鬼の棲家 08


ひと通りの話を終えると、五条とナマエは探偵事務所…ではなく警視庁に向かうことになった。メトロに乗って霞が関を目指す。何も悪いことをしているわけではないが、警察に行くなんて理由もなく落ち着かない気分になった。
メトロの出口を出ると、もう左手にテレビでよく見るあの建物が聳え立っている。名状しがたい緊張感を持ったまま進めば警備のような人の立っているすぐそばで、くたびれたスーツの男がナマエたちを出迎えた。

「よう」
「日下部さんどーも」

五条と男が気安く挨拶をして、ナマエは慌ててぺこりと頭を下げる。日下部といえば、今回の件でまま五条の口から出てきた名前だ。やはり警察関係者であるらしい。日下部に連れられて入口で手続きを済ませると、そのまま二階に連れていかれる。取調室のようなところに連れていかれるんだろうか。なんだかやってもいない罪を告白してしまいそうだな、としょうもないことを考えながら続いた。

「ふれあいひろば…?」

連れてこられたのはなんとも気の抜けそうな名前の部屋だった。部屋の中にはプロジェクターとスクリーン、それからそれを見るための椅子と机が備えられている。名前からしても警視庁の広報的な役割を果たす場所であるだろうことが伺えた。

「おたくらのは今んとこ非公式の案件だからな。会議室とか使うとあとが厄介なんだよ」

日下部がそう説明する。ナマエは自分が名乗っていなかったことに気が付き「五条探偵事務所のミョウジです」と名乗ってぺこりと会釈をした。

「警視庁組織犯罪対策課の日下部だ。今回の件は七海と五条からいろいろ聞いてる」

組織犯罪対策課。つまり対暴力団のプロだ。七海に事前に連絡をしていたのは知っていたけれど、五条はもう組対にまで手を打っていたらしい。いや、そもそも依頼が来ることを予見していたのならこれくらいは許容範囲なのかもしれないが。

「で、五条。首尾は?」
「子供たちの説得は出来たところです。念のために音声データの録音を頼んでますけど、まぁ無理なら無理で僕がどうとでも手を打ちますよ」
「お前なぁ…俺の前で堂々と言うなよ。聞かなかったことにするからな」

日下部が盛大にため息をつく。どうとでも、という意味に恐らく濃い目のグレーの手段が含まれていることは察するに余りある。ナマエも苦笑を禁じ得なかった。

「鬼平組との繋がりだが、もうすぐ名簿が上がってくる。主にタツカワ興業のシノギのキャバとソープだな。そこで未成年の雇用の尻尾掴んでるから、そっから引っ張る算段だ。受け子のセンもありっちゃありだが、切られて終わる可能性が高い。名簿ある方が確実だな」
「なるほど。じゃあなるべく幹部の集まる日程狙って家宅捜索か…」
「ああ。まぁ、ぶっちゃけ親の仙道会までは手ェ出せねぇだろうが、タツカワと鬼平にガサ入れできりゃ、児童福祉施設の業務停止命令は出せる。そっちの証拠はロンダリングに使ってるだろう別のフロント企業の銀行口座からあがってる」

事態は急速に進んでいく。これは子供たちを説得できなかった場合でも実行される計画だった。だからナマエが必死に説得を試みている間にも計画は順調に進行していたということだ。

「まぁ、なるべく大物パクりてぇところだが…日程が手っ取り早くわかればなァ…」
「ま、その辺はこっちも手を尽くしてみますよ」

それからいくつかの現状の情報共有を行う。組織犯罪対策課でもかなりの証拠を掴んでおり、家宅捜索の令状を取る一歩手前まで事は進んでいるようだった。いやに緊張する警視庁での時間を過ごし、そこからようやく探偵事務所に戻る。

「はぁ…警視庁、めちゃくちゃ緊張しました…」
「そ?中まで入ることあんまないだろうし、貴重な経験だったでしょ?」
「それはそうかもしれませんけど…」

幸い取調室だとかの仰々しい場所には行かずに済んだが、なんというかあの、出入り口で制服の警官に見られているというのは想像よりも緊張した。

「さて、どうしようかな」
「日取りのことですか?」
「そ。正味な話、日下部さんが言ってた通り全部丸っとガサ入れで暴いて逮捕してっていうのは現実的じゃない。出来れば幹部のいるところに乗り込めたらいいだろうけど…まぁそんな簡単に連中のスケジュールを掴めるわけじゃないしね」

ふむ、と五条が右手を顎に当てた。一回の家宅捜索で組織の壊滅というのは確かに非現実的だ。そうなればどれだけ相手にダメージを与えられるかだけども、そうなってくる必須になるのは連中のスケジュールだ。タツカワ興業は証拠さえあれば摘発出来るけれど、そのバックについてる鬼平組はなるべく取り押さえる際に幹部を押さえたい。ナマエは綺羅羅との会話を思い出した。

「あの、綺羅羅さんが言ってたんですけど、コヅナさんが働かされてたっていうキャバクラ、タツカワ興業の人間が来てたらしいんです。私がそこに潜入して──」
「ダメ」

妙案だと思ったのに、思いのほかピシャリと厳しい声で五条に言葉を断ち切られた。いままでだって危険なことはしてきた。真海伝道会の一件では中毒性の比較的低いものとはいえ薬物まで嗅がされたのだ。証拠を集めるためにも多少のリスクは承知の上で潜入でもして集めてくるのがいままでのやり方じゃないのか。

「慎重にやりますから。吉野様のときも身分を偽って聞き込みに行きました。夏の真海伝道会のときも。今回だって…」
「それでもダメ」

五条の声が更に硬いものになってナマエは遂にひゅっと押し黙る。まるで怒っているような声音で、しかし怒らせるほどのことはまだしていないだろう。恐る恐ると五条を見上げれば、先ほどナマエを射貫いた瞳がまた一身に注がれている。言葉が選べなくなって、はくはくと唇だけを動かす。
怒っているのか、それにしては目の奥にじりっと焼けるような熱があるように見える。五条の手がナマエの手首をぐっと掴んだ。ここから火傷してしまいそうだ。

「ごじょう…さん……」
「海でナマエちゃんが溺れそうになったとき、生きた心地がしなかった。もう君をあんなふうに危険な目に遭わせたくない」

そう言われてしまっては、もうそれ以上言葉を返せなくなった。従業員を危険にさらしたくないだけ、そういう経営者の常識的な考えに過ぎない。そうわかっているのにどうしても、この火傷しそうなほどの手首の熱を誤魔化すことが出来なかった。


自分の部屋に戻っても、手首を掴まれた感覚は消えなかった。ラグの上にぺたんと座り、手首を撫でる。そんなに強い力で掴まれたわけではないのに、手形が残っているような気さえする。

「はぁ…心臓に悪い…」

勝手に心臓に悪がっているだけだとは分かっているけれど、彼は自分の見目の良さをきちんと理解して行動してほしい。いや、そう言えば出会ったときから自分で自分のことをグッドルッキングガイなんて言っていたんだから自覚は多分にあるだろう。
あの様子はからかおうというわけでもなさそうだったから、本当に真面目な上司の指導だと受け止めなければならない。
ふと気まぐれに買ったファッション誌の表紙が目に入る。なにをしていても気が紛れそうにないしな、と思いながら、ベッドにへたるようにもたれかかりながらペラリとページをめくる。

「……星座占い…」

この号の特集はいまをときめく美女占い師の星座占いが売りらしい。試しに自分の星座の欄に目を這わせる。

「…年末にむけて大きな災い有。しかしこれはあなたを成長させるチャンスです。昨年から吹いている新しい生活への風が今年も吹き続けます。それは時に強風になりあなたに試練を与えるでしょう。逃げるもよし、行くもよし、あなたの心の庭に新しい花を迎える準備が出来たときは、精一杯水を注いであげましょう……」

だらだら内容を読みあげる。抽象的な表現のよくある星座占いだ。そもそも人間を十二星座や血液型だけで分類できるわけがないのだ。誰にでも当てはまるようなその表現を見ながら「でも確かに今年は新しい生活が始まっているし」と、さも自分に当てはまっているに違いないと思考にバイアスがかかってしまった。


秤から連絡が来たのはその10日後のことだった。数件分の音声データの録音に成功したらしい。まさか飼いならした幼い犬に手を噛まれるなんて想像もしていないだろう連中は、彼らのポケットにボイスレコーダーが入っているとも知らずにいつも通りに指示を出したらしい。
ビルには丁度タツカワ興業の人間が来るのだそうで、探偵事務所でボイスレコーダーを受け取ることになった。持ってきたのは綺羅羅だ。

「ナマエちゃん、やっほー。探偵事務所ってこんな感じなんだね」
「綺羅羅さんこんにちは。わざわざありがとうございます。飲み物用意するので、ソファに座ってて下さいね」

はぁい、といつもの調子で返事をしてソファに腰かけた。物珍し気にきょろきょろ周囲を見回している。ここに来る人間はそもそも五条の知り合いであるか、そうでなければ緊迫した、または気落ちした様子の依頼人や遺族が多いから、楽し気に事務所の中を見ている子供というのはなんだか新鮮だ。

「はい。ミルクとお砂糖多めです」
「ありがと」

綺羅羅にミルクティーを振る舞い、それを飲んでもらっている間に五条がデータの確認をする。ポケットの中で録音をしているから大音量というわけではないが、ボイスレコーダーからの再生でも充分内容が聞き取れた。

「よし、これでとりあえず音声データ確保完了だね…特殊詐欺の電話の録音記録とかとも警察で照合してもらっとこうか」
「これで私らマジで自由になれる?」
「もちろん。施設の業務停止命令が出るまでの間は多少警察の保護下に入るとか、まぁ君たち三人には事情聴取はあると思うけど、必ず自由になれるよ。もうこんなことしなくていい」

綺羅羅の言葉に五条がはっきりと言い切る。こうして少しも曖昧にせずに真っ直ぐ言い切ってしまうところが、彼の言葉を無条件に信じてしまえるような説得力に通じているのかもしれない。それに、実際五条が言葉にしたことならば、叶うような気もしてしまう。言葉には力がある。

「じゃあ、もうあとは日取りだけ…ですかね?」
「そうだね。細々した証拠は集められるだけ集めといてって日下部さんには言ってるけど、肝心なところは押さえてるし」

そしてやはり問題は日程である。いつ乗り込んだところで事務所に留守番程度の人間はいるだろうが、それでは根本的にあまり意味がない。効率よく幹部連中を押さえるには連中の会議だとかなんだとかの情報が必要不可欠になる。

「ねぇ、タツカワのオッサンの予定調べてこればいいの?」
「うん…でも、タツカワ興業だけじゃなくて、その裏にいる暴力団の幹部のスケジュールも必要なんです。それをどうするか考えているところで…」

綺羅羅に尋ねられ、ナマエは頭を回しながらそう答える。タツカワ興業はまだしも、鬼平組が問題なのだ。警戒されてはいけないから、穏便に自然に近づく必要がある。しかも以前の真海伝道会とは違って迎え入れようというところに漬け込む手段は使えない。

「そいつらってオニヒラってやつ?」
「綺羅羅さん、知ってるの?」
「うん、多分。キャバで見たことあると思う」

キャバ、という言葉に耳がピクリと反応した。十中八九、件のコヅナが働かされていたというタツカワ興業が経営しているキャバクラだろう。綺羅羅はじっとナマエを見つめ、それからケロリとした顔で言った。

「私がちょっと聞き耳立ててこよっか」
「あ、危ないよ!綺羅羅さんが行くくらいなら私が行ったほうがまだ──」

横目で五条を見てしまったが、少なくとも、そもそも違法に労働させられている子供に潜入の無理をさせるのは自分が出向くよりももっと悪いに決まっている。綺羅羅は「大丈夫大丈夫」と軽い調子で言って更に続けた。

「私いまそのキャバでボーイやってんの」
「え…えッ!?ボ、ボーイ!?」
「うん。あれ、ナマエちゃん私が男って気付いてなかった?」

きょとん、とした顔で綺羅羅が首をかしげる。驚いてハッと五条の顔を見ればにっこりとした笑顔が返ってきて、恐らく彼は綺羅羅が男であると予め気付いていただろうとうかがい知ることが出来た。確かにかなりハスキーボイスだとは思っていたけれど、まさか男とは想像もしていなかった。

「ご、ごめんね、綺羅羅くん。ずっと女の子かと思って…」
「いーよ。ちゃん付けの方が可愛いから綺羅羅ちゃんって呼んで」

語尾にハートが付きそうな声音でぱちんとウインクされる。結局、五条も交えた教義の結果、無茶をしない範囲で綺羅羅の出勤時に情報を探ってもらうことになった。もうあと一歩。鬼の首はすぐそこまで迫っている。



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