人魚墜落 03


海岸清掃のボランティアに参加する手引きは友人夫婦が率先して行ってくれたため、当日朝現地に向かうだけで随分な歓迎を受けた。もちろんナマエと五条が婚約関係にあるという設定も伝わっているようだ。

「まぁボランティアって言うてるけど、あんまい気負わんでええからね。散歩ついでにゴミ拾いするくらいの気持ちでやったって」
「はい、ありがとうございます」

集まっている人間は特に年齢も性別もこれといった偏りはなく、休日に海へピクニックに来たのかというほど穏やかな様子である。ゴミ袋やら軍手やらを受け取り、五条とふたりで決められた浜辺へ向かった。

「…ゴミ拾いするほどゴミがない……」
「まぁ、観光のオフシーズンで月二回もゴミ拾いしてたらねぇ」

見回してみたが、一般的な海岸に比べてゴミというゴミは少ない。海藻類や流木が漂着しているけれど、ペットボトルだとかビニール袋だとか、普通よく落ちているような人工物はあまり見当たらなかった。

「ていうか、ナマエちゃん頑張って悟さん呼び慣れてね」
「う……努力します…」

周囲の人間に聞かれないようになるべく小声でそう話す。結婚を前提にしている恋人同士という設定なのだから、名字呼びは変に目立つ。しかし作戦とはいえ五条のことを「悟さん」と呼ぶのはかなり恥ずかしい。

「…ボランティアに参加しましたけど…一体ここからどうやって取り入るんですか?」
「大丈夫大丈夫。放っておいても向こうから勧誘しに来るから」

今回も絵図は五条の頭の中にあるようだが、ナマエはさほど詳しいことを教えられていない。申し訳程度に「いい感じの流れで潜入する」と言われているが、一体何をどうするつもりなのか。適当な作戦で行ける、というよりは計算された作戦が頭の中にあるが説明をするのが面倒なのでしない、といった様子だ。

「調べてみたんですけど、ここの教義?みたいなのがよくわからなくて…」
「基本は海洋信仰プラス女神信仰だね。人間の完成系は海とされていて、死ねば生まれた場所である海に還っていく。だから、焼骨後は墓に納骨するんじゃなくて海に散骨するっていうのが教えのひとつ」
「なんか…わりと普通ですね?」

五条の噛み砕いた説明聞く限りは突拍子もないような内容はなく、ある程度どこにでもありふれたような信仰の話のように思える。母なる海、とは良く言ったもので、生命の源である海を信仰の対象にする話はよくある。カルトというからにはもっと突拍子もない話が出てくるかと思ったが、そういうわけでもないのか。

「もっと独特な神様とか祀ってるのかと思いました」
「ピンポーン。ナマエちゃん大正解」

突然の正解にナマエは思わず「え」と声を漏らした。ボランティア参加者からの視線は少し感じるが、皆まだ距離感を測っているのか、声が届かないような範囲にしかいない。五条がじっと海に向かって視線を向ける。

「ここには独自の神様がいる。浦廻様っていう女神」
「うらみ、様」
「そ。浦和の浦に輪廻の廻って書いてウラミ様。なんとこれが現人神らしいんだよね」
「それって…」

現人神とは、この世に人間の姿で現れた神のことだ。つまり、浦廻様には実態があり、神の存在の有無を論じるつもりはないが、この団体がカルトであるということは、十中八九神と崇められる人間が存在するということだ。海への畏れからくる一般的な信仰かと思いきや、急に随分カルトらしい話になってきた。

「その浦廻様に会えるのは上級会員のみなんだよねぇ。だから僕の伝手でも情報仕入れるので精一杯でさ」
「じゃあ今回はどうにか上級会員に取り入って浦廻様に近づくっていうことですね?」
「ご名答。出来れば直接会いたいね」

語尾に音符がつくような話し方はやめてほしい。女神の現人神ということは女性なんだろうか。それにしても神様に対面しなけれいけないかもしれないなんて気が重いにも程がある。
ゴミ拾いは一時間程度で終わった。集合場所にまた戻り、各自の拾ってきたゴミを軽く分別する。人数の割にはやはり集まったゴミは少なく、この清掃自体が口実だということが伺える。

「お疲れさまぁ。よかったらそこでお茶飲んでいって」
「ありがとうございます」

中年の女性がそう声をかけてきた。そこ、というのは海岸のほど近くにあるプレハブのような建物のことだろう。人の流れに従ってついていくと、室内は田舎の公民館のような風情で三分の一が板張り、残りが畳敷きになっていた。
いくつか質問をされ、それに対して五条が適当に答えていく。齟齬のないように相槌を打ちながら、下手を踏むわけにはいかないから会話の主導権は五条に渡したままだった。

「あら、あなたたち結婚するん?」
「あ、えっと、一応……」
「そうなんですけど、最近ちょっとすれ違いが多くなっちゃって。彼女の友人がこの清掃ボランティアを勧めてくれたんです。ね?」

尋ねられた内容になんて答えればいいのかとなるべく余計なことを省いて肯定すれば、五条がそれを補った。それにこくりと頷いて同調する。五条の話を聞くや否や、女性は興奮気味に「そらええわァ!」と声を上げた。

「その紹介してくれたお友達さんわかってはるわぁ。そういうんやったらここはおすすめ。うちの息子もちょーっとお嫁さんとうまくいかんかったときに来とったんよぉ」
「へぇ、そうなんですか」
「そうそう。やっぱり掃除すると気分ええしねぇ。じっくり話せる時間もあるから丁度ええんやろうね」

ざわざわをそこかしこから雑談が聞こえてくる。ボランティア終わりの交流の時間というか、恐らくこれは新しい信者を取り込むための時間のようにも思える。この女性と話していればそんな話になっていくかもしれない、と希望を感じながらいくつか話が続き、五分ほど他愛もない話をしたところで彼女は切り出した。

「そや、あなたたちこのあと時間あるんかしら?」
「せっかくだから観光していこうかなって思ってるんですけど、具体的にはまだ」
「やったら今日午後から交流会あるんよ。良かったら顔出さへん?地酒の飲み比べとか藍染体験とかやるんやわぁ」

──来た。これはその交流会であからさまな勧誘を受けることになるだろう。乗らない手はなく、五条が「へぇ、それは面白そうだなぁ」と興味を示すフリをして、するとトントン拍子に話が進んでいった。女性が上役みたいな男に声をかけに行って、快く参加を許可される。これは中々いいスタートではないだろうか。
時間まで海岸線を散策したいと申し出て、一度建物を出ると、清掃活動を行った浜辺を並んで歩く。傍目に見れば睦まじい恋人に見えるだろうか。

「結構上手くいったね」
「実感ないですけど…とりあえず午後の交流会に出れば一歩前進ですかね」
「いやぁ、テンプレ通りで助かるよ」

振り返ればあのプレハブのような建物が見える。今日ここで会った人間は誰もかれも普通で、まさか殺人の容疑がかかっている宗教団体の信者だとは思えなかった。いや、そもそもそういうものなのかもしれない。末端の人間は往々にして純粋で敬虔なものである。

「怖い?」
「…正直ピンと来てないですね。なんか全員普通に見えて…」
「そういうもんだよ。多分ここにいる人間はほぼ全員悪どいことなんて考えてない。純粋に信仰によって救われるって信じてる」
「じゃあやっぱり、事件の鍵を握ってるのは上層部…」
「だね」

ざざざん。波が砂浜に押し寄せ、そして引いていく。沖には小さく船の輪郭を見ることが出来た。殺人現場のことをつぶさに聞いたわけではないけれど、もしもこの光景の中にぽつんと遺体が浮かんでいるのを見たら内臓がすべてが奥底から冷やされることだろう。もしもその相手が自分の親しい相手だったら。

「ナマエちゃん?」
「ぁ……すみません…ぼーっとしてて」

五条がナマエの顔を覗き込んだ。彼の青い瞳の向こうにきらきらと美しい海が見える。風が吹いて潮の匂いが通り抜けた。想像していたより信者たちが普通の顔をしていることが逆に得体のしれない怖さを感じさせた。事件のこととこの調査への不安が頭の中をぐるぐると回っていて、しかしこの前五条に言ったばかりでまた同じようなことを言うのも憚られ、口を噤んだ。すると五条はお見通しとでも言うようにナマエの手を取る。

「えっ、ご、五条さん、手……」
「悟さんでしょ。婚約者なんだから、手ぐらい繋いでて普通」

五条の手は大きく、ナマエの手をまるっと包み込んでしまった。婚約者同士ならこんなのなんてことない。だけどそうじゃないから内心どうしようかと焦るんじゃないか。いや、そもそも演技なんだから焦るも何もない。五条だってきっとそのはずだろう。

「ナマエちゃんの手って小さくて柔らかいよね。ずっと触ってたくなるなぁ」
「…それ、今言うことですか?」
「ええ、いいじゃんせっかくなんだし」
「もう…人で遊ばないでくださいよ」

ナマエがチクチクと小言を言うと「本心なんだけどなぁ」と五条がへらへら相槌を打つ。まぁ彼のよくわからない軽口にまた救われてしまった。


午後から行われた交流会は小規模な地方のイベントのような風情だった。参加を勧めた女性の言う通り地酒の飲み比べ、藍染体験、それからブーランジェリーのパンの新作の試食会、犬を連れてきている人間が数人いて、ドッグランのような囲われた場所で遊ばせている。なんともまぁ穏やかな時間を過ごすことになった。

「おお、兄ちゃんたち今日どうやった?」
「あ、えっと、楽しませて貰ってます」

ドッグランの近くで犬を見ながら談笑していたとき、不意に老年の男が声をかけてきた。交流会の間観察していたところによると、恐らくこの会の中でそこそこの重要人物であると思われる。流石に一般人を気軽に呼ぶような場所に幹部のような人間はいないだろうから、核心に近づけるというほどではないだろうが。

「紹介やってなぁ。連絡もらってん。あの子ォら海岸清掃のボランティアで出会うてんで。やっぱり海っちゅうんはパワーみたいなもんあんねやろなぁ」

うんうんと大げさに頷きながらそう言った。「あの子ら」というのは友人夫婦のことだろう。出会い方を聞いていなかったが、まさかそもそもここで出会っていたとは。信者同士で結婚をさせて生まれた子供に自動的に入信させる。宗教団体の常套手段である。

「そうだったんですね、こんなにゆっくりした時間過ごすの久しぶりで、なんだかすごくリフレッシュ出来ました」

ナマエはにこにことそう言って見せながら隣の五条を見上げる。彼も「ね」とナマエの言葉に同調した。

「なんやお嬢ちゃん悩みとかあるんか?」
「えっと、その…」
「彼女、ちょっと職場で上手くいってなくて。僕らが口論になったのもそのあたりのすれ違いって言うか……なんか、悪縁というか…お祓い、とか行った方がいいのかなぁって話しているくらいで」

口ごもってしまったナマエに五条が助け舟を出す。あえて絶妙に単語を区切って発しただろう「お祓い」という言葉に男がぴくりと反応する。それから男はただでさえ愛想よく笑っていた顔にもっと人のいい笑みを追加した。

「それやったら、早朝会来てみたらええかもしれんわ」
「早朝会?」
「ここよりもうちょい南の教会でやってんねんけどな、禊みたいなもんやねん。悪縁とか悪い気とか、そういうのすっきり取ってくれるんやわ」

来た、と思って、反射的に顔に出そうになってしまったのをなんとか抑える。探偵だなんて突拍子もない職業はバレないだろうが、何かの潜入取材か、そうでなくとも冷やかしと思われて道を断たれるのは避けたい。

「ええっと…早朝会?っていつやってらっしゃるんですか?」
「月に一回日曜の朝で…次は丁度来週やで」
「ごっ……悟さん、どうしよう」

五条さんと呼びそうになって寸でのところで訂正する。ちらりと見上げて意見を乞うように五条の出方を待った。とはいえこれは千載一遇のチャンスなのだから、きっと彼は逃すなんてことはしないだろうが。

「来週の土日なら僕も用事ないよ。せっかくだし、一度参加させてもらおうか」

五条はナマエにそう言ったあと、男に視線を向けて「急に参加とか出来るものなんですか?」と前向きな姿勢を見せる。すると男は「ええよええよ、是非来てや」と快諾した。そんもまま男がスマホを取り出してどこかに電話をかけて、二人の参加が正式に承諾される。これはかなり大きな一歩だ。


内心ピリついたままの交流会を終えた五条とナマエは、新幹線で一度東京に戻ることになった。一週間も京都で油を売っていても仕方ないし、事務所に戻って気兼ねなく状況を整理したい。人目があるところでは設定上五条をずっと「悟さん」と呼ばなければいけないし、ため口をきき続けるというのも地味に気を遣ってしまう。事務所の応接ソファに座ってぐったりと項垂れる。

「はぁ……一日中緊張してました…」
「あはは、まぁ敵の腹の中だからね」
「…五条さんは随分お元気そうで…」
「まぁあのくらいの腹の探り合いはよくあることだから」

ナマエは五条の返答にがっくりと肩を落とした。こちとら腹の探り合いなんて会社のお局さんのご機嫌伺いのようなものが関の山で、殺人の容疑がかかっているカルトの信者と腹の探り合いをするなんて想像さえしたことがなかった。

「ていうかナマエちゃん、呼び方」
「え?」
「ほら、悟さんって呼んでくれないの?」

五条が自分の膝に頬杖をついてにこにことナマエにそう言った。何を言っているんだ。騙す相手がいないのに演技をする奴があるか。それにその呼び方は緊張するからなるべく使いたくない。

「嫌ですよ…なんで事務所でまで…」
「ええぇ、ナマエちゃん冷たぁい」

五条があからさまなウソ泣きをした。ナマエちゃんってば最近辛辣じゃない?と付け足されたが、突拍子もない彼の調子に付き合っていれば自然とこうもなってくる。



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