人魚墜落 08


五条はその場で七海へ連絡を入れ、続いてまたどこかに電話をかける。

「伊地知?今日お前大阪出張だったよね?二時間後に京都駅に車回して」

相手は伊地知だったようで、電話の向こうから戸惑うような声の雰囲気だけが伝わってくる。前回のように前入りは出来ないし、京都の沿岸部ということはスピード感を求めるなら車移動が必須であり、その白羽の矢が伊地知に立ってしまったという具合だろう。

『ちょ、五条さん!これから例の会議ですよ!?』
「そっちはいくらでも代理立てられるだろ。こっちはお前じゃなきゃ困るんだよ」

じゃあね。と言いたいことだけを言って通話を終了すると、五条はナマエに向き直って出発を促した。相変わらず唯我独尊だけども、その迷いのなさが今は頼りがいがあるように感じる。
最低限の荷物だけ持つと事務所の真下でタクシーを拾い、ナマエは五条の指示で京都駅までの新幹線自由席の乗車券を購入した。品川の駅で来たばかりの新幹線にそのまま飛び乗る。三両目の真ん中あたりの席に座ったころには少し頭の中が冷静になってきて、これからどうなるのかと肝が冷えていくのを感じる。

「あの…到着したらどうするんです?」
「今回は正面突破するわけにはいかないからね…到着は夕方になる。暗闇に乗じて三輪さんの軟禁されてる部屋まで直接行こう」
「わかりました」

京都駅までは新幹線で約二時間、そこから車で飛ばしても更に二時間以上はかかる。事務所を出たのは昼過ぎ。この季節なら日は落ちていないだろうから、タイミングを見計らって侵入するほかない。緊張を抱えたままの二時間は長く感じて、新幹線の速度さえ遅いもののように思えた。
京都駅に到着すると、五条を追って八条口に向かう。そこで黒塗りのセダンが止まっていて、運転席で伊地知がぺこりと会釈をした。本当に五条の指示通りに会議を他に回してきたらしい。

「お疲れサマンサー。伊地知、とりあえず例の施設の近くまで行って。日が落ちてから中に侵入する」
「わかりました。七海さんと灰原さんも至急準備を整えてくださっているそうです」
「ん。りょーかい」

事前にことのあらましを共有していたのか、伊地知は七海と灰原の件も承知しているようだった。二人で後部座席に乗り込むと、車がなめらかに発進する。秘書というものはこんなことまで仕事の内なのか。いや、伊地知が特殊なだけだろう。

「真海伝道会の件、調べてみましたが、4、5年前から指導者が変わるというようなことはないそうです。跡目争いや抗争の類いもありませんでした」
「そうか…じゃあ金周りが急に良くなってんのは頭が代わったわけじゃない…か」
「同一犯と思しき変死事件が始まったのは4年前です。確認出来るだけで6件ですが、そのすべてが信者、元信者、伝道会関係者というわけではないようです」

移動時間を有効に使うためか、伊地知は五条の指示で調べただろう真海伝道会のことと変死事件の補足説明のようなものを始めた。それによると、何も同一犯と思しき変死事件の被害者の中には伝道会との関係が一切不明な被害者がいるのだそうだ。

「なるほど…それが引っかかって警察も真海伝道会に狙いを定められなかったのか」
「ええ。家族や友達が献金詐欺に遭っただとかそういうこともないそうで…ただ、伝道会に無関係な被害者の共通点は、不倫をしていたということらしいですね」

それが手がかりになるかはわかりませんが。と伊地知が続ける。不倫をしているような不届き者ばかりがなぜ、とは思っても、犯人や被害者の規則性を見出すには不十分だ。相手の女性にも共通点は特にないらしい。

「じゃあ逆に、共通点と規則性を見つければ一気に真相に近づくってわけだ」
「ええ、信者だけではないということは、金関係の問題の可能性が大きいですね」

伊地知が平然とした顔で受け答えをする。これじゃあまるで伊地知の方が探偵事務所の助手であるが、彼は列記とした社長秘書であるらしい。金関係と言っても、内部の資料もなしに調べるのは無理がある。家宅捜索で押収した資料などからヒントを得るのが順当な捜査というものだろう。

「伊地知、あとで被害者と不倫相手の情報送っといて」
「わかりました。何か心当たりでも?」
「いや…何となく、妙な予感がする」

普段より幾分か低い声で五条がそう言った。あまり聞いたことのないような声の気がする。彼の勘は当たるのだ。変死事件の裏に一体何が隠されているんだろうか。


施設の近くに到着する頃には、日はだいぶと西に傾き、もうすぐ夜が迫ってきていた。ここからタイムリミットは明日の早朝、つまり12時間もないということだ。足の悪い彼女を密かに救出する。昨晩のような警備態勢であればある程度現実的な話だけれど、儀式の前ということもあって警備が強化されている可能性もある。
少し離れたところで車を降り、施設近くの様子を伺う。昨晩は見張りの人間などいなかったが、今日は敷地の入口ちかくに工事現場などで使われているような光る誘導棒を持っている人間が何人かいるのが見て分かった。

「…見張り…いますね…」
「そうだね。直で三輪さんのとこ行ってなんとかなるのか…それとも…」

五条が思案する。幸いにも堅牢な監獄というわけでもあるまいし、山の方から入っていけば敷地に侵入することは可能だろう。しかし行った先の入口で警備の人間が立っていたら打つ手がなくなる恐れがある。

「ある程度の距離をとって近づこう」

五条の言葉にこくりと頷く。日が完全に落ちるのを待ち、山側からゆっくり近づく。見張りがべったりと張り付いているわけではないのか、五条とナマエが到着がしたときには三輪軟禁されている建物に見張りはいないようだった。
躊躇っている時間はない。しかし二人が踏み出そうとしたその瞬間、がさり、と土を踏む足音が聞こえる。

「…俺ひとりだ。見張りはついてない」
「与くん…」

音の正体は与だった。手にはガラスの器を持っていて、そこには無色透明の液体が入っている。どうやらこれを三輪に届ける役目のようで、与に招かれて二人は建物に入る。電気はつけられていなくて、蝋燭の灯りだけが部屋の中を照らしている。

「三輪」
「メカ丸…え、あれ、探偵さんたち…?」

三輪は二人が来ることを知らなかったのか、顔を出したことにひどく驚いていた。彼女は先日着ていた衣装よりもたっぷりとした布を使った着物のような、ワンピースのような服を着ている。いや、これは奈良時代とかそのくらい古い日本の装束と思うほうがしっくりくるかもしれない。儀式用の衣装だろう。顔と髪を隠すように白い布を付けていて、彼女はそれをそっと外した。

「なんで…」
「俺が呼んだ。逃げるならもう時間がない」

三輪が目を見開き、与の言葉になんと返したらいいのかと何も見つからないように唇をはくはくと何度か動かす。

「む、無理だよ……もし見つかったらメカ丸までどうなるかわからないのに…」
「だからって明日の朝には三輪は殺されるんだぞ」
「でも……」

三輪が唇を噛む。彼女は足に細工をされて満足に走ることもできない。時間の限られた中で自分が逃げることの難しさ、失敗した際のリスクのことは人一倍考えて当然だ。彼女を説得しなければならないけれど、時間も多くは残されていない。どう話したものかと考えていると、五条がぬるりと間に割って入る。

「いろいろ悩んでるとこ悪いんだけどさ、迷えば迷うほど失敗率上がるから」
「えっ…その、えっと……」
「僕らを信じてくれたら必ず助ける。あとは君が決めるだけだ」

五条が高圧的にさえ思える態度で三輪を見つめて言った。三輪は引き結んだ唇を震わせて弱々しい声を出した。

「し…死にたくない……」
「三輪…」
「死にたくないです。まだ生きていたい…!」

三輪が自分の胸元でぎゅっと手を握る。ナマエはそっと彼女の肩に手を添えた。それは未発達のやわらかい子供のそれであり、ここで損なわれるべきものではないと改めてはっきり思い知る。
三輪が決めてくれたのなら、あとはもうここから逃げるだけだ。見張りが張り付いていなくとも、警備の人間が巡回している可能性は大いにある。ナマエが五条を見上げると。五条はにっと口角を上げた。

「よし決まり。じゃあ早速ここを出ようか」
「あ、あの、多分それは無理で…」
「警備?」
「はい。朝まで30分ごとに見回りが来ます。明け方まで続いて…そのあとは迎えが来てそのまま儀式の会場に連れていかれるんです。私がいなくなってるってわかったらすぐに追手が…」

三輪の言葉に押し黙る。最大限活用して25分程度ということだろう。充分に歩くことのできない彼女を背負って逃げるとしても、人目を避けつつ逃げて車に乗って、となると時間が足りない。五条が顎に手を当ててフムと考える素振りをする。何より次の巡回のタイミングが分からない。時間がない。何か策はないのかと考えているうちに、ナマエは以前三輪に聞いた話を思い出した。

「三輪さんの顔って…殆どのひとが見たことないんですよね…?」

御簾越しに会ってお清めをする。彼女はそう言っていた。しかも彼女はナマエたちがこの建物に入った際白い布で顔と髪を隠していた。目算ではあるが、三輪とナマエはあまり背格好が変わらないように見える。出来る。

「私が三輪さんと入れ替わります。儀式の直前まで粘って逃げれば見回りに気づかれずに済みますよね」
「そ、そんなの危険ぎます!」
「大丈夫、いざとなったら走って逃げますから」

ナマエの提案に三輪が食い下がる。自分が逆の立場でも同じことを言うだろうと思ったが、譲る気はなかった。準備の時間を必要とせずに今すぐ実行できる唯一の作戦だ。ナマエは五条を見つめる。

「髪も顔もその白い布で隠す上にこのろうそくの灯ならしっかり見えないでしょうし、バレずに済むと思うんですが…」
「ナマエちゃん本気?」
「はい」

身代わりのハリボテを用意する時間もない。ナマエであれば、三輪と違って最悪裏手に向かって走ることも出来る。幸いこの建物自体に外側から鍵がかかっているわけではない。三人が充分に逃げられたあとを見計らい、見回りの直後に出ていけばある程度の距離までは逃げられる。五条は数秒間黙り、それからそっと口を開いた。

「ナマエちゃんの作戦、採用」

ナマエは五条の言葉にほっと胸を撫でおろしたが、三輪と与はまだ少し不安そうだ。他人を身代わりにするなんて恐ろしいに決まっている。ナマエは三輪に「大丈夫ですよ」ともう一度強く言って聞かせた。

「三輪さん、最後に見回りが来たのは何時?」
「えっと、多分探偵さんたちが来る10分くらい前です」
「了解。見回りは部屋まで入ってくる?」
「いえ、窓の外から私がいるのを確認してるくらいで、中までは…」

三輪の回答を聞き、五条の判断で次の見回りが来た直後に服を入れ替えて外に出る段取りになった。確かに彼女の服の構造が分からないし、着るのに手間取れば嫌なタイミングで目撃されてしまう可能性がある。
次の見回りまで奥の水回りがあるスペースに隠れて息を潜め、懐中電灯を持って現れた見回りをやり過ごす。それからの30分で服を入れ替えて、次の見回りが終わってから五条と三輪、与が建物から出た。

「ナマエちゃん、無理はしないでね。脱出の予定は2時だけど、ヤバいと思ったら何時でもいいから逃げてきて」
「はい」

怖くないわけではないが、これが最善だと思ったし、三輪を見捨てるなんて絶対にできない。落ち着いてやれば大丈夫だと自分に言い聞かせる。五条が一瞬だけ黙って、それからナマエの肩を抱き寄せて言った。

「大丈夫。君のことは、僕が必ず守る」

五条の声が白い布越しにすぐ耳の傍で聞こえる。彼の言葉には不思議な力がある。大丈夫だと、そう言ってくれるだけで根拠もない癖に何もかも上手く行く気がする。ナマエが頷くと、五条がそっと身体を離して建物を出たた。ナマエはひとり部屋に残り、真ん中に座って耳を澄ませる。

「……よし」

三輪の着ていた儀式用の白い服は思いのほか重く、それは幾重にも布が重ねられているからだった。ただの布なのに、それらの一枚一枚に重苦しい信者の感情が込められているような気になる。
彼女はどんな思いでここを訪れる人間の女神でいつづけたんだろうか。なんで不可視の浦廻様という存在を可視化するなんて話になったんだろうか。足はこれからでも治せるのか。薄暗い中の彼女のことしか知らない。太陽の光の下で一体彼女はどんな顔をするんだろう。

「っ……!」

不意に懐中電灯の光が近づき、ナマエは身を強張らせる。足音が近づいてくる音に緊張感が高まった。ざり、ざり、ざり。足音が建物の傍まで辿り着き、それから同じように離れていく。変わり身がばれなかったことにほっと息をついた。
それを何度か繰り返し、もうすぐで時計の針がてっぺんを回る。後に時間で脱出だ、と思ったそのとき、見回りとは違うタイミングで足音が近づいてくる。不味い。何か予定外の事態か。戸が開けられ、足音が二つ建物の中に入る。

「浦廻様」

導師の声だ。白い布越しでしっかりと顔を見ることは出来ないが、隣にいるのは見たことのない男だった。ほとんどの人間が見たことがないとはいえ、導師は恐らく接触の機会が多いはずだ。声を出せば身代わりに気付かれてしまう。導師はナマエの焦りなど知る由もなく話しかけた。

「日の出とともに環海式が始まります。0時から儀式の終わりまで、決してお声を出しになりますな。これは浦廻様の神聖性をより高めるための重要なことにございます」

幸か不幸か声を出さなくてもいい状況になり、ナマエこくりと頷くだけで返答を済ませる。それに導師も満足したようで「大変結構です」と言ってまた建物の出入口へ戻っていく。来訪者が建物を出て、なんとか難を逃れた、と思った瞬間、扉の方から「かちゃり」と不穏な音がした。
ナマエは足音が遠ざかるのを待って扉に駆け寄りドアノブを回す。駄目だ、開かない。

「う、うそ…!」

外から鍵をかけられた。窓には鉄格子が嵌っている。内側から鍵を壊すことは出来るのか。いや、あまり大きな音を立ててしまっては気付かれるに決まっている。どくどくどくと凄まじい勢いで心臓が鳴り出した。



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