人魚墜落 02


七海と灰原が事務所を出ていき、五条とナマエも早速出準備に取り掛かる。まず何はなくとも依頼の内容だが、今回も恐らく妙なことに巻き込まれることは間違いないようだ。

「五条さん、今回の依頼内容ってなんですか?」
「んっとねー、ああ、このファイルだね」

五条がキャビネットのひとつの前に立ち、ファイルを取り出した。テーブルに広げ、ナマエを手招きで呼ぶ。そこにはいつも通り依頼者の情報と依頼の内容が書かれた書類と契約書が挟まれていて、ナマエはそれを覗き込んだ。

「これがウエハラシンジさんの依頼内容。真海伝道会の実態を暴いてほしい」
「真海、伝道会…」

書かれた文字を見つめる。これが七海たちの言っていた殺人の容疑がかかっているという宗教団体か。そういう宗教団体が絡んだような問題は今まで耳にしたことはあるけれど、間近に感じたことはない。いや、ちょっと待て。

「そう。ここね、京都に本部を置いてる団体で、七海も言ってた通り20年は前から存在はしてるんだ。で、急成長とともにヤバい噂が立ってるの」
「あの、私この団体知ってます」

ナマエの返答に五条は「そうなの?」と意外そうな様子だった。その反応を見る限り、誰でも彼でも知っているような規模の団体というわけではないのだろう。しかしナマエは確かにその字面に覚えがあった。友人の友人が結婚したという男の信仰しているという宗教の名前に間違いない。

「私の知人がここの信者の人と結婚したんです」
「うわぁ、それはなんというか、ご愁傷様?」

明らかに言葉選びを間違えているとしか思えないが、概ね同意である。話を聞いている段階でかなりきな臭い団体であったのは間違いない。もっとも、口を出せるほどの距離感ではない友人なので如何ともしがたいが。ナマエはスマホを取り出し、先日送られてきた結婚報告のメッセージを五条に見せる。

「ふぅん、連絡取るほどの間柄なのか……」
「友人の友人って感じですね。一対一の交流はないかなっていうくらいの」

五条はスマホの画面を見ながらなにやらふむふむと思案する。このやり取りから何かヒントが読み取れるとは思えないが。数秒そうして画面を見つめ、サングラスから青い瞳を覗かせて笑った。嫌な予感しかしない。

「じゃあ、連絡取っちゃおっか」
「え?」
「こういう団体の人って興味示したらすーぐカフェとかで詳しいお話してくれるからさぁ。ちょっと最近悩んでて…って感じで切り出せば向こうから接触してくるよ」

いつもの調子で言われた言葉を頭の中で噛み砕く。つまりなんだ。この友人を伝手にして情報を得ようという腹だろうか。ぶっちゃけた話、そういう話を持ちかけることを心苦しく思うような間柄ではないが、怪しげな宗教団体に直に接触しようというのは流石に恐ろしい。

「そこから取り入って話を聞こうっていう…?」
「惜しい。そこから取り入って団体に潜入しようっていう話」
「…まじですか…」
「大丈夫、僕も一緒に行くからさ」

さすがと言うべきか、五条はナマエの想像の上を行った。五条の大丈夫という言葉の信憑性を疑っているわけではないけれど、さすがにとんでもない提案でがっくりと肩を落とした。しかし彼が言うことならば信じて進むしかない。ナマエは言われるがままその友人にさっそく連絡を試みたのだった。


友人には「結婚生活どう?」というところから話を切り出し、仕事がうまくいっていない、なんていう常套句から悩んでいるように匂わせた。往々にしてああいう活動をしている人間は弱った人間の心に敏感になっているものだ。「私でよければ話聞くよ!」と向こうから言ってきて、早速土曜日にカフェで待ち合わせをすることになった。もっとも、彼女本人には力になってあげたいという純粋な厚意しかないのかもしれないが。

「ナマエちゃん、じゃあ打ち合わせのとおりね?」
「はい…っていうか五条さんまで一緒に行く必要はないんじゃ…」
「ほら、五条さんじゃなくて?」
「さ、悟さん…」

問題は、そのカフェに五条も一緒に行くという話になったことだ。単純なナマエの安全のためではなく、そもそも五条も同席していっぺんに潜り込もうという話だった。五条とナマエは結婚を考えている間柄という設定だ。最近仕事からくる考え方の違いが露見してしまい、二の足を踏んでしまっていることをなんとなく友人には仄めかした。

「久しぶり」
「ナマエ!久しぶり!」
「ごめんね、急に来てもらって…」
「いいのいいの!丁度話したかったしさ!」

カフェに向かうと、友人は既に待ち構えていた。記憶の中より随分明るくなっているように感じる。しかも隣には彼女だけでなく彼女の夫のオマケ付きだった。これは確実に真海伝道会の話をされるに違いない。四人でモダモダと自己紹介をして、四人掛けに向かい合って座ると、飲み物を頼むのもそこそこに友人がソワソワと本題を切り出した。

「ねぇ、五条さんとはどんなふうに話し合ってるの?」
「ごじょ……悟さんには仕事を続けさせてほしいってお願いしてるんだけど…」
「だから、結婚後も仕事すること自体は反対してないって言ってるでしょ。あの会社は辞めてって言ってるだけ」
「でもうちの部署人員不足で辞められないよ」
「そう言って前倒れただろ?」

事前に打ち合わせた茶番を展開する。そこまで細かくは決めていないが、なるべく上手くいくかいかないかの瀬戸際を演出するのがいいというのが五条の指示だった。わざと友人を放っておいて、言い争いにはならない程度の主張の違いを続ける。

「しかも産休に入る人のフォローまであるんでしょ?大事だけど、それで自分が身体壊してるようじゃ意味ないって」
「でも……」

もごもごと言い訳を続けていると、友人がにっこり笑って「本当に仲がよろしいんですね」と言い、そのまま続ける。

「話の中でもお互いを思いやる優しさが見えます」
「そう言っていただけるのは嬉しいんですけどね…彼女って頑張り屋なところがいいところですけど、その分自分を省みないところがあるし…それに結婚前からこんなふうに揉めちゃって、上手くいくのか不安がってしまってまして…」

すかさず上手く言葉を返したのは五条だ。ナマエは彼のプランを邪魔しないように隣で黙って話の成り行きを見守る。友人のほうがまた何かを言ってくるかと思いきや、口を開いたのはその夫の方だった。

「それなら一度お二人で一緒に海岸清掃のボランティアなんていかがですか?」
「ボランティアですか?」
「ええ、京都の田舎なんですけどね。私の先生が主催してる会でして、清掃で海岸も綺麗になってすっきりするし、それに自然に接することでリフレッシュ出来るっていう方結構みえるんですよ。良ければ観光ついでにどうですか?」

来た。これはもちろん単純なボランティアの話ではない。それをきっかけに宗教活動に勧誘しようという話である。だから勿論乗らない手はない。しかし一度勿体ぶるように五条が「京都かぁ…仕事の都合つくかなぁ」と答える。

「お互いのためにも一度ゆっくり時間を取られた方がいいですよ。お恥ずかしながら、私と妻も上手くいかない時期がありまして、そんなとき一緒にボランティアに参加したんです。ただの旅行よりも一定のスケジュールが組まれるかたちになるので、行き先を決めることで揉めてしまうなんてこともなくて」

夫はまことしやかにそう言った。台詞のひとつひとつには説得力があって、心底悩んでいる人間が聞けばひとつの解決の糸口として縋りたくなるようなものだった。こういう世界の入口はごく身近にあり、本人も気付かぬうちに足を踏み入れてしまっているものなのだ。

「じゃあ、行ってみようか。ナマエ」

五条が隣に座るナマエを覗き込むようにしてそう言った。心臓がどきっと鳴る。いや、これは演技だ。わかっているのに、五条に呼び捨てにされて、しかもいつも以上に距離を詰めて覗き込まれると顔に熱が集まっていくのを止められない。ナマエがこくんと頷いたのを確認すると、五条は目の前の二人に視線を戻した。

「そのボランティアっていつやってるんですか?」
「第一と第三の土曜日です。なので、一番直近だと来週ですね」

夫の方がにっこりひとのいい笑みを浮かべる。かくして想像よりも簡単に宗教団体との接触の機会を得ることが出来た。ここからどういうふうに「実態」とやらに近づくのか。それは五条に意見を伺いたいところだが、今回は作戦内容をしっかり教えてもらえるのだろうか。


それから二人は埼玉に向かい、依頼人の遺族と面会をした。五条の顔見知りである七海が事件の関係で接触しているから探偵事務所のことは知っているだろうが、正式に依頼の遂行に入ることを報告するためだ。依頼人には妻と子供がいて、妻は依頼の内容を正確に知っているわけではないようだったが、薄々把握しているようではあった。

「夫の最後の望みを、どうかよろしくお願いします」

依頼人の妻は五条とナマエに気丈な様子で頭を下げた。ウエハラ氏が亡くなったのは二か月前、遺体が発見されたのは東京湾で、死因は溺死だった。湾岸を流れているところを発見されたが、司法解剖の結果、肺から検出されたのは海水ではなく淡水であり、殺害後、何者かによって海に流されたのではないかという疑惑が高まった。
そして問題なのは、同様の他殺体と思しき遺体が過去4年間に少なくとも6件発見されていることだ。海に遺棄したとなれば、遺体の発見が難しい場合もある。実際の件数は6件ばかりじゃないだろうし、同一犯の可能性が疑われる。

「…奥さん、落ち着いてましたね…」
「そうだね。宗教団体のトラブルの件は事前に話してたんじゃない?」

遺族の自宅から移動するバスの中、ナマエはなんとも言えない気持ちを抱えていた。今までの依頼は自分の先輩社員であったニシカワの件を覗いて、すべてが高齢の依頼人の案件であり、今回ほど若い依頼人の案件に接するのは初めての事だった。どれも平等にひとりの人間の死であることは変わらないが、働き盛りの人間が突然他者の暴力によって死んでしまうだなんて、考えるなという方が無理な話だ。

「……ナマエちゃん?」

黙りこくってしまったナマエを気遣うように五条が名前を呼ぶ。そんなに長い時間黙っていたつもりはないが、心配をかけてしまったのか。ナマエはぐるぐる回る気持ちをどう言語化しようかと少し考えて、数秒の後に口を開く。

「…人の死に触れる仕事のはずなのに、今まで具体的には考えたことなかったんだなって…なんか自分の至らなさを痛感したというか…」
「ああ、そういう」

五条はふいっと窓に視線を向ける。何を考えているんだろう。付き合いが短いからとかではなくて、五条の考えていることなんてずっとわからないのではないかと思う。バス停に停車して、それから一分も経たないうちにまたバスが発車する。この話は先ほどの場所で終わったのかと思いきや、しばらくしてから口を開いた。

「僕らの仕事は確かに人の死に触れる仕事だけど、僕は死というよりも、生のことを考えてるよ」
「どういう、ことですか…?」
「この仕事はそもそも遺言から始まるから、もちろん依頼にうつるときには必ず依頼人は亡くなってる。だけど自分が死んだ後の世界のために遺した言葉にはさ、生きてる時の言葉よりも生を感じると思わない?」

五条の世界は少し変わっている。彼の言葉の端々にそういうものを時おり感じた。こんな変わった仕事をしているからだろうか。夏油によれば彼には本業としての会社があるらしいが、腰かけとはいえこんな仕事をしているのは変わり者の証拠のように思える。

「……五条さんって、なんか不思議ですよね」
「そ?まぁ、ミステリアスな男って魅力的でしょ」
「そういうのとは違う気がしますけど…」
「えぇぇ、そこはうっかりキュンとしちゃってよ」

五条がいつも通りの調子で笑うから、なんとか自分の重くなった気持ちを整理する余裕が出来そうだ。自分たちの仕事は生前の依頼を依頼人の死後、遺言をもって遂行すること。依頼人の最後の言葉を聞き届けること。
明日はいよいよ京都に向かう。真海伝道会とついにご対面だ。



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