鬼の棲家 01


その日は事務所の経理関係の仕事で郵便局に出向いた。覚えるほど回数をこなせるわけではないから、伊地知に教わったときにとったメモを片手にカウンターに向かった。そもそも今までの職歴的に経理関係は触ったことがないし、雑事だってどちらかというといつの間にか担当部署や出入りの業者が済ませていたようなことが多い。事務所での仕事は忙しないというわけではないけれど、やったことのない仕事が多くて慣れるのには時間がかかった。
とはいえ、難しいことをしているわけではないのだから負担が大きいというわけではない。今日も「覚えてしまえば簡単」という種類の手続きをいくつかこなし、秋風の吹く中を揚々と帰社する。階段を上ろうとすると、女性の影がひとつ、階段から丁度降りてきて颯爽と駅の方へと歩いて行った。

「依頼人さんかな…」

このビルは三階建てであり、一階に純喫茶、二階に探偵事務所、三階にナマエの自宅がある。つまり外階段を降りてきた以上、新聞やら何やらの勧誘でない限り事務所への来客だったことは間違いない。すれ違った後姿を見送る。黒く長い髪が特徴的で、随分綺麗な顔をしている女性だった。多少ダウナーな雰囲気はあったものの、それが余計に本人をミステリアスで魅力的に見せているように感じた。

「めっちゃ美人だったなぁ」

本来依頼人の容姿に関してどうのこうのと思うのは良くないことだが、思ってしまうものは仕方がない。一体どんな内容だったんだろうと思いながらトントンと階段を上り、事務所の扉を開く。

「ただいま戻りましたー」
「ん。お帰りー」

てっきり先ほどの依頼人の依頼内容をまとめているかと思ったのにそういうわけではなく、五条は自分のデスクチェアに腰かけてタブレット端末と睨めっこをしていた。給湯室で手を洗い、お遣い用のトートバッグを戸棚にしまう。

「さっき階段下で女性とすれ違ったんですけど、依頼人さんでした?」
「ん?ああ、違うよ。僕の個人的なお客」

あっさり否定される。依頼人だと思ったのに、そういうことではなかったらしい。個人的なお客と言うわりにティーセットの類いはなにも使われていないし、まさかお茶も出していなかったのか。しかし自分が踏み込むことでもないかと思い、少々気にはなったものの「そうですか」と相槌を打つのに留めた。ちなみにその日も依頼人からの連絡は一件もなく、光熱費だけがただただマイナスになる一日になった。


一週間後、五条がどうしても外せない役員会議があるといって事務所を留守にした。五条グループの外せない会議なんてこの世の会社の中でもトップクラスに重要なものなんじゃないかと中身も知らないのに勝手にそんな気になった。

「っていうか、伊地知さんって五条グループの代表取締役の秘書ってことだよね…?」

留守番をする事務所で雑事をこなしながら温和な伊地知の顔を思い浮かべる。あのひとは無表情とそうでないのとでかなり印象に差が出ると思う。無表情のときは神経質さが強調され、かなり近寄りがたい雰囲気になるが、実際はそういう面はごく少なく、五条のわがままに振り回されている苦労人という印象だ。
普段は五条も伊地知も本業の話はしないけれど、ひとりになると改めて考えてしまう。普通の人生を送っていたらすれ違いもしなかったような世界の人達だ。勝手にあれこれ考えていたら、コンコンというノックの後、出迎えるより先に事務所のドアが開いた。

「いらっしゃいませ…っ」

ドアを開けたのは丁度一週間前に事務所の階段下で見かけたという黒髪の美女だった。今日も少し気だるげな様子で、真っ黒のセットアップが良く映える白い肌はなんとなく白を通り越して青い気がする。

「あれ…あいついないの?」
「あっと…五条さんのことですか?五条さんだったら今日は別件で不在にしてまして…」

美女は「はぁぁぁ」とため息をつき、「失礼」と断って鞄から取り出したスマホでどこかに電話をかけ始める。「伊地知?あいつは?」と開口一番にそう言ったから、電話の相手は伊地知のようだ。
伊地知とも知り合いということは仕事関係なんだろうか。しかし個人的なお客とも言っていた。彼女は少しだけそうして話をすると、ぷつりと通話を切ってナマエに向き直る。

「悪いが、少しここで待たせてもらうよ」
「えっ、あ、はい…えっと、五条さんが来る…んですかね?」
「ああ。会議が終わったら直行するように言ってある」

彼女は「失礼するよ」と言って応接ソファに腰かけた。ナマエはハッとして飲み物を出そうと給湯室に向かう。「あの、コーヒーでいいですか?」と尋ねると「ブラックで頼むよ」と返ってきた。なんだかどことなく似ている人を知っている気がする。顔とか見た目とかの話ではなくて、もっと内面的な部分を。

「私は家入硝子。民間の研究機関で法医学者をしてる」
「私はミョウジナマエです。この事務所で助手をしています」

コーヒーを持って行けば、彼女──家入はそう名乗った。法医学者。最近どこかで聞いた。そんな特殊な職業の知り合いはいないから、もしかしたらドラマか映画だったかも知れない。ナマエが助手であることを知ると、家入は少し笑みを深め「そうか、君が噂の…」となにかナマエについて知っているような様子だった。

「君の話はあいつから聞いてるよ。優秀な助手だって」
「えっと…まだまだ勉強中で…」
「あいつは手が焼けるだろう。君にも迷惑ばかりかけてるんじゃないか?」

家入は美しい仕草でカップを持ち上げると、黒々とした液体をそっと口に運ぶ。彼女の物言いはどうにも仕事関係の知り合いと言うには距離が近く、もっと親しい間柄のように思われる。きゅっと心臓が掴まれるような気分になった。友人か、あるいは──。

「まったく、今日だって呼びつけておいて不在にしてるとか、相変わらず仕方ないやつだよ。君も困らされてないか?」
「いえ、全然…ではないですけど、迷惑するほどでは…」

全くと言えば嘘になるが、彼の無茶振りにもある程度は慣れてきているし、辞めようと思う程度ではない。しかも傍目に見ていても伊地知の方がよっぽどその被害に遭っていると思われる。喉と口の間くらいの曖昧な場所に詰まっていた言葉がうっかりつるっと滑りだした。

「えっと…その、家入先生は五条さんとはどういう…お知り合い、なん、ですか…」

不躾なことを聞いてしまった、と口に出した後に思い直したが、なんでもありません、と続けたところで口にしたことそのものをなくせるわけではない。やってしまった、と後悔の念に苛まれていると、家入がくすくすと笑うような気配がした。

「昔馴染みだよ。ほら、前に夏油って小説家と会ったでしょ。あれと五条と私は同じ高校だったんだ」
「そ、そうなんですね…」
「友人という表現がそこそこ近いかな。ま、あんなのと友人だって言うのはイヤだけどね」

家入がまたひとくちコーヒーを口に含む。友人、という表現に無意識のうちに胸をホッと撫で下ろした。いや、そもそもそんなことを気にしたりするような間柄ではないし、もしも家入と五条が特別な関係だとして、自分が口を挟めるような立場ではないのは百も承知なのだけれど。

「安心した?」
「エッ……!」

家入が悪戯っぽい視線でナマエを見つめる。自分の頭の中がすべて読み取られてしまったような気になって、ナマエは大いに狼狽えた。どうしよう、という気持ちに比例するように顔に熱が集まっていくのを感じる。

「真っ赤になって可愛いなぁ」
「えっと、あの別に安心したとかそういうのでは…!」
「きみ、こういうのは否定すれば否定するほどだぞ?」

家入は組んだ足に肘を置き、そのまま頬杖をつく。自分でも決められていない感情が、不意なところから表出してしまったような気になった。開いた手で家入がちょいちょいと手招きをして、自分の隣に座るように促す。ナマエはどうすべきか少し迷ったあと、家入の言う通り彼女の隣に座った。

「いつから?あのクズにどうやって丸めこまれたの?」
「えっ!丸めこまれたとかではない、ですけどッ!半年ちょっと前に依頼に協力して…その流れで会社辞めることを決めて、五条さんが拾って下さったんです。それでここにお世話になることになって…」

ナマエはもごもごと事のあらましを割愛しながら家入に話した。家入は終始にやにやと楽しそうだ。もうここで半年と少し勤務しているわけだけど、長いような短いような不思議な感覚だ。所々でとんでもない依頼に巻き込まれているからかも知れない。

「夏油もベタ褒めしてたよ。五条には勿体ない良い子だって」
「エッ…いや、そんな…」
「勤勉で一生懸命なところが可愛いってさ。どうぜあいつのことだから迫ってきたでしょ。変なことされなかった?」
「えっと、五条さんが来てくれたので…」

夏油に初対面で迫られたことを思い出す。どうせあれは悪ふざけかなにかだろうが、どうやって逃げればいいかわからなかったから五条の登場には助けられた。家入は苦い顔をして「夏油のやつ…」とこぼした。

「そういえば、この上に住んでるって本当に?」
「はい。前にいた会社が社宅で。社宅も用意してあげるって言われて転職したら社宅っていうのがこの上で」

どこから聞いてきたのかわからないが家入に住まいのことを尋ねられ、事実だし特に否定するべきことでもないと思いそのまま肯定する。「囲い込む気満々じゃないが」と家入が言ったが、丁度外の階段の方がどたどたと騒がしくなってナマエの耳には届かなかった。

「ちょっと硝子!ナマエちゃんに変なことしてないよね!?」
「人聞きが悪いぞ。そういうのは夏油の担当だろう」

ものすごい勢いで扉が開かれ、ぜえぜえと息を切らせて姿を現したのはいつもと違ってきっちりとスリーピースのスーツに身を包んだ五条だった。会議の場からそのまま急いでここへ来たのだろう。走ってきたせいで乱れてはいるが、こんなにも堅い恰好をしている五条を見るのは初めてで、ちょっと心臓が高鳴るのを感じた。

「ナマエちゃん隣にはべらせないでよ」

五条はずんずんと進むと、座っているナマエの肩をぐっと抱いて立ち上がらせ、家入の向かいのソファに座らせて自分も隣に腰かけた。息をつきながらネクタイを緩める。

「ははナマエさんの隣は僕のものだってか」
「そ。硝子でもダメ」
「夏油は?」
「もっとダメ」

子供じみた言い方をする五条に家入が腹を抱えて笑う。前々からそうだけども、こんな思わせぶりな言い方をして意識するなという方が難しい話じゃないだろうか。でもそんなことを口にしたら自分がまんまと意識していることをばらしてしまうことになるから絶対に口にできない。

「で、なんだっけ」
「今日が良いって指定したのは五条でしょ」

家入は少し呆れるようにそう言って、鞄から数枚の紙が挟まれたクリアファイルを取り出した。そこにはカルテのようなものが挟まっていて、これは自分が見ても構わないものなのだろうかと迷っていると「本人から許可を得てるから大丈夫だよ」と家入が先回りしてそう言う。

「え、これって…」
「三輪霞さんの手術が終わった。変形している部分を整形して、人工骨で補強してある。リハビリにはかなり根気が要るだろうけど、頑張れば数年で他の人間と同じように歩くことも可能だ」

カルテの人物は三輪霞。二カ月前に潜入調査をした真海伝道会の被害者の少女だ。彼女は逃げられないように足を縛られて強制的に小さくなるように変形されていた。五条が知り合いの腕利きの医者に任せれば完全とはいかなくとも治療は出来るといっていたが、その医者とは彼女のことなのか。

「……よかった…」

ナマエはホッと息をついた。完全に健常な人間と同じとはいかないかもしれないが、彼女の奪われたものを少しでも取り戻せることが心底嬉しかった。しかし、家入は民間の研究機関で法医学者をしているといっていた。だったらこれは彼女の仕事ではないはずだ。

「あの…家入先生の研究機関?で治療していただいてるんですか?」
「いや。うちは研究機関だから入院設備は整っていないんだ。だから昔お世話になった先生の病院に入院してもらって、私が治療にあたっているよ。五条の依頼でね」
「そ。硝子の腕ならチョチョイのチョイだと思って」

ケラケラそう言う五条を家入がじろりと睨むが、そんなものを五条が気にするわけもない。家入に五条が個人的に依頼をしてすべてを手配したというのが実際のところのようだ。

「とりあえず、今日は手術が無事に終わったって報告だけ。今後のことは入院先の先生と三輪さん本人と相談しながら決めていくよ」
「任せる。必要なものがあったら言って」

五条はクリアファイルの中の資料をさらりと確認するとまたクリアファイルに納めて家入に返す。きっとこの短時間で資料の中身をほとんど記憶したんだろうと思うと恐ろしい。
このあと職場に戻ってあれこれと用事があるという家入はファイルを鞄にしまい、今日の手間賃に高級日本酒を要求すると、事務所の扉のほうへ歩いていく。じゃあ、と言って扉を開いたところでピタリと固まった。

「お客さんみたいだな」

えっ、と思って扉の向こうを見る。そこにはピンクがかった短髪の少年が戸惑うような表情を浮かべて立っていた。



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