或る探偵 03


ナマエは五条に言われた通り、週明けに出社してメーカーへと商品の有無を確認する問い合わせのメールを送った。もちろん特定顧客向けのOEM品や生産中止品でも該当がないかどうかを合わせて聞いている。
問題はメールのほうだ。幸か不幸か、この会社のデスクトップパソコンのパスワードは社員番号と決まっている。セキュリティ的にはどうなんだという話だが、社員番号は総務の共有ファイルを見ればわかるものだから、実質誰でもアクセスできるということだ。

「おはようございます」

自分と業務内容の被っている社員ならまだしも、キタムラとは課も違うし個人的な関わりもそれといってない。フロアから人がいなくなるタイミングを狙って調べるしかないだろう。そんな算段をしながらいつも通りに挨拶をする。

「おはよう、昨日の見積もり、悪いけど急ぎでよろしくね」
「わかりました。朝イチでやります」

隣席の先輩社員からそう言われ、愛想笑いを浮かべながら会釈をする。何か残業をするきっかけでもないものか。社内チャットを遡ると、案外好機が近いのではないかということに気がついた。営業部の飲み会だ。これは二、三ヶ月に一度開かれ、営業マンのみならず、事務の人間もかなりの割合で参加するもので、その日の終業後は残業をする社員が一番少ない。

「ミョウジさん、ちょっといい?」
「あ、はい」

同じ営業三課の女性社員に呼ばれ、業務の指示を受ける。部署飲みの日は今週金曜日。二課長であり付き合いのいいキタムラは間違いなく参加するだろう。定時直後でも上手くいけば営業部が無人になる。
その日の夕方にはメーカーに問い合わせた型式の有無の回答が返ってきた。勿論回答は「該当無し」だ。ナマエはこっそりとそのメールをプリントアウトして持ち帰り、五条に結果の報告をしたのだった。


ナマエの暮らす社宅は1DK。古いマンションの一室だが、一人で暮らす分には不便はしていない。食事を済ませてシャワーを浴び、充電ケーブルに繋いだままベッドの上に転がしているスマホを確認すれば、ディスプレイにメッセージの通知がついている。五条からだった。

『確認どうもありがとう。メールの方を探る算段はついてる?』
「今週の金曜日に機会があると思います。その日に探ります」

五条からの返事に簡潔に返す。好奇心とニシカワの死への不信感から協力を承諾したが、これは実際結構危ない橋を渡っているのではないか。五条の指摘の通り伝票上の商品が「存在しない」ことを確かめてしまって、実感がすぐそばに寄ってきた。

「……でももしもキタムラ課長が犯人とかなら…きっとこれも証拠の一つになるんだよね…?」

プリントアウトしたメールを眺める。現行品はもちろん、OEMでも生産中止でも型式の該当がない。けれど社内システムで確認したら、この商品はやはりもっともらしい顔で仕入実績欄と売上実績欄に名を連ねていた。少なくともキタムラがこの存在しない商品を△△システムから仕入れてA商会に販売しているのは間違いない。ニシカワがなぜこの事実を知っていたのかは、未だにわからないけれど。

『じゃあ金曜日に事務所で待ってるね』

数分してから五条の返信が入る。丁度一件資料を作らなければいけないはずだから、その資料作成の名目で残業をすることにしよう。どうにか穏便にことが済めばいいが。


来たる金曜日、ナマエは理由をつけて残業を申請することに成功した。ナマエの部署の営業三課の課長は今日山形に出張に行っている。上長がいると中々残りづらいところもあるが、今日は心置きなく居残りすることが出来る。
終業時間が過ぎると、金曜日ということもあって飲み会に参加しない社員も早々に帰り支度を進めていった。

「あれ、ミョウジさん残業?」
「はい。ちょっと一件資料作成があって」
「そっか。じゃあお先」

同じ参加の先輩社員にそう声をかけられる。にっこりと愛想笑いを貼り付けたまま「お疲れ様です」と挨拶を返した。フロアから人がいなくなるまでは大人しくパソコンに向かい、専用のフォーマットにデータを入力していく。
一時間もすれば殆どフロアから人がいなくなり、ナマエは横目で同じフロアにある営業二課の様子を伺った。キタムラを含め、二課のほうはもう誰も残っていない。ナマエのいる三課もだ。一課の後輩の営業の社員が帰り支度をしているようで、それが終わってからナマエのところにとことこと歩み寄った。

「あのー…ミョウジさん」
「お疲れ様です。守衛さんには私の方で報告しおくので」
「ありがとうございます、お先に失礼します」

ぺこりと会釈をすると、後輩社員はネームプレートを裏返して事務所を出ていく。足音が遠ざかるのを確認し、ナマエはひっそり立ち上がってキタムラのパソコンの電源を入れた。少しの待機画面のあとでパスワードの入力画面に切り替わり、事前に調べていたキタムラの社員番号を入力して立ち上げる。

「メール……あった。三日前……A商会の専務から……存在しない商品の注文…」

件名は注文の件と書かれ、メール本文中の指示で例の存在しない商品の注文を依頼していた。ナマエは手早くそのメールをプリントアウトして、ほかにも先月に同じようなメールを見つけてそれもプリントアウトする。はやくパソコンの電源を落としてしまおう。フロアが無人とはいえ、長居は無用である。メールソフトを閉じ、電源のシャットダウンをする。その時だった。廊下の方からこつこつと足音が聞こえた。
ナマエはパソコンが順調にシャットダウンされていくのを横目で確認しながら営業三課のデスクの島に慌てて戻る。

「あれ、ミョウジさん珍しいな」
「え、あ、す、キタムラ課長…お疲れ様です…」
「お疲れさま」

あろうことが、足音の主はキタムラだった。間一髪だ。ひょっとしてまだマウスを操作していた自分の体温やら何やらでバレてしまうのではないか、と少し怖気づき、普段ならこれ以上会話を広げないところを、どうにか時間を稼ごうと口を開く。

「今日、営業部の飲みですよね?キタムラ課長行かれてるのかなと思ってたんですけど…」
「ああ、流石にね。先月あんなことがあったばかりだし……」

キタムラが眉を下げる。あんなこと、というのは言わずもがなニシカワの自殺の事だろう。会社内では他の社員がニシカワの自殺に引きずられないようにとなるべく普段通りに過ごすことが推奨されている。だから今日の営業部の飲み会もあえて通常通りに行われることになったのだ。
ナマエのように普段から親交のあった社員のみならず、そうでもなさそうに見えるキタムラも思うところがあるのだろうか。

「忘れ物取りに戻ったんだけど、ついでにちょっと仕事していくからミョウジさん仕事キリつきそうなら上がって」
「はい。もう終わるところなので纏めたらお先に失礼します」

ナマエはまことしやかにそう言ってみせ、作りかけのデータを保存して帰り支度を始めた。キタムラは一度お手洗いに立ってからデスクに戻ってきて、ナマエが先ほど落としたばかりのパソコンを立ち上げた。


飛び出すようにオフィスをあとにして、会社の最寄りから乗り換えること二回。駅から歩いて五分の五条探偵事務所を目指す。レンガ調のビルの古めかしい階段を二階までのぼると、五条探偵事務所と書かれた木製の扉をノックした。

「どうぞー」

内側から五条ののん気な声が聞こえ、ナマエは「失礼します」と断ってから戸を開いて中に入る。正直ここまで心臓はバクバクだ。もちろん、五条に対する緊張なんかじゃない。オフィスで予想外に出くわしたキタムラに対する緊張だ。

「首尾はどう?」
「…メール、プリントアウトしてきました」
「さすが」

五条は嬉々とした様子でナマエにソファを勧める。ナマエは早速腰かけると、鞄の中からプリントアウトした数枚のコピー用紙を取り出す。

「こっちが例の商品の代理店からの回答で…こっちがキタムラ課長のメールです」
「どーも」

五条は長い足を組み換え、差し出されたコピー用紙に目を通していく。とりあえず今のところ確認できている証拠は「キタムラが△△システムから架空の商品を購入してA商会に販売している」という部分だけだ。登記情報を見れば△△システムの代表がA商会の専務の妻であることはすぐにわかるだろうが、A商会でどんな処理がなされてA商会の専務のポケットに金が入り、それがキタムラに回っていると証明するつもりなのだろう。

「うん、これで問題ないね」
「そう…ですか……」
「あれ、なんだか浮かない顔だけど」

五条から話を受けたときは正直興奮が勝ったところがあり、普段にない体験にアドレナリンが出ていたのだと思う。徐々に冷静になっていくと、これからこの横領の件をどう運んでいくつもりなのか、そのあと会社はどうなるんだという不安が頭をもたげ始めた。

「……キタムラ課長、なんでこんなこと…」
「まあ、人間堕落するきっかけなんてどこにでも転がってるもんだよ」
「だけど横領なんて!犯罪ですよ!」
「一回うまく行っちゃうと味をしめるんだろうね」
「だからって口封じに人まで殺すなんて……!」

思わず言葉がヒートアップしていく。ひとが一人殺されていて冷静でいられるわけがない。ニシカワがこの証拠を生前五条に託したということは、きっとキタムラにニシカワが勘づいたことがバレてしまったに違いない。横領なんて確かに告発されたら間違いなく解雇だし、その後の社会生活だって危ういだろう。しかし人まで殺す必要があるのか。

「それに私、信じられないんです。キタムラ課長…課も違うのに今日もニシカワさんのこと気にかけて……まさかそんな人がニシカワさんを殺すなんてとても…」

信じたくない。いくら横領犯だとはいえ、まさか自分の会社に人殺しがいるなんて。人当たりのいいキタムラはただでさえ犯罪とは縁遠そうなのに、横領と、あまつさえ殺人なんて。しかも今日話した様子ではニシカワの死が引っかかっていつも参加する飲み会まで遠慮しているようだった。あの表情と言葉は、果たして加害者本人から出てくるものだろうか。

「いや、まぁ、キタムラさんは別に殺してないからね」

ぴたり。五条の言葉に顔を覆おうとした体勢のままで動きを止める。自分でも今間抜けな格好になっていると思う。事務所の中に沈黙が広がり、外で騒ぐ若者らしき声さえ聞こえてきた。

「え?」
「いやだって、ニシカワさん、警察の捜査で自殺だって言ってたでしょ?」
「え、いや、そうですけどキタムラ課長が犯人だって五条さんが──」
「言ってないね」
「言って………ないですね……」

ニシカワの死は妙だと思わないか、とは確かに言って、そのあとキタムラがニシカワの死に関わっている、とも言った。しかし思い返せば五条の口からはっきりと「ニシカワはキタムラに殺された」とは聞いていない。しかし話の文脈から考えればそう思うのが普通じゃないのか。じゃあニシカワの依頼は一体何なんだ。協力すればニシカワの依頼内容を教えると言われて、まだ中身を聞くことが出来ていないじゃないか。

「……ニシカワさんの依頼内容って…一体何なんですか」

じと、と五条を見る。社内情報を持ち出すまで協力しているのだ。そろそろ教えてもらわなければフェアじゃない。五条は手にしていたコピー用紙をテーブルの上に置き、ナマエを見る。サングラスに隠れて表情はそこまで読み取ることが出来ない。

「ニシカワミナミさんの依頼は、キタムラさんの横領の事実を会社に告発することだよ」
「そんな、告発するだけなら生きてても出来るじゃないですか。だってこの前の納品書のコピーだってニシカワさんが用意してたんですよね?手口まで調べて……なのになんで自殺なんか……」
「まぁまぁそんなに喰ってかからなくても」

告発によって自分の社内での立ち位置が危ぶまれることはあるかもしれないが、命をかけるようなこととは到底思えない。そもそも不正を告発することは悪ではないはずだし、証拠まで集めたのなら匿名なりなんなりで告発するとか、告発を諦めて会社を辞めるとか、手段はそういうもののはずだ。少なくとも後を探偵に託して自殺するようなことであるはずがない。ナマエが噛みつくような勢いで言うものだから、五条はどうどうとまるで獣をなだめるかのように両手を振るジェスチャーをしながら返した。

「ニシカワさんは、なんで横領の事実を知ってたと思う?」
「それは……わかりません」

そこはまだ全く予想が出来ない。例えば社内システムを見ていて何か違和感を持ったにしても、背後関係や手口までをどうやって調べて突き止めたというのだろう。課も違うし、うっかり話を聞くということも難しそうなことのように思える。わからないと正直に言ったきり黙るナマエに五条が口を開いた。

「ニシカワミナミさんは、キタムラさんと不倫関係にあった」
「え!?」
「約三年。今の奥さんとは別れるって約束していて、ずっとそれを反故にされ続けていた。まぁ、不倫じゃ良くある話だけど。で、交際相手であるニシカワさんに自分の横領の手の内を明かしていたってワケ」

五条が立ち上がり、鍵付きのキャビネットからファイルを取り出した。ニシカワからの依頼書だ。そこには確かにキタムラの横領の事実を会社に告発してほしい、と書かれているのが読み取れる。

「僕としては、最終的にこの事実を内部告発するってかたちにしたいんだけど、ナマエちゃんはどう思う?」
「……私は……」

ナマエは思わず口ごもった。真面目で優しくて温和な先輩。そう思っていたニシカワの像がガラガラと崩れ落ちていく。てっきりニシカワが何らかのかたちで横死したのだとおもって協力をしたのに、そんな簡単な話ではなくてニシカワのことも真っ白とは言えなくなってしまった。不倫なんてそんなことするひとだと思ってなかった。

「その額三年で800万。みんなに好かれる営業課長の顔でのうのうと会社の金を盗んでる。きっとこれからも続けるだろうね」

五条が煽るように言った。そうだ、ニシカワとの不倫関係云々を差し引いても、こんな額の横領が見過ごされて良いはずがない。ナマエはぐっと拳を握る。

「……やります。します、内部告発…!」
「そう来なくっちゃ!」

ナマエがそう言うことを予め知っていたかのように五条はにんまりと笑みを深める。ナマエはじっと、テーブルの上の証拠品たちを睨みつけた。



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