人魚墜落 06


ちゃぷん、ちゃぷん、ちゃぷん。水を跳ねる音は続く。何が跳ねているのか。小魚の類いじゃない。もっと大きなものが遊ぶように跳ねている。五条が先を行き、ナマエは腕を組んだ体勢で半歩後ろをついていった。

「…誰かいるの?」

五条が入江の中に声をかけると、ひゅっと息をのむような音がして、急に跳ねる音が止んだ。人間の気配に動物が怯えたというのならもっと早くに音が止んでいただろうし、五条が声をかけたことで動きを止めたと考える方が自然だ。つまり相手はこちらの言葉を理解する、人間。

「……誰かいるね」

今度は疑問形ではなく断定して口にする。暗闇にも随分目が慣れて、入江の奥にぼんやりと人影のような輪郭が見えてきた。不意に月が雲の間から顔を出し、抑えられていた光量が一気に広がる。それに人影が照らしだされた。

「え…女の、子……?」

正体不明の人影は十代と思しき少女だった。青い髪が背中の真ん中あたりまで伸びている。彼女は怯えたようにこちらを見ていた。こんな真夜中に何故女の子が海に浸かっているんだろう。まさかの可能性を考え、ナマエは「早まらないで…!」と言うと、少女は何の話だとばかりにぽかんとしていた。

「え、えっと…?」
「うーん、どうやら自殺志願者というわけでもないらしいねぇ」

少女が首を傾げたことにナマエが今度は首をかしげる。じゃあなんでこんな真夜中に海に浸かっているのか。まさか単純な不良か。それにしたってここの周辺は伝道会の関連の建物以外に何もない。どうしてわざわざこんなところに。

「僕たちは君に危害を加えるつもりはない。だからちょっとお話聞かせてくれない?」
「は、話…ですか?」

五条はまるで何かに気が付いているようにぐんと踏み込んだ。少女は後ずさるが、背中には入江の岩が広がるばかりである。彼女はいくつか考えたあと、おずおずと首を縦に振る。「そうこなくっちゃ」と五条が笑った。

「ずっと海の中ってのも寒くない?どこかで上がって話そうか」
「えっと…少し待ってください」

五条の提案に少女はいくつか動きづらそうな素振りをして、なんとかといった様子で岩場に上がってきた。足元が覚束ないようだ。暗いからだろうか。彼女がよちよちと小さな歩幅で移動し、歩き出した五条についてナマエもその後ろを追う。

「君の名前は?」
「み、三輪、霞です…その、あなたたちは…」
「…真夜中の海は危ないでしょ。なんでこんなところに?」
「それは……」

少女の問いをまるきり無視して五条が続ける。三輪霞と名乗った少女は陸に上がってみると案外長身で、足もしっかりあるから幽霊の類いでもないようだ。足、足?と疑問に思って注視する。何かおかしいと思った違和感はそれで解決した。彼女の足はまるで小さな子供のそれであり、彼女の身長に対してまったく釣り合っていない。

「君……何者?」

五条の質問が鋭くなった。口調こそ尋ねるふうだが、その実そういうつもりがあるとは思えない。三輪はひゅっと息を飲み込み、それから数拍置いてようやく吐き出す。

「あ、あなたちこそ、伝道会の方じゃないですよね。どんな用事でこんなところに来てるんですか…?」
「僕らはどこにでもいるカップルだよ。ちょーっと最近行き違いが多くなっちゃって困ってるだけの。ね?」

突然話を振られ、ナマエはとりあえず頷く。真夜中の海に女の子がいるなんて状況に忘れかけていたが、そういえばそういう設定だった。三輪は信じるかどうかを逡巡しているような雰囲気で、しかし次に彼女が口を開く前に少年の声が飛んでくる。

「三輪…!!」
「メカ丸!」

陸の方から慌てて駆け寄った。あの少年は昼間に食事を運んできてくれた少年だ。与幸吉といったか。彼は三輪と五条らの間に割り込むと、威嚇するように五条を睨みつける。五条はそれに「なるほどねぇ」と何かを察したようだった。さっぱり何のことだか見えてこないが、五条は察するのが早すぎないか。

「三輪さん。君は浦廻様、だね?」

えっ、と声を出してしまいそうになったのはナマエだった。浦廻様というと、この真海伝道会の女神とされている人間のことではないのか。てっきり老婆のようなものを想像していたが、彼女では真逆だ。というか、この短い時間で何を考えているのか五条の頭の中がさっぱりわからない。

「お前たち何のつもりだ。三輪に手出しするなら容赦しない」
「そんなにカッカしないでよ。僕らの目的は少なくとも君たちの害にはならないはずだよ」

与が五条を睨み上げ、五条は敵意がないことを示すように両手を挙げた。敵意がないのは確かなのだが、この場合五条とナマエが存分に警戒されても仕方がない。せっかく手がかりのひとつである「浦廻様との遭遇」に成功したけれど、ここからどうするつもりだろう。

「与くん、だっけ。君は伝道会になんだか否定的だよね」
「……それが、どうした」
「僕らはなにも新しく信者になるために来たわけじゃないんだ。いろいろ聞かせてくれない?」

与がぎゅっと口を噤み、振り返って三輪といくつかこちらに聞こえないように話をする。一分程度の間のあと、与は振り返って強い瞳で五条を見上げた。

「お前たち何者なんだ。話をするかどうかは、それを聞いてから決める」

五条はこれになんて答えるだろうか。確証はないが、なんとなくどう答えるのかわかるような気がする。彼はきっと、自分たちの身分を明かすだろう。五条悟という男がどういう男であるのか、わからないながらも少しだけ見えてきた。

「僕たちは遺言探偵。この伝道会の実情を暴くために来た」

ひゅっと目の前の二人が息を飲むのがわかる。この男が敵か味方か見定めようとしている。与と三輪は視線をまた交わし、五条に向かって「こっちだ」とついてくるように指示した。彼らに従って歩いていくと、入江から伝道会の敷地に向かって抜け道のようなものが見えてきた。暗い中でも迷いなく進むから、きっと普段から歩き慣れているのだろうことが伺える。

「ここだ」

案内されたのは教団の建物のなかでもずいぶん小さな平屋の建物だった。内装は概ねナマエたちに貸し与えられていた部屋と変わらない。女神様と呼んで祀り上げているのだからもっと特別な扱いをしているかと思ったが、そういうことでもないらしい。

「三輪さん、先に着替えた方が良いですね」
「夏だから大丈夫ですよ」
「夏って言っても身体冷えちゃいますよ。えっと、タオルとかありますか?」

三輪は先ほどまで海に浸かっていたのだ。夏だからすぐに着替えなくても風邪を引くことはないだろうが、男もいるのにびしょ濡れになったままの彼女を放っておくなんて出来ない。五条に断って三輪を奥の別の部屋に連れて行き、戸棚にあるというタオルを渡す。移動する間、彼女の動きを補助したけれど、やはり異様に小さな足のためかよちよち歩きのままだった。

「すみません、メカ丸が失礼な言い方をして…」
「いえ、あなたたちにとって不審であることは間違いないですから、当然のことですよ。えっと、メカ丸って…与くんのことですか?」
「はい。あの、悪いひとじゃないんですけど、その…」

三輪は与のことをどうにかフォローしようと必死だった。確かに与に敵意はあったが、三輪を守るためにそうしただろうことは簡単に想像ができる。「気にしてないですよ」とナマエが言えば、三輪は少しホッとしたように口元を緩めた。

「メカ丸っていうのはあだ名なんですか?」
「あ、はい。昔こっそり見てたアニメがあったんですけど、それに出てくるキャラクターの名前で」
「与くんと仲いいんですね」
「そう、ですね…同年代ってここじゃ少ないですから」

与のことを話す三輪は少しだけ緊張が解けているように思われた。彼女にとってはここでの数少ない友人なのかもしれない。
三輪の着替えが済むと、与と五条の待つ部屋に戻った。二人は何も話を進めていないようで、部屋の中は静寂に包まれている。与に引き渡すように三輪の補助を託すと、与は三輪を守るように少し前に座り、ナマエと五条はそれに向かい合うようにして座った。

「探偵ってなんだ。誰が依頼したんだ」
「依頼主は言えないけど、この伝道会に殺されたひとのひとりだよ。僕らは生前に受けた依頼を依頼人の死後、遺言をもって遂行する特別な探偵でね…依頼人が殺されて、それで依頼の遂行に踏み出したってわけ。情報を集めたいんだけど、中々中枢には踏み込めなかったんだけど…おあつらえむきに君たちに会えた」

五条が簡潔に説明をする。与の伝道会に対する態度が否定的な様子を見せていたから、そこで引き込めると踏んだのだろう。全くの賭けということはないのだろうけども、判断材料でどこまで計算していたかまでは推し測れそうにない。

「あの、私が浦廻様だっていうこと…どうしてわかったんですか?」

黙っていた三輪が口を開いた。それは確かにナマエも気になる点だ。断定するには材料が少ない気がして仕方がない。与のように会員の二世という可能性だってあったのに、五条は確信めいて三輪を浦廻様だと言い当てた。

「理由はいくつかあるけど…まずこんな田舎の海にひとりで来てるなんて関係者じゃなきゃおかしいから、一般人って線は排除。それから浦廻様が女神であること、おまけに君の変形した足ってところかな。逃げないように無理やり処置されたんじゃない?」

三輪は五条の言葉に黙したあと、布で隠れていた自分の足を晒した。小さい。まるで小学生の女の子のような大きさだ。

「…足は、探偵さんの言う通り逃げないようにって昔から縛られて小さくされたんです…表向きは、海の化身である浦廻様に人間と同じ足はないからって言われてますけど」

三輪の答えにぞっとした。彼女の足は人為的に小さくされていたのか。しかも足がこれほど小さいということは少なくとも数年は前から継続的に行われていたと言うことで、理由が逃げないようにするためなんてあまりに人道に反する。確かに言われてみれば、その小ささは充分に歩くのも難しそうで、例えばイルカかクジラのように海に暮らすことで足が退化した海獣のような、そういうものを感じた。

「君はどんなことをさせられてるの?」
「えっと、月一回の禊の儀式で海に祈りを捧げるのと…あとは偉い人が来たときに御簾越しに会ってお清めをするくらいです。それ以外の時間はここで過ごしてます」
「なるほど…まさにご神体か…」

ふむ、と五条が手を顎に当てる。しかし、浦廻様が彼女だとしたら、間違いなく浦廻様というものが複数いることになる。彼女が生まれる前からこの宗教団体は存在しているわけだから、それならば少なくとも設立当初は別の人間が浦廻様の椅子に座っていたはずだ。

「僕らはもう薬物の使用を確認してる。君たちはその入手ルートや具体的な使用方法は聞いたことある?」
「はっきりとは、ないです…なんとなくそうなのかなとは思ってたんですけど…やっぱり…」

三輪が膝の上で握った手にぎゅっと力を籠める。言い回しからして彼女はただ担ぎ上げられているだけであり、団体の運営の深い部分には関わっていないように思われた。五条は彼女を利用して上層部の情報を得るつもりだろうか。それならこれから、ただでさえ大人に無理を強いられている彼女にこれ以上危ない橋を渡らせるのか。ナマエは隣に座る五条を見つめた。次に口を開いたのは五条でも三輪でもなく、与だった。

「……お前ら探偵が、ここの実態を暴いたら……三輪は助かるのか?」
「……どういうこと?」

繋がりの読めない問いに五条がそのまま聞き返す。「め、メカ丸…」といって三輪が与の腕を引き、言葉の続きを止めるような素振りをした。与はその手に自分の手を重ね、三輪に「大丈夫だ」とでも言うように頷いた。

「三輪は、三週間後、儀式で殺される。環海式っていう、浦廻様が海に還るって口上で……」

ナマエは予想外の方向から殴られたような気分になり、ひゅっと息をのんだ。三輪は視線を落として、与の引き結ばれた口は震えていた。

「…三輪を助けてくれるなら、俺が協力する」
「メカ丸!そんなことしたら…!」
「大丈夫だ。お前のことを助けられるチャンスなんだぞ」

情報をリークするということは、危険な橋を渡るということだ。三輪が与を止めて、だけど与は譲らなかった。
──助けたい。汚い大人のためにこんなふうにして子供が踏みにじられるなんて間違ってる。なんとかならないのか。手段は思いつかないけれど、なんとかしてあげたい。ナマエは言葉にならない掠れた音で「五条さん」と祈るように言った。

「モーマンタイ。伝道会の実態も暴いちゃって、三輪さんも逃がしちゃってめでたしめでたしと行こうか」

五条の言葉にぱっと与と三輪が顔を明るくする。ナマエも五条の判断にほっと胸をなでおろした。ここで証拠を得て、警察に提出しよう。そうしたら三輪への虐待だって露見する。芋づる式にしょっ引くことだって可能かもしれない。
かすかに見えてきた光は、まるで月から階段のようにこちらに近づいてくるように思われた。



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