鬼の棲家 06


初のひとり仕事をしっかりと失敗し、ナマエは意気消沈のまま探偵事務所に戻った。あの警戒具合からして五条が一緒にいたとしても同じような結果か、それ以上に酷い拒絶を受けていたに違いないが、まるで獲物を一匹も獲れずにおめおめと帰る獣のような気分になった。

「はぁ…せっかく任せてもらったのに…」

正直なところ、面と向かって話をすれば多少は聞いてもらえるのではないかという楽観的で甘えた考えがあった。五条のように説得力や求心力のある言葉を使えるわけではなし、一発で解決しようという考え自体が間違っていた。

「戻りましたぁ…」

鍵のかかった探偵事務所の扉を開け、消された電気をつけていく。一応勤務時間外ではあるが、どうせ自宅は上の階なのだし、と火元や電子機器の電源を確かめに来たのだ。ナマエたちより後に出た五条がきっちりと始末をしてから出かけてくれたらしい。

「そうだ、もう一回ファイル見ておこ」

すぐに事務所を後にしようとしたが、思い立ってキャビネットの前に立つ。ここの資料は基本的に常時閲覧を許されている。今回の依頼の内容は取り掛かるときに確認はしたが、もう一度じっくり精査すればなにか新しいことに気付けるのではないか。

「えっと…これか」

右側の鍵付きのキャビネットを開けてファイルを取り出す。このキャビネットの中の書類の並びは五条が番号を振っていて、ナマエは番号順に並べておくだけでその規則性は知らない。そういえば、これはどういう基準で番号を振っているんだろう。
いくつかぼうっと理由を考えて、あるひとつの法則に気が付いた。ほぼ壁一面に備えられたこのキャビネットの中で、今まで受けた依頼の殆どがこの右側に収納されている。依頼を受けたから移動させたのではない。依頼を受ける前から、書類はずっとこの右側のキャビネットに収まっていた。

「禪院家のときも…吉野様のも……真海伝道会も…ここだ…」

そして今回の依頼も。背筋をひんやりとしたものが走っていく。そして同時に伊地知の「五条さん、依頼を受けたときから、実際に依頼の遂行に至るものになるかどうかわかるんですよ」という言葉を思い出した。疑っていたわけではないけれど、あの言葉は本当だったのだ。わかっていたから、五条は「遂行に至る依頼」を選り分けて番号を振って、実際にそうなるだろうものを右のこのキャビネットに集めている。
彼お得意の「勘」というものが可視化されたような気になって、背筋に走ったひんやりしたものは次第に心臓の方へと伝播していくように感じた。いままで真剣に考えたことはなかった。彼のいう「勘」というもの。本当にそれは「勘」なのか。まるで、まるで未来を予知できている、みたいな。

「だから、清岡家のことでしょ。僕が出てくと面倒なことになるに決まってるじゃん」

がちゃり、と背後の扉があき、ナマエは思わず持っていたファイルを落としそうになって何とか受け止める。顔は見ていないがこの声は五条のものだ。はっと後ろを向くと、耳にスマホをあてたままの五条と目が合った。

「ノブキコはどうしたいの?お前の好きにすればいいよ」

スマホの向こうからは昼間に聞いたような若い女の声がする。五条はひらりと手を挙げるとそのままデスクに向かってきて、ナマエは避けるようにして応接セットのほうに移動した。ノブキコというのはひょっとして電話の相手の名前だろうか。少し変わった名に聞こえる。
五条はそれからも多少雑に、しかし険悪ではないほどの言い争いをいくつか繰り広げ「はいはい。じゃあね」と通話を終えた。

「あ、あの…お疲れ様です」
「お疲れ。ごめんね、電話中で」
「いえ、全然…」

親し気な女性と思しき相手が何者なのか聞きたい気持ちはあったけれど、プライベートを面と向かって詮索するのはさすがに憚られる。五条がスマホをしまったのを待ってから、ナマエは今日の成果がなかったことを報告した。

「すみません。説得はまるでダメで、想像の何倍も大人を警戒してるみたいでした」
「仕方ないよ、初手で説得できるならコヅナさん悠仁が説得出来るでしょ」

それはその通りだ。よそから来た初対面の人間で説得できるなら仲間であるコヅナたちの言葉の方が届くに決まっている。
ナマエは彼らの所在地が繁華街の一角にある雑居ビルの四階であること、仲間の子供が秤の他に綺羅羅と呼ばれる少女がいたこと、接触してくるタツカワ興業の人間が一人ではなく複数名がランダムで来ているのだということ、「俺たちはお互いの事しか信用しねぇ」と一切取り合うつもりのなかったことを報告した。

「俺たちはお互いの事しか信用しねぇ、かぁ。賢明な判断だね」
「とりあえず、依頼の内容をもう一回整理して、あとはなんとかわかってもらえるまで通うしかないかなって思ってて…」

五条を前にほぼ無策の状態を晒しているのが非常に心苦しいが、大人に良いように使われている彼らに対して小手先の技のようなもので向き合うのは不誠実な気がした。誠心誠意、君たちを現状から掬い上げたいのだと、コヅナが生前それを願っていたのだと、そう伝え続けることが最もよい策だと思う。

「真面目なナマエちゃんらしくていいね」
「あの…こんな方法で説得…出来ますかね…?」
「大丈夫。閉じた人間の心に口先だけの言葉なんて通じない。ナマエちゃんの掛け値なしの言葉なら、きっと届くと思うよ」

五条はふっと口元を緩めると、ナマエにそう言った。やっぱり彼の「大丈夫」という言葉には無条件の説得力のようなものが含まれているような気がする。五条の瞳がじっとナマエを射貫いた。それに縫い留められたように数秒間動けなくなって、それからようやく気を取り戻してファイルに向かった。

「あ、明日もまた行ってみます!」
「うん。よろしくね。くれぐれもタツカワ興業の人間と鉢合わせないように注意して」
「はい、わかりました」

どうにか言葉を吐き出したけれど、高鳴る心臓が抑えられない。誠意を尽くすにはどんな言葉がいいだろう、それを考えると同時に、頭の中には顔も知らない五条の電話の相手のことが想像だけで浮かび上がっていた。


翌日、ナマエは出勤して普段の朝のルーティンを終えると、早速とばかりに例の雑居ビルに足を運んだ。今日は来ているのかどうか虎杖に確認しているわけではないから、ひょっとすると会えないかもしれない。会えなかった場合は周辺でなにか探せる情報がないか時間を使い、それからまた雑居ビルに向かう算段だった。
雑居ビルの一階、階段の下に秤の姿を見つける。ナマエは好機とばかりに駆け寄った。

「こんにちは、五条探偵事務所のミョウジですが」
「ア?昨日の姉ちゃんかよ」
「あのッ!話を聞いていただきたくてっ!コヅナさんのことで…!」

ナマエが話しかけると、振り払うようにふっと視線を逸らされた。顔が苦く歪む。招かれざる客であることは百も承知だ。ナマエはパッと頭を下げる。

「お願いします!コヅナさんの最後の願いなんです!」
「だから、俺たちはお互いのことしか信用しねぇ。姉ちゃんがどこかに俺たちのこと売らねえって保障はねえんだ」
「そんなこと誓ってありません!私たちはコヅナさんの依頼を遂行したいだけで…」
「帰れよ。女に手荒なことはしたくねぇ」

秤は一向に取り合ってくれるような様子を見せない。今日ここで話を聞いてもらえないなら明日、明日聞いてもらえないなら明後日。それでもダメならその次の日にだって。秤はナマエを無視するように前を通り過ぎ、ビルの中へ入ってしまう。ナマエはその背中に声をかけた。

「明日!明日また来ます!」
「馬っ鹿!明日はダメだ!タツカワの連中がくるから──」

思わずといった様子で秤が振り返り、言葉を途中で打ち切った。タツカワ興業が来る日は危険だと忠告したいことが聞かなくてもわかる。

「あの、じゃあ明後日に!また…!」

ナマエのその言葉にはそれ以上何も言わずに、秤は階段を上っていってしまった。だけどこれでいい。何も進んでいないはずなのだけれど、何か進んだような気がする。少なくとも彼は話の通じない相手ではない。
それからナマエの雑居ビル通いは始まった。門前払いで話は聞いてもらえなかったが、前回のように「明日も来ます!」と最後に言えばその日にタツカワ興業の人間が来るか否かを秤はぶっきらぼうにだが毎度ご丁寧に教えた。だからタツカワ興業の人間とは出くわすことがなかったし、彼らがまだ「救われる準備が出来る」ことが伺えた。
そうして通い詰めて三週間が経過したころ、鉄の扉の前で鉢合わせたのは秤ではなく綺羅羅だった。

「あ、おねーさんじゃん。寄ってく?」
「えっ、あっ、はい…!」

向こうから話しかけてきて、鉄の扉が開かれる。は誰も来ていなかったのか、蛍光灯も切られていて暗かった。綺羅羅がそれをつける。「てきとーに座って」と言われ、ナマエは少し中のスポンジが見えてしまっているボロのソファに腰かける。

「オレンジジュースとコーラどっちがいい?」
「えっと…じゃあオレンジジュースを…」
「りょーかい」

綺羅羅はパチンとウインクしてプラカップにオレンジジュースを注いでローテーブルの上に置いた。このローテーブルはきっとどこかの廃品であり、ところどころにシールやその剥がした跡が残っている。他にも機能しているかよくわからない目覚まし時計や古い雑誌、チラシが積まれていて、散漫とした印象の部屋だった。

「ありがとう、ごさいます…」

ナマエは礼を言ってプラカップを手に取り口をつけた。どこにでもあるオレンジジュースの味だ。綺羅羅はナマエの向かいに座ると、自分用に注いだオレンジジュースを口に運んだ。今日はどうしたんだろう。こんなもてなしを受けるのは初めてだ。

「最近ね、金ちゃんが毎日気にしてんの。あの姉ちゃん今日来る日だからとか、ちょっと遅かったらまだなのかとかさ」
「そう、なんですね…」
「悠ちゃんから聞いたよ。おねーさんたち、遺言で依頼受ける探偵なんだって」

綺羅羅は虎杖から話を聞いているらしい。綺羅羅が聞いているとなれば、恐らく秤も同様に聞いているだろう。虎杖もずっと、中からこの子たちの心を解きほぐそうと尽力してくれていたのだ。綺羅羅がふっと視線を上げ、それからそっと口を開く。

「コヅナちゃんはさ、私らの中で一番年上で、お姉ちゃんみたいだった。すっごく可愛い子だったの。だからタツカワのクソ野郎どもに気に入られてさ。キャバで働かされてたんだけどね、あいつらキャバでコヅナちゃんい無理言ったり…それ以外にもタツカワの宴会とかに呼ばれたりしてた」

いわく、コヅナは未成年であるにもかかわらずキャバクラで働かされ、それのみならずタツカワの、つまり組関連の宴席にも頻繁に呼ばれたらしい。そういう仕事のあとは決まってひどく疲れた様子で返ってきて、手首や足首に縛られたような傷を作って帰ってきたこともあったという。見目の美しさで駆り出された若い娘がそういう場所でどんな目に遭うのか。それはこういう世界に関わりのないナマエにも想像に難くない。

「コヅナちゃんすっごく優しかったの。他の子に火の粉がいかないようにっていつも率先して仕事してた。分かってたのに…私なんにもできなかった」
「綺羅羅さん……」

綺羅羅がきゅっと唇を噛むのが見える。ナマエはコヅナの生前されていた仕打ちを思い浮かべて憤りを隠せなかった。なんで、なんでこの子たちがそんなことをさせられなきゃいけないんだ。どうしていつも、どこでも、子供が、弱いものが理不尽に搾取されなきゃいけないんだ。

「私が代わってあげられたら良かった」
「綺羅羅さんが気に病むのはおかしいです。悪いのはあなたたち子供を利用して搾取する大人に決まってる」

綺羅羅の言葉に思わず語気を強くして否定する。綺羅羅はナマエの勢いに少し驚いたようにきょとんと目を丸くした。

「ねぇ、おねーさんさ、なんでそんな必死になってくれるの?警察でもないし…私たちがどうなろうがおねーさんには関係ないじゃん。あ、成功報酬とか?」
「成功報酬とかはないんです。完全前金制なので、依頼が成功してもお金は発生しませんし、逆に失敗してもご返金の保証はありません」
「じゃあ尚更じゃん」

仕事、と言ってしまえば簡単だ。代金分の対価を払うのが商売である。しかしナマエたちの商売は特殊で、依頼の成功も失敗も得られる代金に変動はない。そう、だから得られる金のためではない。ナマエは綺羅羅を見つめた。

「自分が死んで見届けることも出来なくなった世界で、誰かに託してでもやりたいことがある。それはとても強力な力を持っていると思うんです。コヅナさんが他人の私たちに依頼をしてまで託した最後の願いを叶えてあげたい」

これは五条の受け売りだ。自分の及ばなくなった世界で、他人に託してまでやりたいことがある。それは他人から見れば些細なことであったり、自分では叶えられなかった悲願であったりもする。それらはいずれも一様に、故人が残した最後の言葉のようなものだと思う。

「コヅナさんのラストワードを、一緒に聞き届けてもらえませんか」

彼女の願いを正しく聞き届けるためには、綺羅羅たちの協力が必要不可欠なのだ。



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