愛と遺言 02


客人は二年前に依頼をしたという男性の娘だった。依頼人の名前はアオヤマハルヒコ。娘のナツコが書斎で見つけた遺書を頼りにしてこの事務所を尋ねてくれたようだ。ハルヒコ氏は妻が認知症で施設に入ったのち、隣県の一軒家でひとりで暮らしていたらしく、通いの使用人が倒れているところを発見したらしい。

「私は結婚して家を出てからは主人の都合で引っ越しばかりでしたから、あまり実家にも帰ることが出来ず…最後の願いだけでもと思って伺ったんです」
「そうでしたか」
「あの…父はこちらにどんな依頼をしていたんでしょうか。遺書にはなにも書かれていなくて…」

ナツコが下に落としていた視線をおずおずといった調子であげる。それに対して五条は自分たちの生業を依頼人を納得させるために使う常套句を口にした。

「我々は少し特殊な探偵でして、生前から何かを調査していたというわけではありません。我々は生前に承った依頼を依頼人の死後、遺言を持って遂行する探偵です」

依頼人の女性はおうむ返しのように「遺言で、依頼を……」と口にし、それによって中身を飲み込もうとしているようだった。一体どんな依頼だったんだろうか。ナマエも今までぺらぺらとめくったファイルのなかにアオヤマの依頼は記憶になかった。

「少しお待ちください。ご依頼の内容を確認します」

五条がそう言って、ああ、キャビネットの右側からファイルを取り出すのだ、と予想して立ち上がろうとすると、彼はナマエを手の動きだけで制する。こんなことは初めてで思わず面食らった。こういう場合いつもファイルを取りに行くのは自分の仕事だったのに。
さらに驚いたのは、五条がそのまま右側のキャビネットではなく左側のキャビネットに立ったことだった。予め受けることになるだろうとわかっている依頼のものはいつも右側に収納されているのに。

「……アオヤマ、ハルヒコ氏…」

左側のキャビネットの中からいくつかファイルを取り出し、該当するものを見つけるためにぺらぺらと中身をめくる。この様子も初めて見る光景だ。いつもなら予めわかっているかのように的確に指示をするし、そもそも依頼の内容そのものを記憶していることが殆どだ。

「今回の依頼はハルヒコさんの遺品についてのようです。何か心当たりはありますか?」
「いえ…父の遺品は概ね整理してしまっていて…」
「そうですか。では、こちらでご依頼頂いた際の資料などをまとめなおしてからもう一度ご連絡します」
「わかりました。それであの、料金のことなんですけど…」
「ご心配には及びません。弊事務所は完全前金制でして、ご依頼時に頂戴しています。成功報酬や追加料金もかかりませんのでご安心を」
「はぁ…そう、ですか…」

ナツコは依頼の内容に覚えがないのか、少しもやもやとしたものを抱えているのは伺えたけれど、概ね聞き分けのいい様子で探偵事務所を出て行った。応接テーブルに残されたカップを回収して給湯室の流しで洗っていく。横目でデスクの方を見ると、五条はファイルの中身をじっと見つめていた。カップを洗い終えて今度は濡れた台拭きを持って戻る。

「……珍しいですね」
「ん?何が?」
「その、五条さん、いつもファイルの場所まで覚えてるように見えたので」

あまりに意外なことだったからナマエは思わずそう尋ねた。五条はファイルのほうに顔を向けたまま、視線だけを一度ナマエにくれる。それからまるで独り言のようにこぼした。

「この依頼…正直来ると思わなかったんだよねぇ」
「そうなんですか…」

五条は、依頼を受けたときから実際に依頼の遂行に至るものになるかどうかがわかる。これは伊地知から聞いた話である。別に予言者じゃあるまいし、当たらないということもあるだろう。今回はたまたまそういうタイミングだっただけだ。別に特別おかしなことじゃない。

「……伊地知から聞いた?」
「えっ、と…ちょっとだけ…」

中身を言われなくても何を聞きたいかなんてことはわかって、ナマエは大人しく肯定する。五条は「あいつ勝手に…」と少し忌々しそうに言った。

「最近外れるんだよね。僕の勘。まぁ元々なんでもかんでも当てられるわけじゃないんだけどさ」
「なるほど…?」
「この依頼はとくに…絶対に舞い込まないと思ってたんだけどなぁ」

最後はナマエにあてたものではなくて、五条の視線はもうファイルの方に戻って文字を追っている。ナマエは黙ってテーブルを拭くことに専念した。五条にも調子の悪いときがあるのか。完全無欠のように思っていたから、彼の少し調子の悪いらしいその様子は新鮮に感じた。台拭きを流しで洗って所定の位置にしまうと、ファイルを眺めている五条に声をかける。

「あの、今回のご依頼の遺品の件ってどんなお話なんですか?」
「アオヤマ氏の遺品が生家にあるらしい。それを施設の奥さんに渡してほしいんだって」
「えっ…そんな簡単なことをわざわざ…?」

思わず口走ってしまってからハッと閉口する。どんなに簡単に見えることでも依頼は依頼だ。アオヤマ氏からすれば難しいことだったのかもしれないし、依頼主のことを下に見かねない言い草はするべきではない。

「ま、僕も思ったよ。アオヤマ氏にはナツコさんの他に二人の息子がいる。認知症で離れ離れになっている妻になにかものを届けてほしいなんて子供なりその配偶者なりに頼めばそれで済む話だよね」
「でも、そうじゃない」
「そ。だからつまり、素人には運べない品物なのか、あるいは身内に頼みたくない事情があったか」

そうか、遺品というのが手軽に運べるものであるかどうかは分からないし、身内と言えども不仲な家はいくらでもある。五条はそのためにこの依頼が舞い込むことはないと思っていたのかもしれない。

「とりあえず、アオヤマさんの生家に行こうか」
「今からですか?」
「うん。埼玉だから」

なるほど、それは近い。今回は裏に面倒な相手がいるというわけでもないし、迅速に動くに限る。ナマエは早速メモやらボールペンやらを入れたバッグを用意して、五条とともにアオヤマ氏の生家へと向かったのだった。


アオヤマ氏の生家は埼玉県の中東部に位置する都市で、これといって特筆すべきところもないような街だった。大都会というほどではないが、田舎というにももっと田舎と言えるべき場所があるような、言い方は悪いが中途半端なまさに東京のベッドタウンのような場所だ。地図に記された家の前で立ち止まれば、表札には「アカサキ」と書いてあった。

「あれ、アカサキさん?アオヤマさんの家じゃ…?」
「ああ、アオヤマさんは婿養子なんだって。アオヤマ家は奥さんの実家らしいよ」
「あ、なるほど…」

表札を見て反射的にそう思ってしまったが、そういえばそんな可能性もあるのか。曰く、奥さんがアオヤマ家の長女で男兄弟もおらず、そのためにハルヒコが婿養子に入ったらしい。アカサキ家も空き家というわけではないようだし、ここにはハルヒコの兄弟か何かが住んでいるのかもしれない。

「とりあえず、アオヤマハルヒコ氏の代理人ってことで行くから」
「わかりました」

五条の言葉に頷き、彼の長い指がアカサキという表札の下のインターホンを軽く押した。ピンポーンとごく一般的な呼び出し音が鳴り、はい、という女性の応答の声に向かって五条が「アオヤマハルヒコさんの代理人の者ですが」と声をかけると、あからさまに不機嫌そうに「何ですか」と返ってきた。

「ハルヒコさんの遺品をいただきに参りました」

言葉が切られ、代わりに足音が近づいてくる。がらりと引き戸を開けて姿を現したのは70代と思しき老女であった。訝し気に五条を見上げ、そのあとにナマエに視線を向ける。ナマエはそれにぺこりと会釈をした。

「……義兄のものは何も残ってませんよ。そんなものがあるならソッチがとっくに回収してるでしょう」
「ソッチ…とおっしゃいますと?」
「とぼけないで頂戴。アオヤマ家のことですよ。あなた方、アオヤマ家に言われて来たんでしょう」

老女の雰囲気は随分と攻撃的だった。しかし今のところ五条の態度に失礼なところもないし、攻撃的な態度を取られる理由がわからない。五条は依然穏やかな調子で「ハルヒコさん個人のご依頼ですよ」と言った。

「お義兄さん個人の?」
「ええ。この家にあるハルヒコさんの遺品を回収しにきました」

何も残っていない、と言ったはずの老女は今度はそれを即答せずに、少し考える素振りをして「中で伺いましょうか」と言った。個人の代理人と言った途端に態度が少し軟化した。ということは、攻撃的な理由は「アオヤマ家」にあるのだろうか。
老女に招かれ、居間に通される。典型的な古い一軒家という風情のそこは毛足の長い絨毯が敷かれ、その真ん中に大きな座卓が用意されている。すぐ隣が畳敷きになっていて、そこはどうやら仏間のようだ。

「あなたたちが来てること、アオヤマ家の人間は知ってるんですか?」
「いえ、まだ知りませんよ」
「まだ…ということはここで回収したものを持ってアオヤマ家に戻るということかしら」
「いやいや、そんなことは」

居間に招かれたものの、警戒心は全て取り払われたというわけではないらしい。そしてその警戒はやはり五条達個人ではなくアオヤマ家に向けられているとみえる。この警戒心をどう溶かすのか。ナマエは五条の隣で出方を伺った。

「……僕たちは代理人といっても弁護士なんかの類いじゃありません。遺言探偵っていいましてね。生前ハルヒコ氏から受けた依頼を死後、遺言をもって遂行しているんです」
「死ぬ前にお義兄さんがあなたたちに依頼をしていたと…」
「ええ。自分の生家にある宝物を回収し、然るべきひとに渡してほしいと」

五条は駆け引きには持ち込まずにストレートで勝負に出た。どういう計算でこっちに賭けたのかはわからないが、老女は少し驚いた様子ではあったが、不審そうな視線を向けることはなく、五条の差し出した名刺とアオヤマ氏の契約内容の一部が分かる書類を提示した。

「自分の遺品を実家から持ち出したいって、そんなことを家族にも頼めないなんてねぇ」

老女はその紙を目でなぞり、それから少し呆れたようなため息をつく。ああ風向きが変わった、とナマエにも理解できた。

「……ほんとうに、馬鹿なひとですよ」

老女──アカサキ夫人いわく、アカサキ家の家業は染色業だった。ハルヒコ氏は長男であり、家業を継ぐつもりでいたが、ひとりの女性と出会ったことで事態は急変する。その女性は戦時中の特需で発展した土木業の家の一人娘であり、その娘と添い遂げるために家業を諦めるという話になってしまったのだ。

「その女の人がアオヤマセツさん。お義兄さんの奥さんですよ。アオヤマ家は裕福な家でしたから、勿論止められました。それでも諦めなくてね、一度は駆け落ちまでしようとして、もう参っちまった向こうの親父さんがついに結婚を許したんです。まぁ、お義兄さんは人当たりも良くて真面目でしたから、娘に出ていかれるよりはマシだと思ったんでしょうねぇ」

アカサキ夫人の話は更に続いた。無理をして婿に入ったハルヒコに向かって、町の人間が「金目当てだ」「純朴なふりをしてよくやるものだ」「アオヤマの財産をこっちに回してくれりゃあいいのに」と、やっかみ持ち始めたのだ。

「アオヤマ家は実際羽振りのいい方じゃありませんでしたよ。成り上がりの家でしたから、まぁケチくさかったもんです」

アオヤマ家は代々続く良家というわけではなく、一代で財を成したタイプの家柄だったから、性根までが富裕層と同じというわけではなかった。戦争特需、そしてバブル景気を背景に膨れ上がった財は文字通りの泡であった。

「実の弟である私の夫も私も、せめてお義兄さんが幸せでいてくれるんなら良いと思っていました。けれどね、アオヤマ家は自分たちの家業が傾いた途端にそれをお義兄さんのせいにして、責任をとれとウチに言ってきたんです。こんな恥ずかしい話がありますか?」

結局、ハルヒコは地元の下衆な勘繰りや誹謗中傷に耐え続け、またアオヤマ家からの責めの矢面に立った。それは舅が亡くなるまでずっと続いたらしい。

「ほんとうに、ほんとうに馬鹿なひとですよ…」

アカサキ夫人の声音が少し震えるような気がしてナマエは思わず注視した。自分の夫の兄の人生を憂いている…いや、それにしては随分と迫るものがあるように感じる。

「ですからまぁ、アオヤマ家のことは私も亡くなった夫も大嫌いなんです。お義兄さんの遺品のことは本当に知りませんけれど、アオヤマ家の人間をこの件から排除してくださるって言うんなら、家を探してみますから」
「お約束します。元々お身内に頼めないものとして依頼が来ていることは承知の上ですから」

五条の言葉にアカサキ夫人は最後に納得しているように見えた。見つかり次第連絡をくれるように約束をし、今日のところは退散することになった。帰りの駅までの道のりでナマエはアカサキ夫人の面持ちを思い出す。

「ナマエちゃん、どうかした?」
「え、あ、いえ…なんか、アカサキさんの表情…何か不思議だったなと思って…」
「ナマエちゃんの勘?」
「……そんな大層なものじゃないですよ」

勘というものはそもそも大層なものではないのだが、五条に言われると何とも言えない気分になるのだからやめてほしい。遺品は見つかるだろうか。それにしても、アカサキ夫人に対する何か心揺られるようなものの正体は一体何なんだろう。



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