詛盟の桜 01


爽やかな朝だ。何だか禪院家で思いもよらない事態に巻き込まれたが、とりあえずこうして日常に戻ってきた。探偵事務所には早々依頼は舞い込んでこないので、少しくらいは息をつく暇もあるだろう。
いままで朝はコーヒーを入れることが多かったけれど、大概朝の時間に事務所で飲むようになって、家では逆に飲まなくなった。軽く朝食を済ませると、黒いスカートに白いシャツを着て、洗面台の前で前髪をちょいちょいと整える。特に制服があるわけではないが、事務所に詰めるときにはこれを自分で制服に決めていた。制服があると朝の服装に迷わなくていいから便利なものだ。
ヒールの低いパンプスに足を滑り込ませ、ドアを開けて部屋を出ると鍵を閉める。階段を一階分下に降りれば、もうそこが勤務地である。

「あれ……?」

木製の扉の前に今日は人影があった。長身の男で、全身黒づくめな上に髪をハーフアップに纏めていて、どうにも迫力がある。もちろん雇い主である五条でもその私設秘書の伊地知でもない。ひょっとして依頼人だろうか、と思いつつ、ナマエは「あの」と声をかける。男が振り返った。

「ああ、依頼人さんかな?ごめんね、五条探偵はいま不在にしてるみたいなんだ」
「え、あ、えっと……」
「多分もうすぐ来ると思うんだけど……」

涼し気な目元が特徴的な男で、顔のパーツは鋭利だが愛想が良いためか印象は柔らかく見える。依頼人さん、という言い回しからするに彼は依頼人ではなく、少なくとも五条を知っている男だということが伺えた。

「あの、私この探偵事務所の助手です」
「え、うそ。悟、助手の女の子雇ったの?」
「はい、一か月くらい前から…あの、五条さんをお待ちだったら中にどうぞ」

男は随分とびっくりしていて、恐らくナマエというよりはここにいない五条に向けた言葉のように思われたが、とりあえずそう相槌を打ち、鍵を開けて事務所の中に招き入れる。彼の読みの通り、五条はもうすぐ顔を出すだろう。たいてい五条は始業後5分から10分というなんとも注意しづらい短時間の遅刻を毎日している。

「こちらにおかけください。今コーヒーお淹れしますね」
「ありがとう」

男はむしろナマエよりも慣れた様子でソファに腰掛ける。給湯室で湯を沸かし、五条のこだわりで常備しているコーヒーをゆっくりと淹れていく。ちらりとソファに視線をやれば、男が上着のポケットから文庫本を取り出してペラペラとめくっていた。なんとも雰囲気のある男だ。
コーヒーを手に応接セットに戻り、「どうぞ」と彼の前にカップを配する。

「悪いね。あー、私は夏油傑。まぁ悟の悪友ってところだよ」
「ミョウジといいます。ひと月ほど前からここでご厄介になってます」
「ミョウジさん、下の名前は?」
「ナマエです」
「そっか、ナマエちゃんね」

男──夏油は文庫本を閉じるとカップを持ち上げてコーヒーをひとくちこくりと飲む。五条といいこの夏油といい、友達というわけでもないのにいきなり下の名前でちゃん付けで呼んでくるのはちょっと、いやかなり変わっていると思う。お互い子供同士などではなくて列記とした大人だ。
夏油はカップをテーブルに戻すと、自分の膝に頬杖をつくようにしてナマエを見上げる。切れ長の目は涼しげなのにどこか猛禽類を思わせる鋭さがあった。

「それにしても…悟がこんなに可愛らしい女の子を雇い入れたなんて知らなかったな」
「は、はぁ……」

そんなお世辞を言われてなんと対応しろというのか。ここが飲み会などであれば「ありがとうございますー」なんて調子のいいことを言っておけば差し支えないだろうが、生憎ここは居酒屋でもないし爽やかな朝にアルコールは入っていない。

「学生さん…って感じじゃないよね。こんなところに転職かい?」
「え、と、はい……依頼の関係で知り合う機会があって、路頭に迷う寸前のところを助けていただいたというか…」
「へぇ、そんなことがあったんだ。それにしても路頭に迷うなんて…苦労してるんだね」
「いやぁ…半分は自業自得で…」
「惜しいな。少しタイミングでも違えば私の方が先に出会えてたかもしれないのに」
「はぁ……」

探るような視線が温和なのにどこか熱い。夏油はくすりと笑って立ち上がると、一歩、一歩とナマエに歩み寄る。どうすればいいかわからなくて後ずさり、三歩目でとんっと壁に背中がついてしまった。
夏油が腕を伸ばして、頭上の少し右上に肘をつく。あ、これって壁ドンだなぁと考えることを放棄した脳みその端で考えた。夏油がナマエを覗きこむ。

「え、あの、こ、困りますっ…!」
「どうして?」
「ど、どうしてって…」

逆に困る要素しかない。夏油はそれでもどこか惹き付けるような色香を放ち、思わず身体が硬直して動かなくなった。「やめてください」とはっきり言わないと。そのときだった。

「すーぐーるー!!」

入口がバァンと勢いよく開いて、それと同時に五条の聞いたことのないくらいの大声が飛んでくる。よかった、五条さんだ。そう思って安堵する。夏油は壁についていた腕をぱっと引いて「おや、時間切れだ」と言いながら両方の手のひらを降参とでも言った風に開いた。

「嫌な予感したと思ったんだよ。ここで何してんの」
「別に、まだなにも」
「まだって……ちょっとは隠せっての」

五条はどこか慣れた様子で無遠慮に歩み寄ると、夏油の目の前からナマエを掻っ攫って自分の背中に隠した。五条の広い背中のおかげで夏油の姿が見えなくなる。

「ナマエちゃん、何にもされてない?」
「は、はい……」
「ごめんね、こいつ昔っから手が早くて」
「節操なしみたいな言い方しないでくれよ」
「節操なしだろ、実際」

やけに手慣れているように見えたが、実際手慣れていたらしい。知らない男の節操などあってもなくても構わないが、迷惑なところで発揮するのだけはやめていただきたい。五条の背中からひょこりと頭を出して夏油を見ると、悪びれもせずにニコニコ笑ってナマエに手を振ってきた。これはホンモノだな、と呆れ半分で顔を引っ込める。

「で、こんな朝早くからわざわざ事務所に何の用?」
「ああ、ちょっとね」

夏油はちらりとナマエを見て、五条が察したように「ナマエちゃんなら現場にも連れてってる」と言葉を添える。言葉がなくても意思の疎通が図れるのはそれなりに深い付き合いがあるということだろうか。

「じゃあいいか。ちょっと今日は依頼持ってきたんだよ」
「依頼ぃ?」

五条が訝しむように声を上げる。ここは探偵事務所ではあるが、普通の探偵事務所とはまるで勝手が違う。依頼は生前に受けた依頼を、その依頼人の死後、遺言をもって遂行する。いわば、遺言探偵という特殊な探偵である。

「お前の依頼なら受けねーけど」
「はは、私じゃないさ」
「じゃあ誰だよ」

五条の口調がいつもと違って少し荒っぽく、もっと言うとどこか幼く感じた。普段は軽薄な感じをさせつつも穏やかで優しい口調だけれど、男友達と話す時はこんな感じなのだろうか。知らない一面に形容し難い感情が心の隅に積もる。いや、会社の上司の知らない一面なんてあって当然だろう。何を特別あれこれと考えてしまっているのか。

「ソメイハナさん。この事務所に依頼、出してるだろ?」

夏油の言葉に五条はピクリと動きを止める。夏油はそれを見ると、ナマエの淹れたコーヒーが入ったままのカップの前に腰を下ろし、懐から一通の手紙を出してテーブルの上に乗せる。五条は夏油の向かいに座った。

「亡くなったんだよ。半年前。それで、お孫さんのサクラコさんが遺書を見つけて、それで五條探偵事務所への依頼をしていたことを知ったって」
「なんでそのお孫さんとお前が先に喋ってんの?」
「それはまぁ、なんていうか…ほら、男女の仲って一筋縄ではいかないものだろ?」
「おんまえさぁー」
「冗談冗談」

目の前のやりとりを五条の後ろに立って静観した。なんというか、似たもの同士というか類は友を呼ぶと言うか、嘘か本当かわからない冗談を妙なタイミングで言うところが非常によく似ていると思う。

「そのサクラコさんっていう子、私の担当の同級生らしいんだよ。最近様子がおかしいから話を聞いてほしいって言われてね。その時悟の名前が出てきたんだ」
「で、蓋を開けてみれば依頼人のお孫さんだったってわけ」
「そういうこと」

五条は差し出され手紙を受け取ると、封を切って中身に目を通す。20秒ほどで読み終えたのか、ナマエに右の鍵付きのキャビネットから「C」とラベリングされたファイルを取ってくるように指示する。
ナマエがそれを持って戻ると、今度はそのまま隣に座るようにポンポンと自分の右側を叩く。黙ってそれに従い、五条の次の言葉を待った。

「まぁそれは百歩譲ってわかるとして、そのサクラコさんの様子がおかしいって何?」
「依頼の内容そのものを遺書に書いてたらしいよ」
「……なるほどそういう…。で、傑はそれ見たの?」
「ああ。サクラコさんに見せてもらった」

五条はそこまで聞くと、ファイルをテーブルの上に寝かせて該当箇所を開いた。そこには「ソメイハナ」という依頼人の名前と契約書、それから依頼に必要な資料のようなものがいくつか納められている。
依頼内容の欄には簡潔に「そめいの桜を殺してほしい」と書かれていた。殺して欲しいだなんて、なんとも物騒な内容に度肝を抜かれた。

「あ、あの、五条さん…殺して欲しいって書いてますけど…その…」
「え?ああ、人間じゃないよ。それは流石に確認済み。いくらなんでもあからさまに非合法とわかってる依頼は受けられない」

いや、あからさまでなければ多少非合法な依頼でも受けるということか。そこにここで突っ込んでみせても仕方がないと、ナマエは「はぁ…」と返事を濁す。それではこの「殺す」の対象は人間以外、もしくは比喩表現ということになる。どちらにせよ物騒な響きに変わりはないが、孫が話を聞いて様子がおかしくなるほどというのも何かしっくりこない。

「そめいの桜っていうのはソメイハナさんの暮らしていた家にある木のことらしい。なーんか含みのある言い方してたからただの木かどうかはわかんないけど」
「え、本当かどうかわかんないって…そんなのでなんとかなるんですか!?」
「まぁそれぞれ事情があるもんだから」

事情って、と反論しようとして口を噤む。先日の禪院家の件だって、もっとわかりやすい言葉があったのにも関わらず名言は避け、わざわざ謎解きのような真似をさせられた。今回もまたあんな面倒な事態が待っていたらどうしよう。というか、この事務所の依頼は総じてそんなものばかりなんだろうか。

「じゃあナマエちゃん、早速依頼に取り掛かろっか」
「わ、私は留守番とかそういうわけには…」
「あはは、何のための助手だと思ってんの」
「ですよね…」

一縷の望みも水洗トイレが如くあっさりと流されてしまう。会社勤めをしていた時より高給をいただいているのだから文句を言えるはずもない。がっくり肩を落とすナマエを、夏油が愉快そうな面持ちで見つめていた。



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