人魚墜落 01


※事前に諸注意と設定の第四章部分をご確認の上お進みください。

雑居ビルの三階。大して不便もないこの部屋で唯一の不満を言うとしたら、エアコンの効きづらさだろうか。住居というよりもテナントを入れる前提で設計されているだろうビルは、通常のアパートに比べてやや断熱性に劣る。

「まぁ、設定温度下げればいいだけなんだけど…」

夏が本格化してきた7月。エアコンの設定温度をいままで暮らしてきたアパートよりは数度下げ、この雑居ビルの造りに対応する。
光熱費が多少かかるといえばかかるけれど、家賃不要なのだからそれくらいは大した負担じゃなかった。職場が真下にあるという不思議さはあるものの、自分しか働いていないのだから他の従業員とすれ違うということもない。駅も近いしスーパーもドラッグストアも徒歩圏内にある。つまり探偵事務所上階のこの社宅は、非常に暮らしやすいナマエの城だった。

「ん?」

届いた郵便物を確認していると、真っ白な封筒が混ざっていた。差出人の名前に覚えがない。誤配達だろうか、と少し考えて、それが結婚式の招待状であることに気が付いた。例の友人の友人のような存在の、なんとか伝道会という宗教をやっている男と結婚をするという彼女だ。
間柄的にはいかないこともないような距離感だけども、そのなんとか伝道会とやらと絶対に関わり合いを持ちたくないから、ここはもう欠席の返事をするのが無難だろう。下手したら新郎側は全員なんとか伝道会の信者である可能性さえある。白い封筒を少々雑にテーブルの上に放り、ごろんラグの上に横になる。室内照明が目に入ったところで、昨日の夜のことを思い出した。

「あ、やば。廊下の電球切れたんだった」

一昨日からちかちかと今にも切れそうな様子だった電球が昨晩ついにお亡くなりになったのだ。気が付いたのだからこのまま買いに行かないと一生腰が重くなりそうだ。よっこいしょ、と立ち上がると、ナマエは財布とスマホだけが入る小さなショルダーバッグを引っ掛けて商店街の電気屋に繰り出した。
この街に引っ越してきて数ヶ月。生活必需品の揃う店や美味いパン屋まで、そこそこに開拓が進んでいると思う。仕事の方はと言うと、ソメイ家の以降新規の契約が三件、依頼の遂行が二件。その二件というのも手紙を初恋の人に届けてほしいというのと、自分の所有する本を行政に寄付してほしいというもので、事件まがいの異様な事態に巻き込まれることはなかった。

「ついでにパン屋さん寄って行こ」

電気屋で目的の電球を購入し、少し足を伸ばしてパン屋に寄った。小さいパン屋だが、特に総菜パンが美味しいのだ。今日のランチはパンにしよう。うきうきとパン屋のドアをくぐり、美味しそうだけど見たことないな、というものをいくつか購入した。

「あ、そうだ。脚立……」

さて自宅に戻ろう、というところで、はたと気が付いた。脚立がないと確実に届かないが、ナマエの家には脚立がない。今まではと言うと、前職の社宅時代倉庫から脚立を借りることが出来ていたのだ。他に踏み台に出来そうな物もないが、電球交換のためだけに電車に乗ってホームセンターまで脚立を買いに行くのは少し面倒だ。手にはパンも持っている。
と、そこまで考えたところで、探偵事務所の備品のなかに三段ほどの小さな脚立があったことを思い出す。自宅の下だし、電球交換するだけだし、貸してもらうことは出来ないだろうか。

「五条さんはー……っと」

スマホを取り出してメッセージアプリで五条を探す。上から二番目にあるその名前のところを開いて脚立を借りたい旨を連絡すれば、雑居ビルに戻る頃には「勝手に使っていいのに」と末尾に「笑」をつけて返信があった。よし、これで脚立問題は解決だ。雑居ビルの階段をとんとんとんと昇れば、探偵事務所の前に二人分の人影があった。今日は定休日だが、依頼人だろうか。

「あのー、今日定休日なんですけど、なにかご用事でしたか?」

流石に真上に暮らす従業員として素通りは出来ず、そう声をかける。二人は五条に勝るとも劣らない長身で、片方は日本人離れした金髪に緑色の目をしている。二人は一度顔を見合わせ、黒髪のほうの男がにっこりと笑って応えた。

「えっと、五条さんに用事があって」
「依頼の方、ですか?
「いや、僕ら警察で」

警察、の二文字が明朝体で頭の中に浮かんだ。一体何をしたんだ。まさかソメイ家の庭から出てきた頭骨のことでここへきたのか。事情聴取、家宅捜索、捜査令状。不穏な漢字が次々に脳裏に過ぎった。

「灰原、言い方が悪いですよ」
「え?」

金髪の方が黒髪にそう言ったが、動揺しきったナマエの耳には全然入ってこなかった。この場合はとりあえず休日だろうがなんだろうが五条に連絡をすべきだろう。目の前の二人に「い、今連絡しますので……!」と断って、驚くべき速さでスマホを操作すると、すぐに五条へと電話をかける。

「も、もしもし五条さん、お疲れ様です」
『おつかれサマンサー。どしたの?脚立なかった?』
「あの、違うんです。いま事務所に来たんですけど、警察の方がみえてて……五条さんを訪ねていらしたみたいで…」
『警察ぅ?いま電話代われる?』
「わかりました」

五条が無事通話に応じ、警察に電話を代わるように指示を受ける。「代わっていただいていいですか?」と警察に言えば、金髪の男の方がナマエのスマホを受け取った。

「お疲れ様です、七海です。いえ、今日はそういうわけでは……少し厄介なことを耳にしまして。…え?いや、休日に出てきていただくことでは…はぁ……そうですか」

金髪の男は五条と知った仲のようだった。脳裏を過ぎった不穏な文字の数々がすうっと薄れていく。そこからいくつか言葉を交わし、金髪の男が「ありがとうございました」と言ってスマホをナマエに返した。通話はまだ繋がっているようで、もう一度耳にそれをあてる。

『ナマエちゃん、今からそっち行くから、その二人事務所に通しといて。ああ、僕の知り合いだから安心して』
「はい、わかりました」

それじゃあね、と言って五条の通話が切れる。オフィスカジュアルもくそもない私服だが緊急事態なのだから仕方がない。事務所の鍵を開け、中に二人を通した。

「お休みのところすみません。私は捜査一課の七海と申します」
「同じく捜査一課の灰原です!驚かせてごめんね!」

七海と灰原と名乗った二人はポケットから警察手帳を取り出して見せる。実物をこんなに間近で見るのは初めてかもしれない。

「助手のミョウジです。こちらにおかけください」

ナマエはそう名乗ったあと二人にソファを勧める。それから給湯室でミルクと砂糖を添えたコーヒーを二人分用意して応接テーブルに戻れば、ナマエがコーヒーを持ってきたのを見て「すみません」と会釈をした。

「お二人ともコーヒー飲めますか?」
「うん、飲めるよ!」
「良かったです。あの、砂糖とミルク足りなかったら言って下さいね」

正面で座って待つのも気まずいし、適当に奥に入って待っていようか、と立ち上がったところで、ぐぅぅぅ、とお手本のような腹の虫が鳴った。どうやら音の出所は灰原のようで、恥ずかしがるでもなく「鳴っちゃった!」とあっけらかんと笑った。

「灰原………」
「だって昼食べ損ねたじゃん。鳴っちゃうのくらい許してよ」

七海が諫め、灰原がこれまた気にした様子もなくそう返す。昼を食べ損ねたのか。まだ五条が来るまでにはそこそこ時間がかかるだろう。そうだ。

「あの、パンで良かったら食べます?さっき商店街のパン屋さんで買ってきたやつなんですけど…」
「え、いいの!?いただきます!七海もごちそうになるよね?」

七海が遠慮をしようとしたが、灰原がもう一度「ね?」と語尾だけを繰り返せば、二秒ほどのタイムラグのあとに「いただきます」と返ってきた。給湯室にまた戻り、買ってきたばかりの紙袋の中から総菜パンをふたつ取り出す。フランスパンで出来たサンドイッチみたいなこのパンの種類はなんと言うんだったか。

「お待たせしました。どうぞ」

総菜パンを乗せた皿を配膳すると、先に声を出したのは灰原ではなく七海の方だった。

「これは…カスクートですね?」
「え?」
「ひょっとしてパン屋というのは商店街の西にあるところですか?」
「あ、ハイ」

先ほどまでからは想像もつかないほどのハキハキとした口調で心なしか目が輝いている気さえする。このパンってカスクートって言うんだなぁと、商品の札も見ずに買ったものだから彼に教わる形になった。どうやらこれは、彼の好物らしい。


カスクートをきっかけに、思いのほか他愛もない世間話が弾んだ。会話のきっかけはカスクートだったが、話が潤滑に広がっていったのは灰原のコミュニケーション能力の高さによるものだろうと思われる。そこから二十分ほど経過したところでようやく五条が到着して、ようやく本題が始まった。

「で、何かあった?」
「何もなければ終業時間外にこんなところに来ませんよ」
「はは、ひどい言いようだね」

五条の態度に七海は明らかにイラついた様子だ。対して灰原はにこにことした表情を崩さない。五条は本来の豆の味を全部台無しにするくらいの砂糖とミルクを入れたコーヒーを口に運んでいる。

「それで、警視庁捜査一課の敏腕刑事さんがこんな小さい探偵事務所になんの御用かな」
「嫌味な言い方ですね。だいたいアナタは──」
「ほらほら七海。いつまでも話進まなくなっちゃうよ?」

五条が煽り、七海がそれに突っかかり、灰原が軌道修正をする。なんとも言えない見事なコンビネーションでバランスがとられていた。七海がフーッと自身の感情をなだめるかのように息をつく。

「…現在我々はとある新興宗教団体を捜査しています。20年近く前に設立されたものですが…ここ数年でめきめきと規模を大きくしている」
「献金詐欺?それなら生活安全課か二課じゃないの?」
「そうはいかない事情があるんですよ」

話の腰を折ろうとする五条に七海はそのまま続ける。彼らはただの警察と探偵というよりはもっと近しい関係であるように思われた。

「事情?」
「はい。その団体に……殺人の疑いがかかっています」

殺人、と驚いて復唱しそうになって寸前のところでなんとか飲み込む。問題はどうして警察がわざわざ五条のところへ話を持ち込んだか、という一点だろう。七海は鞄からクリアファイルを取り出し、それをテーブルにおいて五条の前に差し出す。

「この写真の男性をご存じですね?」

クリアファイルには夫と妻と子供の三人が写った家族写真と手紙のコピーらしきものが入っている。いや、あれは手紙ではない。遺言状の写しだろう。ということは彼はこの事務所の顧客なのか。さすがに名前を聞いてファイルから資料を出さないと五条だって何か覚えているはずがない、と思ってキャビネットに向かうために足に少しだけ力を入れたが、ナマエが立ち上がる必要はないようだった。

「ウエハラシンジさん。埼玉県在住で都内の保険会社に勤める男性」
「その通りです。ウエハラさんが二か月前、変死体で発見されました。我々は以前から起きていた変死事件と何らかの可能性があるものとして捜査しています。その捜査の中で、ウエハラさんの自宅から遺書が見つかりました」

クリアファイルから遺言状のコピーを抜き取る。そこには確かに「私が死んだら五条探偵事務所に知らせてほしい。それが私の最後の遺志だ」と書かれていた。

「なるほど。うちの依頼とそっちの事件に関りがあると」
「確証はありません。しかし、ウエハラさんの依頼内容が解決の糸口になる可能性があると私は考えています」
「だけどうちへの依頼は二年前だよ?最近ってわけじゃないけど」
「それでも重要な手掛かりになり得ます」

七海が今度は「我々」という言葉を使わず「私」という言葉を使った。あくまでここに来たのは彼の独断の範疇ということだろうか。それにしても、先ほど五条は二年前と言った。にもかかわらず依頼人の名前や所在、職業までを暗記しているようだった。普段飄々とした態度に隠れがちであるが、彼は恐ろしく頭がいい。

「わかった。ただし条件がある」
「……なんですか?」
「依頼に関して、こなすのはあくまで僕たち。報告も協力もするけど、これは僕らの仕事だ」

五条が甘ったるいコーヒーを最後まで飲み干し、カップをテーブルに置く動作とともにそう言った。七海は二秒ほど黙ったあと「わかりました」と五条の申し出を認める。
五条が口角をあげ、それからぐりんとナマエのほうに視線を向けて口を開いた。

「さ、ナマエちゃん。楽しい楽しい京都旅行に出発しようか」
「え!?」

唐突に提示された出張にナマエはぐるぐると脳みそを回転させる。現場が京都なのは間違いがなさそうだが、その前にキャビネットの中の資料を確認させてほしい。



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