鬼の棲家 03


五条グループの仕事をあれこれとこなさなければいけないのにどうしてわざわざ探偵事務所に残っているのかというと、単純にここの居心地がいいからだった。大抵の仕事はオフィスにいなくたって出来る。必要な資料があればデータを送るよう伊地知に言えばいい。

「五条さん、お待たせしました」
「ん、サンキュー」

とはいえ原本が必要なこともそこそこあるため、こうして伊地知を遣い走って持ってこさせることもあるが。日本の企業の悪しき風習だと忌々しく思うもののひとつは、やたらめったら押印を要求されることだ。社内のあれこれや自分たちがイニシアチブをとるようなものであればまだしも、何でもかんでもサインでオッケーというわけにはいかない。

「もうホントこの押印文化なくなんねぇかな」
「はは…昔よりは随分減りましたけれどねぇ」

五条のどうしようもない愚痴を伊地知が苦笑で流す。五条は持ってこさせた書類に目を通し、最後の一枚に署名捺印する。明日期限のものが半分以上。流石に重要書類を適当に処理するつもりはないが、最初と最後だとかなり集中力に差が出ていると思う。

「なにか困ったことは?」
「滞りありません。昨年考案の例の新規事業に関してはこちらの報告書通りですが、何か軌道修正されますか?」
「いや、お前に任せてるから大丈夫」

この伊地知潔高という男は、便宜上秘書ということになっているが、有事の際は五条の代行が出来るように仕込んでいる。身内よりよっぽど信頼の置ける相手だ。
いくつかの作業を同時進行でこなすのは五条の得意技である。副業をやっているからといって本業を疎かにしているわけではない。肝心なところは代表取締役としてきちんと判断をしているし、そもそもこの探偵事務所はかなり暇をする時間が長い。

「ちょっと調べてほしいんだけどさ。次の依頼がちょっと厄介そうで」
「はぁ…今年は随分と込み入った依頼が多いですね…」
「まぁこないだのカルトの件と春の禪院家の件がデカかったよねぇ」

伊地知は有能である。そのため五条の様々な調べものにあれこれと使われるのが常だ。今更どうのこうのと反論をする気も起きないようで、五条グループの代表取締役秘書の領分を明らかに越えたそれもすんなりと受け入れている。

「一年前に受けたあおぞら光学園の子の依頼が入ってきた。タツカワ興業とそのバックについてまとめておいて」
「えっ…あの依頼が来たってことは…」
「同じ施設の子が職員からコヅナさんの死を知らされたらしくて来たんだよ。だから死因まではわからない」

この探偵事務所に依頼が来るということは、つまり依頼人が死んだということを意味する。まだ二十歳にもなっていない子供が亡くなった。しかも恐らく病死ではない。ということは何者かが命を奪った可能性さえあるということで、その可能性の筆頭に反社会組織が立っている。

「五条さん、流石に今回の依頼を事務所独断でこなすのは危険すぎるんじゃありませんか」
「あはは、危険度なら僕の実家よりはマシでしょ」
「…全然笑えないんですが…」

軽い調子の五条に伊地知がため息をつく。五条家は古くは公達系の流れを汲む由緒正しい旧家である。それゆえに様々なしがらみも多く、外の世界の常識が通用しないなんてこともしばしばだ。

「施設の子に話をして、納得してもらえなくてもどうにか証拠掴んでタツカワ興業は潰すよ。いくつか辿れば繋がる会社も僕知ってるし」
「無茶しないでくださいよ…」
「大丈夫大丈夫。会社まで繋がるような痕跡は残さないよ」

五条が笑い飛ばすと、伊地知は心底ため息をついて「そういうことではないんですが…」と小言を漏らした。

「身の安全のことを言ってるんです。真海伝道会の件だってかなり無茶したじゃないですか」
「だって、僕より無茶するナマエちゃん放っておけないでしょ」

五条が珍しくもっともらしいことを言って、思わず伊地知が押し黙る。確かに7月に出向いた真海伝道会の一件は、最終的にナマエが囮になり、あまつさえ逃げ損ねて最後の儀式まで引っ張られ海に身を投げた。白鞘を持っていたような連中もいたわけだし、丸腰のナマエが立ち向かうくらいなら逃げる方がまだマシだ。しかしその先が海しかないのが致命的だった。

「ナマエちゃんに、もうあの時みたいな危険なことはさせない」

五条の瞳がぐっと強くなる。反社会組織が絡んでいるのなら危険と隣り合わせなのは間違いないだろう。しかしもう彼女を危ない目に合わせるわけにはいかない。もしものことがあったら、自分はその原因にも、取り巻くものにも、どんなことをしてしまうか五条自身もわからなかった。

「……五条さん、ずっと助手を雇わないつもりかと思っていたんですが、どういう心境の変化だったんですか?」

珍しく伊地知が踏み込んだことを聞いてくる。五条はちろりと視線だけで伊地知を見たあと、ナマエがここで働くきっかけになった依頼のことを思い浮かべていた。
あの依頼は、報復をするという意味では特に他の人間の協力は必要なかった。不正を暴くにしたって自分の持てるコネクションを使えば選択肢はいくらでもある。しかし社屋の前で彼女を見かけたとき、なにか勘のようなものが働いた。

「ナマエちゃんはさ、なーんか僕にとって特別になる気がしたんだよね」
「例の勘、ですか?」
「そ。案の定、目が離せなくなっちゃって困るよ」

ついうっかり中身ごとすべて言ってしまいそうになって、五条は寸でのところで言葉の方向を変える。伊地知はこれ以上質問したところでロクな答えが返ってこないと察したのか、それ以上は何も追求してこなかった。


ナマエは翌朝、いつも通りに探偵事務所へ出勤する。やきもきしたところで五条からの指示がなければ依頼にかかることは出来ない。そんな状況に晒されている子供たちの安否は気になるが、素人の自分が出来ることはない。

「素人って…まぁ素人だけど…」

窓をキュッキュと磨きながらため息をつく。まだ社歴は一年もないのだし仕方のないことだが、相変わらずの無力さが嫌になる。三輪の身代わりになったときには多少役に立てたと思ったけれど、あれだって五条が助けに来てくれなければ死んでいたかもしれない。今回は一体何が出来るだろうかと悶々と考えていると、がちゃりと事務所のドアが開く。

「おっはよー」
「おはようございます」

珍しい。始業時間に間に合うように五条が出勤してきた。そもそも始業時間という概念がぼんやりとしている職場であるが、五条はなんとなくいつも注意する程でもないくらいの遅刻をする。もっとも、こちらの方が副業だと知ってからは本業が慌ただしいのかと思うようになったが。

「いやぁ、ナマエちゃん毎日欠かさず掃除してるよね」
「え、はい。まぁ……」
「おかげでピカピカだから助かるよ」

確かに、この事務所はアンティーク調の家具が多くて掃除が面倒くさそうだ。清掃業者を入れているわけではないようだし、この内装をひとりで綺麗に維持するというのは中々骨なんじゃないだろうか。

「そういえば、このアンティーク調の内装って五条さんの趣味なんですか?」
「いや、違うよ」
「えっ…それにしてはずいぶん凝った感じですよね…?」

ナマエはキョロキョロと事務所の中を見回す。応接セットだけならまだしも、キャビネットやデスクまですべてアンティーク調で統一されている。しかも、ところどころに彫ってある模様が同じだから、恐らく同じメーカーのものだろう。

「まぁ、強いて言うなら伊地知の趣味かな」
「伊地知さんの?」
「うん。このビル、僕の持ち物なんだけどずっと使ってなくてね。事務所開きたいから適当に用意しといてーって言ったらこうなってたんだよね」
「な、なるほど…?」

とんでもなく丸投げの無茶振りじゃないか。この分だと間違いなく備品の類も伊地知が用意しているに違いない。サイズ感も使い心地も随分いいなぁと思っていた事務所内の設備や備品がすべて伊地知の心労の上に成り立っていると思うと何とも言えない気持ちになる。

「そういえば、今日はあおぞら光学園の方に行ってみるつもりだから、準備しておいて」
「はい。施設の子に会う感じですか?」
「いや。今日は現場確認。立地とか、周辺情報とか、データではわからないこともあるからね」

なるほど、情報は足で稼げというやつか。ナマエは手にしていた窓ふき用の雑巾を給湯室のシンクで洗い、毎朝恒例になっている朝のコーヒーを二人分入れた。


あおぞら光学園は、都内に所在する児童福祉施設だ。約15年前に設立された施設であり、国公立ではなく私立の社会福祉法人である。現在入所している児童は11名。ホームページがやたらめったら古く、施設内の行事の更新が5年ほど前で止まっている。
建物は比較的新しそうで、外壁が柔らかなクリーム色に塗装されていた。三階建てで、入口に「社会福祉法人あおぞら光学園」という看板が掲げられている。

「なんか…普通のアパートみたい…ですね?」
「まぁ、都会にあると余計ね。田舎だともっと分かりやすく児童福祉施設だなって見た目してるよ」

児童福祉施設だなという見た目、についてはよくわからないが、つまり時おりニュースで見たりするような、保育園などにありがちな淡いピンクの外壁や敷地内にブランコや滑り台などの遊具を備えているような施設のことを言っているのかもしれない。
少し離れたところから建物を観察する。当然外側からは不自然なものは見当たらない。強いているならば──。

「なんか…防犯カメラ多い…?」
「異様な数だね。しかも、カムフラージュしてるやつまである」

玄関口に二か所、掃き出し窓に一か所、門のところにもあって、良く見えないが奥の腰窓の方にもついているように見える。五条の指さす方を見れば、確かにわかりずらいように茂みに隠されていたものもあった。防犯のために設置されているのはおかしなことではないが、それにしても数が多くはないか。特にあのカムフラージュは防犯というより盗撮か監視に近い。

「監視してるみたいに見えますね…」
「監視してるんだろうね。子供やその他の人間の出入り全部」

ナマエはぐっと眉を顰めた。こんな施設の中で子供たちはどんな生活を送っているんだろう。虐待なんかは受けていないのか。五条のポケットの中で通知音が間抜けに鳴り、少し出鼻をくじかれたような気分になりながら彼に視線を向ける。

「あ、伊地知から報告上がってきたね」
「相変わらず仕事が早いですね…」
「調査結果そこそこ揃ったって。ちょっと報告聞いてから本格的な作戦立てようか」

五条はさらっと言ってみせるが、昨日の今日で反社会組織の情報を集めてまとめてこいとはかなりの無理難題じゃないだろうか。しかも、彼は五条グループの代表取締役の秘書であり、別に探偵事務所の裏方というわけではない。

「…伊地知さんって凄いですよね」
「え、なに、伊地知みたいな男がいいの?」
「いや、いいとかそういうんじゃなくて」

思わず頭の中をそのまま口にすると、予想外の食いつき方で五条が食いついてきた。彼の言い方だと伊地知のような男性が交際相手として好ましいと思っているのか、というような意味合いだろうが、別にそこまで言っていないしそれを判断するほど伊地知のことを知っているわけじゃない。

「まぁ、お仕事できる人はかっこいいと思いますけどね」

伊地知に男性的な魅力を特に感じていないとはいえ、その伊地知の雇用主の手前、ばっさりと言ってしまうのも憚られて一般論にだいぶ寄った回答を口にした。すると少しムッとした表情で上体を折り、ナマエをジッと覗き込んだ。

「僕も仕事できるんだけど?」
「え、はい。知ってますけど…?」

何を行ってくるかと思えばそんなことだったが、五条が仕事のできる人間だということは充分理解している。依頼人の契約書類を完全に記憶していたり、回収した候文を正確に読み解いてみせたり、それに先読みをして迎えの車を手配していたりと、彼がその手腕を振るうシーンは何度も目にしてきた。
ナマエの肯定的な言葉とは裏腹に五条は何故か得心のいかないような顔をして「なんだかなぁ」と分かりやすくぼやく。

「まぁいいや。僕の方がいい男だって絶対言わせるからね」
「はぁ…」

一体どんなところで対抗心を燃やしているんだ。どこに何のボタンがあるのかよくわからないけれど、取り急ぎ伊地知の待つ場所に向かう。その後姿を何者かがひたりと追っていた。



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