詛盟の桜 09


それは所有者であるサクラコの親に許可を取らなければどうにもならないという話だったはずなのに、全くわけのわからない展開に目を白黒させるナマエに向かい、夏油が教師然とした様子で説明を始める。

「ハナさんの調べた限り、呪いとか生贄とかっていうのは原因不明の災いの時期と一致する。桜を切ってしまったら、呪いを信じるひとはどう思う?」
「えっと…災いが、起こるって考えますかね…」
「その通り。荒療治だけど、呪いの象徴である桜そのものを取り去ってしまって、それでも災いなんて起こらない、呪いは存在しないと強行手段で知らしめるのがいいんじゃないかな。暗示を打ち破るにはやっぱり強い衝撃が一番だよ」

いや、理屈は理解するが、だから持ち主の許可はどうするんだ。夏油は初めてソメイ家に行ったときのことを忘れたのか。

「だから持ち主に許可取れないのにどうするのかって話だけど、まぁつまり、本気で切らなければいいのさ」

少々失礼な脳内を読み取られてしまったような気になって気まずい。本気で切らなければ良い、というのはどういうことだろう。五条はその細かな説明がなくてもわかっているようだけれど、ナマエにそれがわかるはずもない。

「母親の前で桜の木を切るパフォーマンスをする。サクラコちゃんにはフリだってことは言わずに、その場で切り倒す勢いでね」
「そんなことして大丈夫ですか?」
「正確に言えば脅迫罪とか住居侵入罪とか罪に問われる可能性はあるんだけれど」
「まぁ警察沙汰にはならないよ。ていうか、住居侵入罪はサクラコさんが招き入れてるていなんだから成立厳しくない?」

夏油の答えを五条が後押しする。警察沙汰にならない根拠は他にもいくつかあるようだが、この場では綺麗に割愛された。

「ついでに、サクラコちゃんの父親を同じ日に呼び出せる」
「え、台湾に単身赴任中っていう…?」
「そう。父親の方は話が通じそうだし…こっちはノートと手紙で御せるんじゃないか?」
「確かに…ハナさんとの関係も良好だったって言ってましたもんね…」
「サクラコちゃんによれば、三日後、母親のパートが早く終わる日らしいよ。時間調整して、ひと芝居といこうじゃないか」

夏油がスマホの画面を見せる。そこには彼のいう通り、サクラコから母のパートのスケジュールに関してのやりとりがされている。そうか、スマホばっかり見てるなと思ったが、サクラコと連絡を取っていたらしい。

「道具はどうするんです?」
「チェーンソーあれば脅しには充分でしょ。今から伊地知に持ってこさせるよ」
「えっ」

今から持ってこさせるってまた人使いの荒いことだ。というか、チェーンソーなんて常備しているものじゃないだろう。今からホームセンターで調達させるつもりだろうか。相変わらず私設秘書という立ち位置がどんなものなのか、全く理解できない。


当日、母親の帰宅するらしい時間の少し前に待ち合わせ、夏油の運転でソメイ家に向かった。手紙の内容は五条の解読を夏油が清書し、事前にサクラコに送ってある。呪いの桜の思いもよらない始まりに彼女もかなり驚いているようだった。

「じゃあ、やっぱりこの桜は呪いの桜でもなんでもなかった…ってことですよね…」
「さぁ。呪いがこの世に存在しないって証明できないって意味では断言できない。ただ少なくとも、災いを理由に生贄を捧げた時期に関して、現実の疫病や災害とほぼ合致しているっていうのは事実。つまり、その生贄とやらに意味はないだろうということ」

五条がまた正直すぎる物言いでそう言った。確かに、見えないものを存在しないと断じることは出来ないのだから正しい回答ではあるが、こういう場合の人を安心させる言い回しとしては0点だと思う。

「悟、言い方が悪い。ごめんねサクラコちゃん。それで、君のお母さんはいま強い暗示の下にあると思う。それを解くための手段のひとつとして、吉野様を、切る」

夏油が五条に軽く注意をして、そのままサクラコにこれからのことを簡潔に説明した。サクラコが案の定「でも許可とか……」と口にして、しかし最後まで言い切ることなく一度唇を閉じる。それから三度まばたきをして、瞳を硬質にした。

「……私が切ります。私は娘ですし、その、探偵さんたちに切っていただくより問題が小さく済みますよね」

サクラコの申し出に驚いて声を出しそうになって、寸でのところで堪える。今は話の腰を折っている場合じゃない。五条がサクラコの言葉を「そうだね」と肯定する。

「まったく問題がないわけじゃないけど、もちろん他人の僕らが手を出すのとは雲泥の差がある」

それはそうだ。吉野様は決してサクラコの持ち物ではないが他人が傷つけるのと持ち主の娘が傷つけるのでは話が大きく違う。厳密には器物損壊罪も適応される話だけれど、現実問題娘に対してそこまでの追求をすることはないだろう。

「だけどいいの?その桜は君たちにとって、150年間の思いの籠ったご神木だよ」
「150年間思いの詰まったご神木だから、です。」

風が吹く。桜の花はすっかり散ってしまって、その寂しさを埋め尽くすように瑞々しい新緑がこぞって顔を出す。サクラコはその風をすべて吸いつくしてしまうかのように大きく深呼吸をした。

「ヨシノさんを弔ってあげるのは大事なことだと思いますし、それ自体にはもちろん賛成です。でも、そのために誰かを犠牲にするなんて間違ってる」

彼女の声には震えも迷いも感じられない。初めて顔を合わせたときの不審な挙動からは想像も出来ないほどの明確な意志がそこにあった。五条は「そうこなくちゃ」と笑った。
ほどなくして、台湾に単身赴任をしているという父親がタクシーで到着した。

「あ、あの……娘から話は聞いたんですが…何が何やら……」
「混乱されるのも無理はありません。順を追ってご説明させていただきます」

すかさずそう言ったのは夏油だった。確かに五条より彼の方がある程度丁寧にこちらの意図を説明するのには向いているだろう。便宜上夏油も従業員という話にして、ことのあらましを説明していく。
故人、ソメイハナ氏の遺書をサクラコが見つけたこと。その遺書の中で生前探偵事務所に依頼をしていたと書かれていたこと。そして依頼の内容とそれについての調査の結果。かなりの情報量だが、夏油は順序だてて説明するのが得意なようで父親は冷静にその話を聞いていた。

「なるほど…そんなことが……」
「奥様のお心を正常に取り戻すには、ある程度のショック療法が不可欠と我々は考えています」

父親は「ショック療法…」と言葉尻だけを繰り返す。それから少し黙り、ゆっくりと口を開いた。

「お恥ずかしい話ですが、私はずっと、その吉野様の話から逃げていたんです」
「……と、おっしゃいますと?」
「初めて妻から桜の話を聞いたのは、サクラコが生まれてすぐのことでした。大切な桜である、という領域を飛び越えて、この桜はソメイ家の呪いの桜であり、蔑ろにすれば災いが降りかかると」

冗談か、そうでなければそういう昔話なのだと思ったが、そうではなかった。妻の話は詳らかであり、確信めいたものが現在進行形で渦巻いているということが嫌でも伝わってきた。しかし手元に証拠があるわけでもない。幼い自分の子を残して別居や離婚なんていうことも出来ず、呪いと妻に怯えながらこの家で過ごしてきた。

「義母から私にはっきりと吉野様のことを言われたことはありませんでしたが…やはりそうですか。あの人も、あの桜をどうにかしなければとこんなに……」
「ご覧の通り、生贄の捧げられた時期と疫病や災害の時期は殆ど一致しています。我々は調査の結果から、生贄と災いの回避は無関係であると、そう考えています」
「ええ、そうですね。私もそう思います。本当に妻が人殺しになる前に……私も協力させてください」

サクラコが小さな声で「お父さん…」と呟いた。父はサクラコの手首のあたりをぎゅっと握って励ます。

「確実な方法とは言えませんが、奥様は現在幼少期からの強力な暗示状態にあると言えます。我々が提案するショック療法は、吉野様を切ることです。狙いはふたつ……呪いの根源である吉野様にあえて傷をつけ、災いが降りかからないことを証明すること。それから物理的に吉野様と距離を取らせること。暗示を解くために衝撃をより強くする必要がありますので、奥様に木を切る瞬間を目撃していただきます」
「なるほど……ですがあれはヨシノさんの弔いの桜でしょう。呪い云々もありますが…切ってしまうのは…」
「ご安心ください。切ると言っても、切り倒すほどでなければ弊探偵事務所が責任を持って修繕致します」

夏油の言葉に父親はゆっくりと頷いた。とんでもない話を簡単にしてくれているが、切りかけの木の幹というものは修復出来るのか。
チェーンソーを持って桜を切る役はサクラコが担うことになった。親子が二人で話す隙を狙い、ナマエは夏油にこっそり尋ねる。

「あの、木の幹ってチェーンソーで派手に傷つけてなんとかなるもんなんですか…?」
「ああそれね。樹皮傷つけるあたりで止めるから大丈夫」

なるほど、そういう算段と言うわけか。木を切るつもりがないなら果たして先ほど父親に言っていた「物理的に距離を取らせる」というのはどうするつもりだろう。そのままそれを尋ねると「悟に考えがあるから大丈夫だよ」と返ってきた。五条はあんな大木を一体どうするつもりなのか。


もうすぐ母親の帰宅時間だ。五人は吉野様のそばに移動した。父親だけはあとから姿を現すように、身を物陰に隠す。夏油の手にはチェーンソーが握られていた。彼はチェーンソーブレーキをかけ、あちこちを確認してからそれを地面に置くと、サクラコに持ち方を教えていく。

「準備は終わってるから、ハンドル持って、機体を右ひざで押さえて……そう。それから右手でスターターを引いて」
「は、はい…」

恐らく初めてチェーンソーを触るだろうサクラコはおっかなびっくりハンドルを手にする。跪くような体勢をとり、夏油に言われた通りにスターターを引いた。ドドドドド、とエンジンが回る音がする。サクラコが両手でチェーンソーを持ち上げる。幹に回転するチェーンが触れ、表皮を削る。その時だった。

「サクラコ……!!なにやってるの…!!」

きんっと女性の声が響いた。時間通りだ。帰宅したサクラコの母親が大慌てで駆け寄ってきた。危ないと思ったナマエが動く前に夏油がサクラコの手からチェーンソーを取り上げた。エンジンが低速になり、アイドリング状態になったそれをストップスイッチを押して完全停止させる。

「あなたたちッ…この前の業者ね!?頼んでもないのにこんな勝手なことして!!どういうつもり!!」
「お母さん。違う。桜を切ろうとしてるのは私。私の意志で今からこの木を切るの」
「なに馬鹿なこと言ってるの!これはご神木!こんなことして吉野様の呪いがあんたに降りかかったら…!!」

怒りの矛先はもちろん五条たちに向けられたが、サクラコがそれを遮って自分に矛先を戻す。母親は青ざめ、幹についた傷を見て「ああああぁッ!!」と悲鳴を上げる。がちがちと歯が鳴る音がこちらにまで聞こえ、母親は肩で息をして目はこれでもかというほど見開かれていた。

「ああ、ああ、吉野様…吉野様……これでサクラコが呪われたら……!!」
「お母さん聞いて」
「ああ、だめよこんなの!傷が、傷が…!!吉野様、吉野様!!」
「吉野様に呪いなんかないんだよ!」
「あんたは何も知らないからそんなことを言うのよ!吉野様、吉野様…傷が、傷が…」

母親は錯乱状態で話など聞く耳も持たない。それでもサクラコは諦めずに話し続け、大きく一度深呼吸をすると、目一杯の声で叫ぶ。

「吉野様の呪い、私だって怖いよ。だってずっとこの家で吉野様の呪いのこと教えられてきたんだもん!災いなんて怖いに決まってる!でも!」

喉が引き裂かれそうな声はキンと高く響いて、しかし空気の中にすぐに溶け込んでいってしまった。ソメイ家にかつて訪れた災いたちが恐らく呪いなんかではないということ。それをいくら頭でわかっていても、この家で呪いを暗示されて生きていたサクラコにとってはそう易々と割り切れるものではないだろう。サクラコはそのまま続けた。

「…でも!怖いけど!誰かを犠牲にして災いを避けるくらいなら、私は自分が不幸になったほうが何倍もマシ!!」

罪のない誰かを自らの手で犠牲として捧げ、その上で訪れた平穏にどれほどの価値があるだろう。生贄の存在を知らなかったころとは違う。吉野様が呪いの桜ではなく弔いの桜であったと知る前とも違う。

「あんたを、あんたを守るために母さんは……ッ」
「目を覚ましてよ!お母さん!!」

母親がその場に膝をつき、サクラコもそのすぐそばに屈む。夏油が父親に視線を向け、それを合図にサクラコと母親に歩み寄る。声をかける前に母親が気付き「なんでここに…」と目を見開いて声をこぼした。

「話を聞いて戻ってきたんだ。これは……お義母さんの、最後の願いなんだよ」
「なにを、言ってるの…」
「遺言を残してたんだ。そめいの桜を殺してくれと……それは吉野様の呪いからこの家を守るってことだろう」
「守るなら尚更なんでこんな勝手なことッ!!」
「呪いはこの桜が引き起こすものじゃない。この家に生きる俺たちの心が生み出すものだよ」

彼は妻と娘にゆっくり歩み寄ると、同じようにして膝をついて目線を合わせる。それから妻の両手をぎゅっと強く握った。

「お義母さんはずっとひとりで戦ってたんだ。なぁ、この桜切ってそれで呪いが本当に降りかかるなら、俺が全部背負うから、もう生贄なんて恐ろしいものは終わりにしよう」

放心したような妻の目尻から涙がこぼれ落ちる。それは頬をつたい、吉野様の根元に染み込んだ。

「いままで君と吉野様に背を向け続けて、すまなかった」

ナマエは黙ったままことの成り行きを見つめている五条に視線を向けた。サングラスをしているくせに、どこか眩しそうだ。
風が吹く。柔らかな春のそれに、もう散ったはずの桜の花がもう一度見えるような気がした。



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