愛と遺言 11


薄暗い中を歩いている。コンクリートの壁に囲まれたそこは狭く、人ひとりが通るので精一杯の広さだった。窓はない。それなのにどうしてだか真っ暗ではなくて、足元の道が確認出来る程度の明るさがあった。

『行かなきゃ』

確かにそれは自分の声であったが、しかし自分の意思とは関係のないところで発せられた声だった。速度は増していく。地面は冷たく、走るたびに足が凍るような気がした。果てのないかのようにずっとずっと続く道が突如として途切れ、目の前に大きな溝のようなものが広がった。そしてその溝の先に白い髪が揺れている。

『五条さん』

ここを飛び越えなくては到達できない。けれどこの幅を飛び越えることは到底できないことのように思われた。はやく、はやくしなくちゃ、辿り着かなくちゃ。駆り立てられたナマエは勢いよく踏み切る。

『五条さんっ…!』

対岸に到達することは出来ない。というよりも、対岸に到達しそうなその瞬間にそれがもっと遠くなったような気がした。手を伸ばす。目一杯に、彼に届くように。辿り着くかつかないかの寸前のところであたりが白んできて、強烈な光に包まれた。その光の向こうに人影が見える。

「ごじょ……さ……」

人影に向かって手を伸ばす。ナマエの伸ばした手が向こう側から掴まれて、意識が明確になってくる。まるで粘度の高い沼から這い出るような感覚を覚えながら意識が覚醒し、目を瞬かせる。目の前には白髪の男ではなくて、長い黒髪の男がナマエを心配そうに覗き込んでいた。

「良かった、目が覚めたね」
「夏油…さん?」
「……悪いね、悟じゃなくって」

夏油が申し訳なさそうに眉を下げた。どうにか身体を起こすと、見慣れたアンティーク調のインテリアが広がっている。どうやら自分は探偵事務所まで運ばれたらしい。

「助けていただいてありがとうございます…あの…私どうやってここまで…その、覚えてなくって…」
「伊地知が事務所に来たら鍵がさしっぱなしのままで、オマケに君に連絡がつかなかったらしくてね…悪いけど君のスマホのGPSで居場所を調べさせてもらった。そしたら無人の部屋で柱に縛り付けられてて…驚いたよ」

夏油の説明におおよその状況を理解した。すると給湯室からひょっこりと伊地知が顔を出す。手には湯気のたつ湯呑を持っていて、ナマエに緑茶を淹れてくれたらしい。ナマエの前まで湯呑を運ぶ。ナマエは二人に向かってぺこりと頭を下げた。

「すみません、お手間をおかけしました…」
「いえ、ご無事で何よりです。夏油さんが発見してくださったときには多分何らかの薬を使って眠らされているようでした。手首は傷になってしまっていますが…他に何か自覚症状はありますか?」
「問題ありません。薬……多分、ですけど…LSDを使われたんじゃないかなと…」

ナマエの言葉に伊地知の表情が固くなる。一方夏油はなんでそんなものがわかるんだとばかりの理解できないような表情を浮かべていた。夏油が「伊地知」と短く説明を求めると、伊地知が渋々といった様子で夏ごろにあった依頼の宗教団体がLSDを用いており、ナマエがその被害に遭ったことを説明した。それから伊地知がナマエに向き直る。

「ミョウジさん…LSDを使ったと思うのなら、そう推測できるだけの事態だったということですね?」
「はい。事務所の前で私を誘拐したのは真海伝道会にLSDを融通した男でした。水を飲まされたので、それに混ざってたんじゃないかと思います」

ナマエの言葉に「なるほど…」と伊地知が相槌を打つ。それから伊地知が「犯人の顔は見ましたか?」と尋ね、ナマエはそれに頷く。

「男は…禪院直哉と名乗ってました」

ナマエが口にした名前を聞いて、伊地知と夏油がグッと目を見開く。二人とも禪院直哉を知っているだろうということは明らかだった。夏油が伊地知に視線を向けると、伊地知はこくりと頷いた。

「ミョウジさん、禪院直哉と何を話しましたか」
「…あのひとが五条さんに催眠術をかけたらしいです。ノブキコさんにLSDを盛らせて、そのときに催眠術をかけたと言っていました」
「なるほど…ノブキコさんがまさかLSDなんか持ってるなんて流石に思わないでしょうから、不意を突かれたとしても理解できます」

伊地知が言った。話を聞く限り、五条はノブキコに対してそれなりの親愛の情があったとみえる。見たことはないものの、五条の分家なのなら相当のお嬢様だろう。そんな女がまさかLSDを首尾よく入手するとは思いもよらないことは想像に難くない。どうしてノブキコさんが、と言いたげな伊地知にナマエは重い口を開いた。

「ノブキコさんの…五条さんに対する好意に漬け込んだと言ってました。ノブキコさんの好きな五条さんに戻してやるってそそのかした、みたいで…」

複雑な心理を抱えたまま、ナマエは意地悪く笑った直哉の顔を思い出した。実際に実行したノブキコに非がないとは言えない。けれど誰かの好意を利用するなんてそんなの最低だ。もしも自分が同じように利用されたら、と思うと心臓が痛かった。

「10年前…なるほど。10年前だと確かにまだ婚約が破棄されていません」

伊地知が得心がいったとでもいうように顎に手を当てて今までの状況と頭の中で照合をしていく。それに今度疑問を提起したのは夏油だった。

「でも、そんな状態にして会社のことはどうするつもりだったんだろうね。清岡家の人間だって会社の結構なポストにいるんじゃなかった?」
「逆にそこですよ。五条さんを実質的に経営から追放して、清岡家が会社を牛耳るつもりなのかもしれません」
「ノブキコさんがそこまで考えるか?あのひとただのお嬢様だろう?」
「ノブキコさんにそのつもりがなくても、御父君までそうとは限りませんよ」

伊地知いわく、清岡家の一部の人間が五条グループの中でも重工業においてかなりのポストについているらしい。だから五条の経営能力を実質的に奪って乗っ取ろうという算段かもしれないというのが伊地知の読みだった。五条をそんなに簡単に言いくるめられるような気はしないが、現段階での現実的な手段なのかもしれない。

「それにしても…あいつが絡んでるとなると…かなり厄介だな」
「ええ。まさか禪院家まで絡んでるとは…ちょっと予想外ですね」

夏油と伊地知がそれからもいくつか言葉をかわす。薬のせいでぼんやりとした頭の中もようやくすっきりとしてきた。二人のやり取りがひと段落したところでナマエはおずおずと口を開く。

「あの…禪院直哉さんって、あのひと一体何なんですか?」

禪院家が星読みなのは理解している。そして彼が何年も前に家を出たとも聞いた。だけどわからない部分が多すぎて不気味だ。何故五条を狙うのか。そこまでしたい理由が何かあるのか。

「……あの人は、元禪院家後継筆頭です。業界では相当星読みの才能があったらしいですが……五条さんからは4、5年前に失踪したと聞いています」
「後継筆頭…じゃあひょっとして恵くんが抜擢された理由になったのって…」
「ええ、彼ですよ」

ナマエは春先の禪院家の依頼のことを思い出した。そもそも禪院家の血縁であるとはいえ外の家で生まれた恵が当主候補として迎えられたのは、それまでいたはずの後継者が蒸発したからだと言っていた。

「五条さんに一泡吹かせたいって言ってたんですけど…何か因縁でもあるんですか?」
「いえ、そんなことは聞いたことがありませんね。まぁ逆恨みされることもよくあるので。あのひと」

そう言われると納得できてしまうのは五条の立場のせいなのか彼の性格のせいなのか。とにかく伊地知には覚えがないようだ。そこまで黙って聞いていた夏油が「あのさ」と口を開いた。

「…あいつがかけた催眠だと…そう簡単に解けないんじゃないか?」
「…腐っても禪院家の元後継筆頭ですから…その辺のインチキな連中とは違うでしょうね…」

禪院家は現在社会でもブルジョワ層を相手に商売をして成立しているような家だ。警察へ駆け込むのもNGだと五条は言ったくらいだし、政治の世界まで根を張っている可能性さえあるような家であり、流石にただのインチキということはないだろう。

「長引くようなら、ナマエちゃんの生活どうなる?」
「それは……」

伊地知が言葉を濁した。目先のことで精一杯になっていたが、そもそもここは五条の事務所であり、あまつさえナマエは社宅と称して同じビルの中に居住している身である。探偵事務所の運営がままならなくなれば閉めざるを得なくなるし、そうなれば自分の生活費を捻出することもできなくなって生活が立ち行かなくなるのは目に見えている。生活費はまだしも、住む場所を追われるのは不味い。このビルの持ち主はそもそも五条悟そのひとである。どうなってしまうかわからない。

「……ナマエちゃん、ウチに来るかい?」
「え……」

思わず夏油の方を見ると、彼が心配そうな目でこちらを見ていた。伊地知が「ちょっと夏油さんそれは…」と咎めようとして「さすがに私もそこまで空気読めないわけじゃないよ」と夏油が弁明する。

「悟からナマエちゃんのこと横取りしようとかじゃなくてさ。食い扶持がなくなったらどうしようもないし、悟の一存…または悟に漬け込んだ人間の仕業で社宅を追われるかもしれない。そうなったらナマエちゃんが可哀想だろう?」
「まぁ確かに…五条さんが原因ともなると私が動いて融通するのも難しいかも知れませんからね…」
「だろう?私のところならそれなりに衣食住も保証してあげることが出来るし、ナマエちゃんが望むなら働き口も紹介出来ると思う」

ナマエを置き去りに話が進んでいく。そのときタイミング悪く伊地知のスマホが鳴った。どうやら会社関係の連絡らしい。今は代表取締役が不在にしている間の穴を埋めているのだから相当の量の仕事をしているはずだ。電話の内容が急ぎらしく、伊地知は電話を切ると慌ただしく会社へと戻っていくことを余儀なくされた。
どうなってしまうんだろう。目の前で二人がしてくれたやり取りで自分への影響を言語化されたような気分になった。五条のことも、これからの自分の生活も、考えてしまえばしまうほどなにも解決できない泥沼だ。

「…ナマエちゃん?」

夏油の声が小さくナマエの名前を呼んだ。早く五条に元に戻ってほしい。帰ってきてほしい。視線はいつの間にか彼のよく座っていたデスクチェアのほうに向けていた。「ナマエちゃん」と、五条が名前を呼んでくれる声が聞こえる気がする。

「……五条さんの記憶、どうやったら戻りますかね……」
「心配ないさ…っていうのは、無責任だね」

夏油が眉を下げる。自分ばかりが弱って参っているふうになってしまっているが、心配なのは彼らだって同じだ。彼が優しいからと言ってつい甘えた態度ばかりをとってしまった。ナマエは一度唇を噛み、暗い顔をなんとか引っ込めるように努力をする。

「自分に出来ることをしなきゃですよね。ごめんなさい。もっと前向きに考えなきゃ」

少し無理やりだけれど、何とか口角を上げた。出来ることをしなければ。例えば今の自分に何が出来るだろう。今までここで得てきた経験で何かを活かすことは出来ないだろうか。催眠とはつまり強い暗示状態にあるものと同じようなことだ。今まで同じようなことがなかったか。そうだ「暗示を打ち破るにはやっぱり強い衝撃が一番だよ」と、他でもない夏油の言葉を思い出した。

「強い…衝撃……」

あれは吉野様の依頼のときだ。あのときはサクラコの母親が吉野様を呪いの桜だと信じて取り付く島もなかった。その暗示から覚ますため強硬手段をとったのだ。あれをきっかけに現在は暗示から少しずつ解消されている。強い衝撃がきっかけになったのは間違いない。

「そうだ……!」

ナマエは頭の中に過ぎった妙案にガタンと勢いよく立ち上がる。急に立ち上がるものだから、夏油は驚いたように切れ長の目をパチパチと瞬かせた。

「夏油さん!あのっ!思いついたことがあるんです…!」

ナマエは思いついた妙案を夏油に身振り手振りで説明し、夏油の表情はみるみるうちに渋く変わっていく。最終的にはまるで苦いものを食べたかのように顔を歪め、ナマエのほうに問うような視線を向ける。

「…ナマエちゃん、本気?」

ナマエは力強く頷いた。彼は自分のことを特別だと言ってくれた。ひょっとして自分なら、失われた10年の記憶を少しは手繰り寄せることが出来るんじゃないか。少なくとも今は、少しの可能性を信じるしかない。そのためなら、なんだってしてやる。



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