人魚墜落 10


まともに飛び込めたわけではなかったから、水面に打ち付けられた頬と肩のあたりがひりひりと痛んだ。衝撃に一瞬意識が飛びそうになったけれど、どうやら崖下の岩にぶつかったりはしていないらしい。もう崖の上の状況は分からないが、ここまで追っ手が降りてくるかもしれない。早く陸に上がって身を隠す方が得策だろう。
しかし衣装の布が重いせいで上手く身体が動かせなかった。水分を吸ったことでより重さを増し、脱いでしまおうにもそれさえ上手くいかない。まずい。このままでは捕まるか、そうでなくても体力がなくなって海に沈むだけだ。

「っう……ほどけなっ……」

そのとき、ざばざばと自分の動く音とは別の水飛沫が聞こえた。まさかもう追ってきたのか。このまま自分は死ぬのかもしれない。三輪は、与は、無事逃げることが出来ただろうか。いや、きっと五条が逃がしてくれているんだから大丈夫だ。

「ナマエ…!!」

布の重さにどんどん体力が奪われていく。五条の声が幻聴になって聞こえてきた。目を閉じてしまいそうになるその瞬間、ナマエの身体が背後から羽交い絞めにするようにして抱えられる。

「服重いな…今から脱がせるから暴れないで」
「ごじょ、さ……」
「口閉じて。海水飲んじゃうよ」

もぞもぞと腰のあたりで手が動き、儀式の重い衣装が脱がされていく。意識は少し朦朧としていて、気が付くと一番下に着ていた襦袢のような布一枚まで身軽になっていた。そのまま後ろから抱え込むような体勢で引っ張られ、すうっと海面を滑るように移動する。辿り着いた先は三輪を見つけた入江だった。

「ナマエちゃん、大丈夫?」

陸に上がったところで意識がはっきりと冴えてきた。すぐそばで呼びかける声を見上げれば、ナマエと同じに全身濡れ鼠になった五条がナマエの肩を支えている。ナマエは思わず掴みかからんばかりの勢いで五条に詰め寄った。

「五条さん、三輪さんと与くんは…!?」
「無事に逃がしてる。七海の知り合いの刑事と舞鶴で合流させた。…っていうか、開口一番それ?」
「す、すみません…助けていただいてありがとうございます…」

気が逸りすぎた。助けてもらったんだから先に礼を言うべきだろう。すうはあと何度か深呼吸をして、ナマエはもう一度「ありがとうございます」と追加する。

「そういうことじゃないんだけど…はぁ、間に合って良かった」

五条がそう言って支えていた肩を引き寄せると、ナマエのことを腕の中に抱き込んだ。濡れた布越しに彼の体温を感じる。どくどく心臓が鳴って、熱くなりそうな頭を先ほどの儀式のことが頭をかすめて引き止める。

「そうだ!ぎ、儀式は…追っ手が来るかもしれないです!」
「大丈夫。さっき警察が到着したとこ」
「そ、そうですか…よかった…」

強張った身体の力が抜ける。五条はナマエを安心させるためなのか、頭を何度かぽんぽんと撫でた。そうか、七海たちが到着したのか。伝道会は、儀式はどうなってるだろう。いや、行ったところで自分に出来ることはなにもない。

「ナマエちゃん、無茶しすぎ」
「……だって五条さん、守ってくれるって言ったじゃないですか」

わざと軽口を叩く。でも本当に、本当に助けに来てくれた。ナマエはそろりと五条の背に手を回し、小さく服の裾を握った。今だけは「怖かったから」なんて言い訳をしたら、こんなことも許されるだろうか。
五条に抱えられながら岩場を上ると、赤色灯を点灯させたパトカーが何台も止まっていた。スーツと制服の警官が入り交じり、時に怒号を飛ばしながら伝道会の面々を拘束していく。山側からのっそりと朝日が昇った。


例の件から二週間。伝道会では強制捜査が行われ、家宅捜索によってLSDが発見されたことにより事件は急速に進んだ。叩けばいくらでも埃は出る。そもそもナマエたちのやったこと自体、叩くためのきっかけを作ることが目的であった。
今のところは三輪への虐待と薬物の不法所持、使用が主たる捜査内容であるが、もちろんここから例の変死事件について話が繋がっていくだろうと思われた。

「改めて、ご協力ありがとうございました」

今日は七海と灰原から例の件で改めて礼がしたいと連絡があり、探偵事務所へ招いた。すでに現場でも充分に謝罪も礼もされているが、捜査状況の報告も含めてというところだろう。

「どう?カタつきそう?」
「いえ、想像以上に根が深いですね。LSDの出所は関西を拠点にする暴力団の枝系だと分かりましたが…そこからがまるで見えない」
「というと?」
「押収されたLSDの量。かなりのものでしたから、あれだけを仕入れるとなると暴力団側もそこそこの立場の人間が動いているはずです。そこまでの人間とどうやってコネクションを持つことが出来たのか…それがさっぱりわかりません」

押収されたLSDは、警察の予想をはるかに超えていた。その枝の暴力団の規模からしてもかなりのシノギであったらしい。それほどの太い客ならば、普通は伝道会側に暴力団の関係者が元々いたりしそうなものだが、そういう事実はなく、しかも暴力団側から仕掛けたのではなく伝道会側が仕掛けたらしい。得体の知れない相手に大量の薬物を流すことは組としてもかなりリスキーな事だったに違いない。その警戒をクリア出来る仲介人がいた可能性があるが、それが誰だかまったくわからない。

「もちろん三輪さんへの虐待については然るべき処罰が下されます。変死事件ともつながりが見えてきそうなんですが……何かそれだけでは済まない気がする」
「でもその裏にはまだ到達できない」
「ええ、その通りです」

七海の言葉を引き継ぐようにして五条が言えば、彼はそれをそのまま肯定した。不意に、灰原にされた「トカゲのしっぽ切り」の話を思い出す。例えばその仲介している誰かが真海伝道会を「トカゲのしっぽ切り」として切ったのだとしたら…。

「ナマエちゃん、あのあと大丈夫?」
「えっ、あ、はい。特に異常はないです」

無意識のうちに灰原のほうを見てしまっていたようで、灰原がこてんと首をかしげて尋ねた。あのあと念のために病院にも行ったが、どこも異常はなくピンピンしている。というか、今ものすごくさらりと下の名前にちゃん付けで呼ばれたが、やはり五条の知り合いというものは皆こうなのか。これほど連続すると気にする自分がおかしいのかと思えてきてしまう。

「来週のどこかで聴取に来てほしいんだけど、お願いできるかな?」
「はい。お役に立てるかは分かりませんけど…」

伝道会で起きたことを思い返す。まずは海岸清掃ボランティアから関わりが始まって、そのまま交流会とやに呼ばれた。そしてその後早朝会に誘われ、そこで初めて彼らが何らかの宗教団体であると尻尾を出した。早朝会でLSDを使われて、薬物による神秘体験は伝道会に引き込む足掛かりになった。

「ちょっとちょっと灰原。なに勝手に僕のナマエちゃんナンパしてんのー?」
「あっ!すみません!五条さん、ナマエちゃん聴取に連れて行っていいですか!?」
「どうしよっかなぁ」

ナマエが真面目に思い出そうとしていると、五条がごちゃごちゃと茶々を入れ、本気か冗談かよくわからないセリフで灰原が返す。隣で七海が「灰原…」とこれでもかというほどのため息をついた。

「ミョウジさんは別にアナタのものというわけではないでしょう。というかそもそも、ナンパではありません」
「決めつけは良くないな。僕のものって可能性もあるでしょ?」

えっ、と声を上げそうになって、話の腰を折るわけにはいかないとすんでのところで飲み込む。

「人間を物扱いするのは品がありませんよ」

七海がナマエの方を向いたので、思わず反射的に首を横に振った。すると隣に座っていた五条が「ええぇぇ」と抗議めいた声を上げる。従業員という意味では広義で五条のものといえなくもないのかもしれないが、そもそも雇用主と従業員の関係は対等である。しかも彼の言い回しからして恋愛関係とかそういうものを匂わせて言っているに違いなくて、それなら尚のこと五条のものではない。

「僕は聴取行かなくていいの?」
「アナタのことは呼べないから出向いているんでしょう」

五条も行くのかと思いきやそういう話でもないらしい。というか、警察署に呼べないってどういうことだ。少なくともナマエの知り合いには警察署に行きたくない人はいても刑事が「呼べない」という人間はいない。

「とにかく…今回もご希望通り匿名の民間協力者ということで通していますから」
「助かるよ。警察関係からバレて面倒なことになりたくないからねぇ」
「まぁ、噂が立てば回るのは早いでしょうからね」

へらりと五条が笑うと、七海が腹の底からフーッと息をついた。噂が立てば、なんて不穏だ。警察に顔バレして困るなんて何者なんだ。ナマエはこっそり視線だけで七海と五条を交互に見た。

「五条グループの代表取締役に命がけの協力させてたなんて聞いたら上は全員卒倒します」
「それはそれで見てみたいけどねぇ」
「馬鹿なこと言わないでください」

七海がまた大きくため息をつく。ちょっと待て、五条グループと言ったか。五条グループと言えば経済にさほど興味のないナマエでも知っている大企業だ。地所、重工業、金融業と手広く商売をしている。言葉を額面通りに受け取ると、五条はその大企業グループのトップ、ないしそれに近しい位置にいる人間ということになる。思わずあんぐりと口を開けて五条を見れば、彼はこともなげに「どうかした?」と首を傾げた。どうもこうもない。

「ご、五条さんそんな大企業の代表取締役なんですか!?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてません!」

聞いてない。むしろ彼が社長業の傍らでここを運営しているということも本人の口からは聞いていない。すべて話せとは言わないけれど、こういうことは自然とどこかで話題に上がったりするものじゃないのか。

「ま、そっちの仕事でナマエちゃんに迷惑かけることはないから安心してよ」

いや、そんな心配は少しもしていないが、とんでもない人間に雇われていたのだと知って脳の処理がしばらく追いつきそうになかった。


休日。ナマエはあれこれと日用品の買い物を終えると、そのまま商店街の西にあるパン屋に向かった。いつもだいたいこれくらいの時間に何種類かのパンが焼き上がるのだ。ふんふんと鼻歌交じりにパン屋のドアを開けると、随分と長身の金髪を見つけた。チノパン、ポロシャツ、眼鏡で髪も下ろしていて雰囲気が違うけれど、あれは七海に違いない。

「七海さんこんにちは。こんなところで奇遇ですね」
「…ミョウジさんこんにちは。今日は無性にここのパンが食べたくなってしまって」

そう言う七海の持つトレイには総菜パンがいくつか乗っている。初対面の時になんとなく思ったことだが、はやりパンは彼の好物のようだ。例のカスクートもしっかり乗っている。ナマエもいくつかパンをトレイに乗せて、些細な会話をしながら順番に会計を済ませる。なんとなく一緒に店を出たところで七海が「そういえば」と口を開いた。

「五条さんの事務所で働き始めたのは最近なんですか?」
「え、あ、はい。今で半年弱ぐらいですかね…」

五条と一緒になってこなした最初の内部告発が年明け早々だったから、なんやかんやで2月に転職することとなり今に至る。本来であれば社内規則でもう少し在籍していなければいけなかったのだが、事情が事情だったため特例が認められた。
ただの世間話かとも思ったが、彼の職業のことが頭にちらつくからか、聞かなければならないような事情があったのかと勘ぐってしまってそのまま尋ねる。

「あの…それが何か…?」
「いえ……五条さんが助手を雇うとは思いもしませんでしたので、驚いて。お気を悪くされたのならすみません」
「いえいえ、そんなことはないですけど」

思ったよりも深い意図はなかったようだが、これは夏油にも言われたことだった。そんなに助手を雇うのが想像できないとでも思われていたのか。確かにあまり人手はいらない事務所だとは思うけれど、何度も聞かれると何か違う理由でもあるのかと気になってしまう。

「以前、五条さんの友人の方にも同じこと言われたんですけど、五条さんってそんなに助手雇うイメージ湧かないような感じだったんですか?」
「そうですね…ノブレスオブリージュというか、依頼に付随する困りごとの処理や事情のあるひとの世話をしているのは見たことがありますが、自分の事務所へどなたかを招き入れているのは初めて見ました」
「そうなんですね……五条さんにはなんとなくって言われました」
「ああ、言いそうですね、あの人」

七海が相槌を打つ。夏油と似たような反応をしていたし、やはり五条の共通認識なのだろう。

「まぁ、少し面倒な人ですが、悪い人ではありませんから」

それはどういうフォローの仕方なんだ、と思って少し笑いそうになった。そういえば、七海はちゃんと名字にさん付けで呼んでいた。何も五条の周りは五条のような変わり者というわけではないらしい。



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