鬼の棲家 02


少年はどこか所在なさげな様子のまま事務所の内装にうろうろと視線を泳がせていた。年のころは高校生くらいで、きゅるんと大きな目が特徴的な少年だった。ナマエは子供にもコーヒーを出したりした方がいいのか、それともジュースでも買ってきた方がいいのか、と思いながら、彼に「コーヒー飲めますか?」と尋ねると「甘いのなら飲めるっす」と返ってきた。

「ミルクと砂糖たくさん使って大丈夫ですからね」
「あざす」

甘いコーヒーを飲む身近な人間が五条であるせいで感覚が麻痺している。このまま自分が入れたら甘い泥水を提供することになりかねないとミルクと砂糖は任意で入れてもらうことにした。
五条の方はいつも通り甘い泥水で構わないので、飽和するんじゃないかと思うほどの目一杯の砂糖を入れて応接テーブルに運んだ。

「さて、ご依頼かな?」
「えっと俺がっていうのじゃなくて…」

少年は少し言いづらそうにして、もう一度躊躇ってからパーカーのポケットに手を伸ばす。そしてそっと一枚の便箋を取り出した。

「これ…俺の姉ちゃんみたいな人の、遺書、みたいなの、なんすけど…」
「見ていい?」

五条が手を差し出すと、少年は頷いて便箋を五条に渡し、五条は便箋の本文に目を通していく。それから小さな声で「なるほど…」と呟くと応接セットにそっと置いた。

「コヅナ姉ちゃん、三カ月前からいなくなっちゃって…俺ら探したんスけど見つかんなくて。そしたら最近になって先生がコヅナ姉ちゃんは死んだんだって……」

少年はぎゅっと拳を握った。コヅナというのがこの遺書の主なのだろう。年齢は依頼書を見てみなければわからないが、この少年が姉ちゃんみたいな人というのならそれほど年嵩というわけではないだろう。ナマエはきゅっと眉間にしわを寄せる。

「あの、この手紙の中でコヅナ姉ちゃんが私が死んだらこの探偵事務所に行って欲しいって書いてあったんスけど、俺全然知らなくて、探偵さんに何調べてもらってたんスか?」
「ここね、普通の探偵事務所とは違うんだ。依頼人から生前に受けた依頼を死後、遺言をもって遂行する。いわば遺言探偵ってやつ」

五条はいつも通りの説明を口にする。きっと探偵という概念も曖昧なのではないかというこの少年にとっては恐らくもっと難解だっただろう。彼は頭の上にはてなマークを浮かべた。

「コヅナさんからは一年くらい前に依頼を受けたんだ。そしてそれは、彼女の死後に僕らが遂行する約束。君が教えてくれたから、僕らは依頼に移ることが出来る」
「……あの、コヅナ姉ちゃん何を依頼してたんですか…?」
「んー、それは今は内緒かな。守秘義務ってやつ」

契約の内容によっては遺族や関係者であっても開示することが出来ない場合もある。少年はよくわからないといったふうに眉を寄せた。

「君の名前は?」
「虎杖悠仁っす」
「コヅナさんとの関係教えてもらえる?」
「俺、施設育ちで、コヅナ姉ちゃんとは同じ施設だったんだ。コヅナ姉ちゃんは俺より前から施設にいたみたいで…本当の家族のことは知らない」

話によると少年──虎杖悠仁は児童福祉施設で育ったらしく、今回の依頼人とは同じ施設で寝食を共にする仲だったらしい。そのコヅナが三ヵ月前から姿を消し、先日施設を管理する職員からコヅナが死んだことを知らされた。理由も死因も何も教えてもらえていない。
ナマエはその話に違和感を覚えた。事情によっては子供に詳らかに説明できないなんてこともあるだろうが、それにしたって彼は話のわからないような年齢ではない。事故や病気の類いならぼかしてでも伝えたりするようなものなんじゃないのか。

「ありがとう。コヅナさんから預かった依頼は責任をもって全うするよ」
「ッス……」

虎杖は少しまだ何か言いたげな様子だった。五条は恐らくそれに気が付いていたが、それ以上は聞くという姿勢を見せず、ナマエも自分が介入することは憚られ、虎杖はそこで事務所を出ていくことを余儀なくされた。帰り際に「コーヒご馳走様でした」と頭を下げていき、今どき珍しいくらいしっかりしている子だ。養護施設の教育がいいのだろうか。

「五条さん、コヅナさんの依頼って…」
「右のキャビネットの下から三段目のファイル取って」
「あ、はい」

虎杖を帰したあと、今回の依頼内容を確認させてほしいと思って五条に声をかければ、当たり前のように詳細な位置を指定してきた。ナマエはキャビネットの方へ向かうと、下から三段目のファイルを持って戻る。五条がデスクチェアに腰かけたので、その隣に立って中を覗いた。

「コヅナさん。享年は…18歳。うちに依頼してきたのは一年前」
「そ、んなに…若い子が…」
「で、これが依頼内容」

五条がぺらりと契約書の次の紙をナマエに見せる。想像よりも幼い子供だったことに驚きつつ、十代後半の女の子がこんなところへ依頼してくるなんてどんな内容なんだろうと身構えた。

「あおぞら光学園の皆を助けてください……ってここもしかして…」
「そ。コヅナさんのいた施設の名前」
「た、助けてくださいって、もしかして施設内で虐待とか…」
「いいや、そういうことじゃないらしい」

この仕事について立て続いたせいか、子供のSOSを見て真っ先に虐待を疑った。しかしそういうことでもないようだ。五条が説明を続ける。

「ここの施設、ヤクザと繋がってるらしい。そんで子供を使ってガキの使いをさせてるらしいんだよね」
「なんっですかそれ!早く警察に通報しないと…!」
「待って待って。通報しようにも証拠がないの。で、実際受け子とかやらされてるから下手に動くと施設の子だけが捕まってバックを摘発出来ないんだよ」

思わず声を荒げ、五条になだめられる。いけない。うっかり子供が関わってるからと言ってつい前のめりになって口を挟んでしまった。そもそも通報してどうのこうのとなるのなら五条が先に動いているに決まっている。ナマエは小さな声で「すみません」と口にした。

「コヅナさんにも言ったんだよ。そんなのウチに依頼するより警察行ったほうがいいよって。だけど証拠がないし、そもそも子供たちが皆警察に頼ることを嫌がってるんだってさ」
「なんでそんな…」
「証拠がないから自分たちだけが逮捕されると思ってるんだろうね。それに、孤児ともなると他に頼れる場所もない。コヅナさんはどうにかしたいと思ってたみたいだけど、上手く説得は出来なかったみたいだ」

ナマエはどう言っていいかもわからず。口を引き結んだ。施設がまるごと反社会組織と繋がっているなら、彼らの身の回りの大人は誰も頼れないという可能性が高い。ナマエはごく平凡に生まれ育ったが故に両親や親戚など、困れば頼れる先があったが、彼らにとってもそれが当たり前とは限らない。

「助けてほしいってことは……そのバックについてるヤクザとの繋がりの証拠を掴んで…警察に届ける…ってことですか?」
「そうね。まぁ、それと並行して施設の子供たちを説得しないといけないよね」
「……どういう…」

証拠を掴むだけでは足りないのか。五条の言葉が上手く理解できていないような気がして、ナマエは思わず聞き返した。すると五条は一度依頼書にじっと視線を落とし、それからその文字をついっとなぞる。

「僕らが救えるのは、救われる準備がある人間だけなんだよ」

ああ、久しぶりに聞いた。何だかどこか遠いような、触れることも叶わないような、そういう彼の声。ふと、頭の中にコンクリートの壁に囲まれた薄暗い中を歩く光景が浮かんだ。非現実的めいたそれは夏の依頼で嗅がされたLSDの作用により見た幻覚だ。あの時の五条は深い深い溝に隔てられた向こう側にいて、ナマエは五条へ手を伸ばしても辿り着くことが出来なかった。アレは幻覚ではあるが、ナマエの深層心理そのものでもあった。

「ナマエちゃん?」
「えっ、あ、すみません……」

ナマエが黙ったことを不思議に思ったのか、五条が不思議そうな顔をしてナマエを見上げた。ナマエは慌てて意識を引き戻す。いけない。仕事中に考えたって仕方のないことだ。

「えっとその、バックについてる組織っていうのはわかってるんですか…?」
「タツカワ興業っていうところが実際指示を出してるらしいけど…そこだけ引っ張って済ませるのは個人的に気が進まないかな」
「と、いうと…」
「トカゲの尻尾切りされて終わるんだよ。どうせタツカワ興業は末端の組織だろうし、本体叩いてついでに仕返ししたいでしょ」

随分な言い方ではあるが、言いたいことはよくわかる。短絡的に彼らを縛る組織を潰したとして、子供を危険に晒して犯罪を侵すような組織の本体がのうのうと活動しているのは溜飲が下がらない。となると、そのタツカワ興業という組織のみならず、その親組織まで捜査のメスを入れさせたい。

「その…タツカワ興業の裏にいるのって…」
「これから証拠は集める。まぁ多分関東を拠点にしてるヤクザに辿り着くと思うよ」

ヤクザ、なんていう存在は、ナマエにとって殆どフィクションの世界の話だ。実在していて実社会において問題を抱えているということは理解しているが、ニュースなどで見るくらいで身近にそんな存在もいなかったし、ゲームや映画程度の知識しかない。だからイメージでしかないが、法律も常識も通じない相手であることは間違いないだろう。文字通りの反社会組織だ。


それから珍しく、五条が一度この件に関しては情報収集をし直すと言って、今日のところは実地調査に行くことも今後のスケジュールを決めることもなく退勤時間になった。ナマエはすごすごと三階に向かい、申し訳程度の荷物を部屋の隅に置くとストッキングとジャケットを脱ぐ。
すべて着替えて一服したいところだけれど、生憎とそういうことをしてしまえば二度と立ち上がるのが嫌になるタイプだ。黒いペンシルスカートとワイシャツを着たままエプロンを着けてキッチンに立ち、朝浸け置いた照り焼きチキンをこんがりと焼いていく。

「……はぁ…ついにヤクザまで出てくるとは…」

じゅじゅうと肉を焼く音の隙間でそうこぼした。そもそも禪院家だって法律の通じない相手だったし、生贄やらカルト団体やらとんでもないことに巻き込まれているとは思っているが、ヤクザというのはゲームや映画で多少なりとも知識があるせいで、仕事にかかる前から恐ろしいことをいくつも想像してしまう。
チキンが焼き上がり、副菜のきんぴらごぼうを出してトマトとレタスを切る。ご飯は最近白米ではなく十六穀米にするのがお気に入りだった。一食分だと上手く炊けないから、二食分炊いて翌朝に回すのが恒例だ。そのとき、スマホが通話の着信を通知して、ナマエは「電話なんて珍しいな」とディスプレイを確認する。ディスプレイには夏油傑の名前が表示されていた。

「も、もしもし…ミョウジです」
「あ、ナマエちゃん?今大丈夫?悟近くにいない?」
「はい。大丈夫です。もう退勤して家に帰ってて…」

彼とは連絡先こそ交換したものの、夏油が事務所に来る日に五条が来ている日なのか確認するくらいのもので、特に日常的にやりとりがあるわけではなかった。突然一体何の用だろうか。

「硝子からナマエちゃんの連絡先教えてほしいって言われてさ。許可取ろうと思って電話したんだ」
「家入先生が?別に大丈夫ですけど…」

どうして家入が聞きたがっているのかというのも疑問だし、なぜよりナマエに近い五条ではなく夏油伝手に聞こうというのかも謎である。五条の知り合いだし問題ないが、と思いながら疑問符を浮かべていると、スマホの向こうの夏油にもそれは伝わったようでくすくすと笑うような声が聞こえてきた。

「依頼で助けた女の子がいるんでしょ。その子のリハビリ頑張ってる写真とか送りたいらしいんだけど、悟に聞いたら絶対ナマエちゃんの番号教えてくれないからさ。私にお鉢が回ってきたんだよ」
「そうですか…えっと、リハビリ頑張ってる写真は私もありがたいんですけど、連絡先くらい五条さんでも良かったのに。すみません、お手を煩わせてしまって」
「フフ、悟は絶対教えないよ。私だってナマエちゃんに直接聞いただろう?」

そういえばそうだった。夏油と連絡先を交換したのはソメイ家の依頼を終えてしばらくで彼がケーキを持ってきた時のことで、確かにあの日は五条が不在にしていた。「やれやれ、嫉妬深い男は嫌われるって言ってやったんだけどね」と夏油が中々聞き捨てならないことを小さくこぼす。

「じゃあ、硝子には私が教えておくから」
「えっ!」

聞き捨てならないことを聞き返すのに失敗し、通話は切れてプーップーッと間抜けな音だけが聞こえてくる。
食事を終えて風呂を出ると、スマホには家入からの短いメッセージと入院着のままピースをする三輪の写真が届いていた。今回の依頼にも、彼女のように踏みにじられている子供がいるのだとしたら、それはどうにかして助けてやりたい。救われる準備のある人間しか救うことが出来ないなら、その準備ができるよう、背中を押すことだって出来るはずだ。



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