人魚墜落 04


一週間後の土曜日、翌日の早朝会に参加するため、五条とナマエは京都に向かった。綾部市の駅前のビジネスホテルで一泊して、明日の朝4時にはこのまえの海岸より少し南の教会へ集合しなければならない。まるで市場で働く人間の出勤時間であり、早朝会という名に違わぬ始まりというところだろう。
眠たい目を擦りながらタクシーに乗り込み、朝というよりはまだ夜中というべき街中を移動する。
一時間弱走ったところで目的の教会に辿り着く。建物は山の斜面に沿って建てられたシンプルな白の外壁で、何か宗教的な意味合いを持っていそうなものは見当たらない。四角いその建物の奥に三階建ての建物が見えて、その他にもちらほらと小さめの倉庫のようなものが見える。

「……見た目は普通…ですね?」
「そうだねぇ。普通過ぎて怪しい臭いがプンプンするね」

建物の入口にはちらほらと人影があった。みな何か特殊な服装というわけでもなく、ありふれた恰好の人間ばかりである。世代としては若干中年が多い気がするけれど、概ね老若男女といったところだろう。

「ああ!来てくれはったんやねぇ!」
「おはようございます。よろしくお願いします」

出迎えたのは、交流会でナマエたちに早朝会のことを勧めた男だった。男の案内で建物の中に入る。玄関口で靴を脱いで、一番東の畳の部屋に案内された。座布団が等間隔に敷かれたなかの指定席というものはないらしく、好きなところに座るように言われ、先を行く五条について後ろから二列目の廊下側、五条の左側に並んで座った。
室内は騒がしくもなく、しかし全くの静寂というわけでもない。連れ立ってきている人間や顔見知りが適度に小さなお喋りに興じている。

「もうすぐ導師様が来はるから」
「あの、私たち何にも作法とか知らないんですけど……」
「ええからええから。なんも難しいことはあれへんよ。導師様来はったらお話あって、そのあと波符いうんが配られるからな、そこに清めたいこと書いてお清めするんやわ。まぁ、周り見とったらわかる思うから」

男はそれだけをざっくりと説明すると、前方の座布団に座りに行った。指定席はないと言っていたが、前方は有力な会員の席と暗黙の了解でもあるのかもしれない。
ほどなくして紺碧の狩衣を着た高齢の男が部屋に入ってきた。恐らくあれが導師様とやらと思われ、室内のささやかなお喋りはすべてなくなった。

「おはようございます。本日の早朝会を始めます」

導師の声はそれほど大きいわけではなかったが、不思議と部屋の隅までくまなく聞こえるような気がした。外はまだほの暗く、すぐそばの海岸から聞こえる波の音だけが届いている。
導師は手のひらを上にして前に出し、そこから手を合わせ、また開いてを三回繰り返す。それに前方の会員たちが頭を垂れたので、波のように伝播して後方の会員たちがそれに続く。もちろんナマエと五条もそれに倣った。

「ひとは、海から生まれた生き物でございます。海から生まれた生き物であれば海で生きるのが道理。しかしわたくしたちは陸に暮らすことを選んで文明を築いてまいりました。これはまったく道理に反することでございます。道理に反しているわたくしたちの身の内には穢れが積み重なっております。だからこそ、わたくしたちの身には苦難が訪れるのです」

これは恐らく決まりきった口上で、導師は淀みなく話し続けた。導師は合わせた手を胸元に持って行って、少しの間を開けてまた口上を続けた。

「ではどうすれば穢れを取り除けるのか」

シャンシャンシャンシャン。どこからともなく華奢な鈴の音が聞こえる。しかし部屋の中では鈴を鳴らしている様子はない。

「浦廻様のおちからで清めていただくのです。浦廻様は海の化身。母なる海に抱かれることでわたくしたちは清い生き物に戻ることが出来るのです」

台詞の最後にかけてクレシェンドがかかるように大きくなっていた。抑揚のつけられた声は迫力を持ち、聞いているものを引き付けるようなものがあった。
いよいよ浦廻様とやらの話が出てきた。ボランティアを取っ掛かりにして人を集め、交流会で情報を引き出し、そしてこの早朝会とやらで更に引き込む。早朝会までは宗教の臭いは直接的には出さずに、ここで初めて「浦廻様」という具体的な話を持ち出すのだ。

「今から波符をお配りします。ここにあなた方の清めたいお悩みをお書きください」

導師がそう言うと、奥の襖から出てきた白い作務衣の男と女が坐している面々になにやら配り始めた。それは長方形の短冊のような紙とボールペンであり、ナマエにも配られたが、見たところ変わった点はない。
言われるがままそこに偽の会社関係の悩みを書くと、隣で五条も「恋人の職場環境が…」などとまことしやかに書いた。恋人と言う表現に思わずどきっとしてしまって、いやいやこれは仕事なんだからと妙な煩悩を掻き消す。

「よろしいですか」

しばらくすると、導師がそう声をかけ、最前列の右端から順に会員の前に立ち、波符と呼ばれるを額に当てて大きく深呼吸することを指示した。恐らく位の高いだろう会員の男は指示に従って波符を額にあて、肩が動くのがわかるほどの深呼吸を三回する。導師はそこから左の会員、更に左の会員と巡り、それぞれに同じ指示を出した。
ついにナマエの番が回ってきて、導師が目の前に立つ。背丈は170センチ程度で細身の男だが、立ち振る舞いのせいか実際の身長よりも大きく見えた。

「よろしいですか」
「は、はい…」
「波符を額におあて下さい。そして悩みを頭の中に思い浮かべ、大きく三回深呼吸をして下さい」

他の会員たちにも出されていた指示とまったく同じ指示を出され、ナマエもそれに従った。すう、はぁ、すう、はぁ、すう、はあ。深呼吸を繰り返す。頭の前の方が重くなるような感覚があって、目の前がちかちかと光った。脳みそに粘土を詰め込まれたかのように思考が鈍くなり、気が付くと導師はナマエの目の前から去り、隣の五条の前に立っていた。
グラッと視界が揺れる。先ほどまではなかったはずの鈴が室内に張り巡らされ、すべての雑音を飲み込むようにうるさく鳴り続ける。

「さぁ皆さん、浦廻様のお力で穢れが清められます。この光こそがその証なのです」

導師は元の場所に戻ってそう言った。その瞬間、部屋の中が瞬く間に明るく白み、目が眩んだ。シャンシャンシャンシャン。鈴の音の洪水、光、波の音。頭の中に情報が詰め込まれてショートする。プツン。ナマエの意識はそこで途切れてしまった。


薄暗い中を歩いている。コンクリートの壁に囲まれたそこは狭く、人ひとりが通るので精一杯の広さだった。窓はない。それなのにどうしてだか真っ暗ではなくて、足元の道が確認出来る程度の明るさがあった。

『行かなきゃ』

確かにそれは自分の声であったが、しかし自分の意思とは関係のないところで発せられた声だった。速度は増していく。地面は冷たく、走るたびに足が凍るような気がした。果てのないかのようにずっとずっと続く道が突如として途切れ、目の前に大きな溝のようなものが広がった。そしてその溝の先に白い髪が揺れている。

『五条さん』

ここを飛び越えなくては到達できない。けれどこの幅を飛び越えることは到底できないことのように思われた。はやく、はやくしなくちゃ、辿り着かなくちゃ。駆り立てられたナマエは勢いよく踏み切る。

『あッ…!』

しかし対岸にたどり着くことは出来ず、凄まじい引力によって落下し、暗闇に引きずり込まれていく。五条さん、五条さん。

「五条さんっ…!」
「なぁに?」

ぱっと視界が開けた。のん気な声で返事があったと思ったら、見知らぬ天井が広がっている。コンクリートの壁はどこにもなくて、視線を少し動かすとナマエを覗き込む五条と目が合った。

「ナマエちゃん大丈夫?相当魘されてたけど」
「え、あれ…私……」

徐々に思考が覚醒し、自分の状況を整理した。先ほどの意味の分からない空間は夢だったのか。どうしてここで寝て、いや、そもそもここどこだっけ、と考えたところで、自分が早朝会に参加しに来ていたことを思い出した。

「すみません、私、途中までしか記憶ないんですけど…」
「そりゃそうだろうね。早朝会の途中でぶっ倒れたんだよ」
「えっと、じゃあここは…」
「僕らが今日泊まる部屋」

倒れたのは理解したが、その次の言葉が全く理解できない。彼が必要な説明を省くのはいつものことだけれど、こんな状況では勘弁願いたい。閉口したナマエに五条が説明を再開する。

「あの早朝会で倒れるのは相当穢れが溜まっている証拠らしい。それを清めるための禊ぎに参加すべきだって話になって、今日から一泊二日の楽しいお泊り会だよ」
「お泊り会って……はぁ、なんでもないです」

軽口に対抗しようとしたが、その気力がなくなって諦める。まだ頭が痛くて目も眩むし、ツッコミをいれる元気はない。それにしても、どうして倒れてしまったのだろう。別に体調が悪かったわけではないし、原因が思いつかない。ひょっとして、あの儀式に本当になにかの力があったのではないか。あの眩しい光の正体は何なんだろうか。

「あの……ご…悟さん。さっき私、すごく眩しい光を見て……」
「うん」
「それから鈴の音も。悟さんも見ましたか?」

五条さん、と呼びそうになってなんとか軌道修正をする。ここがまだ施設の中なら気を付けておくに越したことはないだろう。五条はナマエの問いに答えることはなく「ちょっと散歩しに行こうか」と提案した。何がどうしてそんなことになるのかはわからないが、ここで意味のないことを言う人ではないのだからとその提案に乗る。部屋を出て少し歩いた階段の踊り場で作務衣の女に遭遇し、五条は「目が覚めたみたいなんで、ちょっと気分転換に散歩に行ってきます」といつにないにこやかさで言った。

「まぁ、目が覚めはってよかったわァ。お昼には戻ってきてくれたらええですから」
「わかりました」

ぺこりと会釈をして女の隣をすり抜けると、玄関で靴に履き替えて外に出る。この建物はどうやら教会と呼ばれる白い建物の後ろにあった三階建ての建物だったらしい。奥に来てみてはっきりと認識できたが、この施設には常時何人もの会員──信者が生活をしているようだ。奥にいる人間は殆どが白い作務衣を着ていて、そのなかに何人か青いラインの入った作務衣を着ている人間がいる。恐らくなにか階級のようなものを示しているに違いない。作務衣の人間たちの中を通り抜ければ、そのまま海岸に辿り着く。ごつごつと足元が悪く、浜辺というよりは岩場のような場所だ。

「ナマエちゃん、今はふらつきはない?」
「じ、実はまだちょっとだけ…」
「じゃ、足元悪いから掴まって」

五条が手を差し出し、ナマエはおずおずとそれを取った。それからまるで恋人のように指を絡める。嘘っぱちのカルトだと思っていたのに、あんな正体不明の光を見せられて神の力だなんて言われたら、うっかり信じてしまいそうだ。

「あの、さっきの話ですけど…」
「結論から言うと、僕は見てない」
「じゃ、じゃあなんで私だけ…倒れたのも何かほんとに妙な原因とかがあったり…」

五条は見ていないのに自分だけだと言われたら途端に不安が増長された。穢れが溜まっているから倒れただとかと言われたようだが、まさか本当にそんなものがあるのか。きゅっとナマエが唇を引き結ぶと、五条が繋いだ手に力を籠める。

「落ち着いて。あれは超常現象でも神の力でもない。人為的に見せられた幻覚だよ」
「え……」
「あの波符とかいうやつ額にくっつけて呼吸してからおかしくなったでしょ」

五条の指摘に頷く。確かに彼の言う通り、指示に従ったところから頭の回転が鈍くなっていた。しかし別に何かおかしなものを食べさせられたわけでもない。あの瞬間に何が起こったというのだろう。

「あれにはLSDが沁み込ませてる。さっきくすねたやつを簡易キットで確認したら陽性が出たよ。LSDは無味無臭の無色透明で、しかも少量で効果を発揮する。液体で製造することも可能なんだ。それで紙片に沁み込ませたりゼラチンとかカプセルとかにして使用されることもある」
「えっ、LSDって薬物ですよね!?」
「もちろん、日本では麻薬に指定されてるね」

五条が平然とした様子で言ってみせ、更に補足説明を加える。LSD、リゼルグ酸ジエチルアミドは半合成の幻覚剤である。幻覚や幻聴、時間感覚の欠如を引き起こす。リゼルグ酸化合物と人類の関わりは古く、それは古代ギリシアまで遡ることができる。LSDが発見されたのは1943年。それから現在に至るまで様々な事件や事故が引き起こされ、あるいは犯罪に利用されてきた。

「で、でもなんでLSDなんて使って…」
「入手ルートは流石に警察の領分だけど、なぜ儀式に使ったのかと言えば答えは簡単。あの早朝会とやらで神秘体験をさせるためだね」
「神秘体験…?」
「そ。強烈な光とか音とかは時には人間の考え方や人格さえ変えることがある。例えば瞑想とか修行とかで極限に自分を追い込んだりすることで得られるようなものなんだけど、カルトなんかでは薬物を使って幻覚見せたりして強制的に引き起こして、その神秘体験で信仰に引きずり込むような手法もある」

五条の説明を自分の中で噛み砕いた。超常的な現象を体験させることで自分たちの教えを信じさせようということか。実際強い光と鈴の音の幻聴を聞かされ、神仏の類いを信じているわけではないナマエもここはなにか特別なのではないかと思いそうになった。悩みを抱えて救いを求める人間にとっては尚更だろう。

「さすがカルトって感じになってきたねぇ」

五条がふむ、と何かを考えるようにそう言った。覚悟はしていたつもりだけれど、想像以上にこの団体の闇は深いようだ。岩場の奥の入江からちゃぷんとなにか魚のようなものが跳ねる音がした。



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