鬼の棲家 10


いやな予感がする。夏に調査した真海伝道会のときと同じような感覚だ。計算外のことが起ころうとしている。明瞭にはそれを見通すことが出来ずに、輪郭をとらえられない。自分の見た可能性をねじ上げられている。そんな予感がする。

「七海?ちょっと僕、例のビルに行ってくるから」
『は!?アナタ今日は事務所に待機の約束でしょう!』
「事情が変わったんだよ」

五条は七海に連絡を取ると、自分の役割を半ば放棄する勢いで事務所を飛び出した。そもそも待機を強く七海から約束させられたのは、五条の「五条グループ代表取締役」という肩書にある。今回は人目の多い街中での大捕り物だ。一連の現場等で目撃され、万が一にでも五条グループの代表取締役と反社会組織が繋がっているなんてありもしない噂をたてられたら大問題に発展しかねない。しかしそんなことは今どうでもいい。

『…絶対変な連中に目を付けられないでくださいよ』

七海の小言を聞き流しながら五条はタクシーを拾い、雑居ビルまでの道のりを急ぐ。以前いやな予感がしたときにはその通り彼女の身に危機が迫った。今回子供を迎えに行くにあたって問題はなさそうだと踏んで向かわせたが、我が儘を通してでも同行するべきだった。

「くそ……最近こんなのばっかりだな…」

五条はひとり小さく吐き捨てる。昔から重要なことはよっぽど読み違えたことはない。それがここ最近、特にナマエの関係のことで読み違える。彼女の性質から言って、なにか不測の事態が起これば自己犠牲に走る可能性も高い。

「ハァ…ほんっと目が離せない」

ナマエに何かあったらと思うとゾッとする。本当に、彼女が海に身を投げた時には生きた心地がしなかった。あの光景が網膜に焼き付いている。しかも開口一番心配するのが今まさに溺れかけている自分の身ではなくて三輪と与の安否なのだから、そのお人好し加減に参ってしまう。
周辺まで辿り着くと、念のため少し離れた場所でタクシーを降りて雑居ビルに向かった。ビルのほど近く、どこからどう見てもヤクザ者の三人組がナマエたちににじり寄っているし、予想の通り、ナマエは子供たちを庇うように震える足で一歩前に立っていた。

「はいはいそこまで」

五条は音もなく背後から近づくと、リーダー格だろう男の首に腕をかけて締め上げた。「ヴェッ…!」とカエルが潰れたかのような声を上げる。下手人は誰かと振り返ろうとしているようだが、その動きを締め上げる強さで阻止する。

「こんなとこで遊んでていいのー?今頃お前らのおうちがたぁいへんなコトになってるよ」

今頃家宅捜索は開始されているだろう。この男の身分は知らないが、逃げ出せたとして事務所に戻るころには自分の帰る家がサッパリ綺麗になってしまっているに違いない。取り巻きの二人が五条に対して臨戦態勢を取り、さてどういなしてやるかと考えていたところでナマエの後ろにいた秤と虎杖が飛び出した。

「あはは、みんな強いね」

それぞれが男の横っ面を殴り飛ばす。従順だと思っていた子犬がまさか狼だったなんて、殴り飛ばされた男たちは牙をむく瞬間さえ想像していなかったことだろう。ナマエに視線をやれば、心底ほっとしたというような顔でこちらを見つめていた。


気絶した男たちの親指をとりあえずあり合わせの結束バンドで拘束し、それぞれをまた別の結束バンドで繋いで身体の自由を奪うと、五条が七海に連絡を入れた。組対のヤマではあるものの、余罪やらなにやらの絡みと情報提供者が五条だという理由で彼も今回の件にかり出されているらしい。

「そーそー。とりあえずパトカー寄越してよ」

いつも通りの不遜な態度に七海のため息が聞こえてくるようだった。その様子を不思議そうに虎杖たちが見ている。虎杖がナマエに尋ねた。

「ねぇナマエさん、五条さんってポ──警察と知り合いなん?」
「うん、そうみたいです。虎杖くんも秤くんも怪我はありませんか?」
「はっ、武器も持ってねぇのにこんな連中に負けっかよ」

ナマエの言葉に秤が応える。秤と虎杖はかなり腕っぷしが強く、今まで大暴れしてこなかったのはひとえに施設の他の子どもに危害が加えられることを避けるためだった。今回に関しては相手も大した武器を持ってなかったし、むしろナマエが足手まといになったという方が正しいような気がする。電話を終えた五条がスマホをポケットにしまいながらこちらを振り向いた。

「はぁーあ、ヤクザとか怖いよねぇ」

いや、たった今そのヤクザの端くれを完全制圧したばかりの男に言われても説得力に欠ける。兎にも角にも怪我人が出なくてよかった。ナマエがホッと胸を撫で下ろすと、数分後には現場に慌ただしくパトカーが現れた。


虎杖や秤、綺羅羅を含むあおぞら光学園の子供は無事警察に保護された。ガサ入れでは鬼平組の若頭を公務執行妨害で押さえ、銃砲刀剣類所持等取締法違反により組に更にメスが入ることになった。それからタツカワ興業とあおぞら光学園との癒着問題がしっかりと明るみになり、施設には直ちに業務停止命令が下った。

「来週、悠仁たちに面会行けるってさ」
「本当ですか?」

大捕り物から一週間。三人は警察の保護下で事情聴取に応じていた。七海や日下部のような信頼できる大人が周りにいるとはいえ、急に今までとは違う環境に放り込まれた子供たちが心配だったから、会いに行って話が出来るのは嬉しい。

「結局コヅナさんってどこで亡くなったんですか?虎杖くんも知らないみたいでしたし…」
「今施設の職員に事情聴取してる。多分タツカワか鬼平が関わってるだろうから…遺体出てくるといいけどねぇ」

五条がふむ、と顎に手を置いて考える素振りをしながらそう言った。遺体を埋めるとか沈めるとかはフィクションの世界であれこれ見たことはあるけれど、本当にそんなことが起きて、しかもそうしていたいけな少女の遺体が損なわれると思うと胸がぎゅっと痛くなる。

「ナマエちゃん、あの子たちを庇おうって今回みたいな無茶、ホントに二度としないでよ」
「すみません。むしろ私が足手まといになっちゃって…」

騒動のあれこれで有耶無耶にされていたが、正式にお叱りを受けることになった。あの状況でじゃあどうしていれば良かったかというのは難しい話だが、今回に限って言えば虎杖と秤に任せてしまったほうが、あれほどの圧倒的な制圧とはいかなくても車に乗り込むだけの時間は稼げたかもしれない。とはいえ、子供に人を殴らせて時間を稼ごうなんてのもどうかと思うが。
自分の犠牲を前提にしないでと釘を刺されたのに、もう全く無視してしまった。万が一のことがあれば勤務時間中の従業員に対して責任を追わなければいけないのは会社、つまり雇用主である。

「違う」

ナマエがぐるぐる考えていると、五条が思考に割り込むようにして固い声でそう言った。五条はデスクチェアから立ち上がると、ナマエの方に歩み寄る。腕一本分もないような距離まで詰められて、見上げると青い瞳がナマエを真っ直ぐに見下ろした。

「ナマエちゃんのことが好きなんだ。もう危ないことはしないでほしい」

五条から出てきた言葉が上手く読み込めずに、ナマエはまばたきを繰り返した。彼はいま、なんて言ったんだ。好きだなんて。ああそうか、大事な従業員だというそれか。ナマエは何重にも予防線を張って自分でも筋が通っていないと分かっている結論を正解に決め、口角を痙攣させながらなんとか上げる。

「あ、は…助手としてその、そう言っていただけるのは、有り難い、です」

自分でも何を言っているのかわからない言葉はもう日本語として成立しているかも怪しかったが、吐き出したからもう戻すことは出来なかった。五条はぎこちなく笑うナマエにぐっと眉を顰め、彼女の肩を引き寄せると自分の腕の中に閉じ込める。

「どんな解釈しようとしてるのか大体わかったけど、そういうことじゃないから」
「え、えっと、その…」

じゃあどういう意味ですか。そう聞いてしまいたくて、しかし頭の中が追いついていかなくて指示が口まで到達しない。抱きしめる五条の腕は柔らかく、しかし堅牢であり、何もかもから守ってくれる強力な要塞のようにさえ思えた。
彼の指先がナマエの頬を掬い上げる。目の覚めるような真っ青の瞳が窓から射す光でキラキラと光る。その中に自分の顔がぼんやと映る。

「ごじょ、さ……」
「好き。ひとりの女の子としてナマエちゃんのことが好きだよ」

言い逃れも思い違いも出来ないはっきりとした言葉が差し出されて、ナマエはショートした思考回路に更に強力な電気を流されたような感覚に陥った。そっと指先が目元の丸みを撫でていく。
その瞬間、事務所の電話がけたたましく着信を告げた。ナマエは慌てて飛び退き、電話を手に通話を開始して「はいっ五條探偵事務所でございます!」と決まり文句を口にした。

『なんだ、いるんじゃないか』
「え、あ、家入先生ですか?」
『ああ。君も五条も電話に出ないから今日はもう繋がらないかと思ったよ』

電話の主は家入だった。ポケットを確認すると、確かに私用のスマホに家入から着信が入っていたようだ。マナーモードにしているから気が付かなかった。

「すみません。私用のスマホ、マナーにしてて。あの、なにかご用でしたか?」

ナマエがそう尋ねると、家入の声が聞こえてくる前に耳から受話器が遠ざかっていく感覚があった。五条が上から摘まみ上げて取り去ったのだ。

「硝子、超間が悪いんだけど。てかなんでナマエちゃんの私用スマホ知ってんの?」

そういえば、と家入に自分の連絡先を教えるに至った経緯を思い出す。共通の友人である夏油が連絡を寄越してきて、彼伝手に連絡先を教えたのだ。夏油はその経緯を五条に知られたくはなさそうだったが、と思い至ったと同時に「はぁ?傑がぁ?」と不満げな声が聞こえてきた。どうやら家入がバラしたようだ。
それからいくつか五条が話をして、ナマエのもとに受話器が戻ってくる。電話の向こうの家入は腹を抱えているかのごとく盛大に笑っていた。

「い、家入先生?」
『はっはっはっ!はぁーっ、すまん。あまりにも面白くて笑いが止まらなかった』
「え、何がです?」
『五条が、だよ。珍しいとは思ったが、どうやら君に相当ご執心らしい』

なにもかも家入には見通されてしまっているのだとわかって、羞恥心でカッと身体が熱くなる。ナマエのその反応でだいたいどんなことを言われたのかを察したらしい五条が「硝子ォ」と不満げに家入の名前を呼んだ。

『まぁ、悪い奴じゃないんだ。かなり面倒で厄介なやつだが』
「は、はい……」
『君さえ嫌じゃなければ、これからもよろしく頼むよ』

夏油といい七海といい、皆一様に同じようなことを言う。慣れているがゆえの雑な物言いではあるが、五条のまわりにはたくさんの人間がいて、それはひとえに彼に名状しがたい魅力のようなものがあるからだと思う。
家入の通話が終わると、振り返った先で五条がまたじっとナマエを見つめていた。そう、そうだ。電話でうっかり中断されてしまったが、今まさに愛の告白を受けている最中だった。

「ナマエちゃん、で、さっきの続きだけど」
「え、あ、はい」

この状況でまさか続けるのか、と多少驚いたが、五条に対して普通を求めること自体が土台間違っている。なんだかてんやわんやで上手く処理が出来ていないけれど、彼の気持ちが迷惑だなんてことは少なくともなくて、だからこの後に言う言葉も決めていた。

「急に言われて困るかも知れないけど…ナマエちゃん、返事は待っててあげるから」

およそ待っている人間のものとは思えない台詞と態度でそんなことを言われ、呆気に取られて用意していた言葉が口の中で溶けてしまって思わず笑った。五条がわざと子供っぽく怒ったふりをする。

「ちょっと!僕真剣なんだけど?」
「あはは、ごめんなさい。あんまりにも待ってるひとには見えなかったので」

結局のところ、彼の名状しがたい魅力に惹きつけられたひとりなのだと思う。ナマエは身体ごと五条の方を向くと、指先が触れられるくらいの距離まで歩み寄る。それから大きな手にそっと自分の指を伸ばした。

「私も、五条さんのこと好きですよ」

どれだけ考えたってきっとこれ以外の答えは出てこない。これはもう、多分ずっと前から決まっていた答えだと思う。指先に彼の体温がじわじわと伝播した。



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