すりを乗り越える。そこからビルのふちにあるコンクリートの段差に飛び乗る。
磨き上げられた冬の空の青さを背景に、彼女はゆらゆらと危うげな場所を、少しの躊躇いもなく歩く。一歩、二歩、そこで振り返り「五条さん」と名前を呼ぶ。

「私、五条さんのためなら死んだっていい」

その言葉を最後に彼女の身体が手すりとは反対側に投げ出され、真後ろを向いたままゆっくりと外側に落ちていく。それはもうスローモーションで、これに似た光景を、五条は以前にも見たことがあった。あのときは地面ではなく、その先が海だった。
そうだ、どうして忘れていたんだろう。忘れていられたんだろう。こんなにも自分の手の中に留めておきたいと感じていた彼女のことを。地面を蹴って駆け出す。手すりを飛び越えて手を伸ばした。

「ナマエちゃん……!」

投げ出された彼女の身体が、地面に向かって呆気なく落下する。



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