星呑む子 08


こぉこぉと風が吹く音がそのまま聞こえる。森にいる小動物かなにかがかさこそと動き、そのたびに草木の擦れる音が届いた。
物心がついたときには、この小屋が世界のすべてだった。だからこの生活が異常なことも知らなかったし、同じような年頃の子供がどんな生活をしていたかなんて考えたこともなかった。

「まい!」
「…おねえちゃん…」
「ほら、菓子ふんだくってきてやったぞ。なんかどっかのおエラいさんが来て置いてったんだってさ」

食事は誰かがいつもこっそりと外に置いていた。それから双子の姉である真希が時おりこうして菓子を持ってきてくれて、それを二人で分け合った。自分が生まれてはいけない子供だったということは次第にわかっていったことだけれど、幼い子供にどうすることも出来なかった。

「本見つけたんだよ。まいもこれなら読めるだろ?」
「うーん……えっと、この漢字わからない…」
「それは海って読むんだよ」
「うみ…」

この小屋が世界のすべてなのだから、ほかのところがどんなふうなのかもちろん見たことがない。真希が屋敷にある本を持ち出してくれて、そこに載っている写真を眺めてはそこがどんなところなのかを想像した。

「こんなふうに閉じ込められてるの、ほんとはおかしいことなんだって」
「そうなの?」
「ああ、普通は学校に通って、外で勉強するんだって」

ある程度の年になると、真希からそんな話を聞かされるようになった。世の中の子供たちというものは7歳になる年から学校というところに通い、同じ年の子供が集められて教育を受けるらしい。軟禁されている真依はもちろん、そうでない真希も学校へは通ったことがなかった。この家の直系の女は、基本的に屋敷の中で教育を受ける決まりになっている。比べる相手がいないから、それがいいのか悪いのかもわからない。

「この家も男は学校行ったりもできるらしいぜ。ずるいよな」
「おねえちゃんは学校行きたいの?」
「行ってみてえよ。だってずっとこの屋敷の中だぜ?」

真希はそう言って口先を尖らせたが、特にその学校とやらに憧れはなかった。だってここには真希がいる。真希さえこうして一緒にいてくれるのなら、他に欲しいものなんてなかった。


12歳になるころ、真希が両親と揉め事を起こした。父の扇は激昂して真希を殴り、真希は頬に大きく湿布を張って真依のもとを訪れた。

「ちょっと真希、どうしたのよそのほっぺ」
「べつに。クソ親父に殴られただけ」

真希は少しも気に留めるようなふうもなく平然とそう言ってのけるが、湿布の下は赤く腫れ上がっていた。真依はそっと頬に手を伸ばす。どうしてこんなに殴られるまで、今度は何を言ったのか。「またしようのないことを言ったの?」と尋ねると、真希は眉間の皺を更に濃くする。

「真依を外に出せって言ってやったんだ。何が忌み子だよ気持ち悪ぃ。双子なんかそこそこ生まれるらしいぜ。時代錯誤にも程があるっての」
「ちょっと、真希そんなこと言ったの!?」
「なんだよ、悪いかよ」

何を今度は揉めたのかと思えば、真依のことだった。真依の存在はこの家では秘匿され、口に出すことさえ禁忌にされている。そんな存在を外に出せと主張したなんて、この程度の怪我で済んで良かったくらいの話だ。真依は真希の襟元をぎゅっと掴んだ。

「私のことで真希が怪我をするなんて…もう馬鹿なことは言わないで」

真希はもちろん約束なんてしてくれなかった。その後も真希は度々傷を作ってきて、そのたびに平気な顔で悪態をついた。彼女が心配だという気持ちもあるけれど、 自分のために真剣になってくれることが嬉しかった。
そうこうしているうちに禪院家の次期当主である男が行方をくらまし、そのことはもちろん真希を通じて真依にも知らされた。

「そんなのって…許されるの?」
「許されるわけないだろ。カンドーだよ、カンドー。あいつ、なんか最近ごちゃごちゃ機嫌悪かったけど、まさかマジで出ていくとは思わなかったな」

けけけ、と真希が笑う。この家を出ていくことが出来るのだと、今まで考えたこともなかったようなことを突きつけられた。次期当主の彼が失踪したことをきっかけに、真希は真依をこの小屋から出すのではなく、禪院家から逃がそうとあれこれ策を巡らせるようになった。

「なぁ、一緒に逃げようぜ。麓までのルートも調べたし、ジジイどもに気取られねぇ対策も考えたんだ」
「…ダメよ。逃げた先でどうなるっていうの」
「なんとかなるだろそんなの」
「真希ってば本当に短絡的なんだから」

逃げたところで、こんな子供二人に何ができるだろう。ロクに社会経験もなく、真依に至っては戸籍さえない。出ていけば禪院家の人間が追ってくる可能性もあったし、そもそも二人きりで生きていけるわけがなかった。そしてそのとき足を引っ張るのは間違いなく真依だ。その自覚があった。

「なんとかしてやるよ。私はお姉ちゃんなんだからな」
「双子なんだから変わんないでしょ」

真希一人なら、なんとかなるかもしれない。自分と違って正しくこの世に生まれた存在。禪院家の人間が追ってくる可能性だって忌み子の真依がいるからで、真希ひとりなら家の人間も早々に諦めるだろう。
真希が一人で逃げればいいのに、真希はそれをしない。ああそうか、私がこの家に真希をしばりつけているんだ。そう気がついた晩、真依は喉が枯れるまで泣きじゃくった。


失踪した後継の男の穴を埋めるように何処からか恵が連れてこられた。恵は直毘人の兄である長兄の次男の息子であるらしいが、その息子というのも禪院家を出て好き勝手に生きていたそうだ。真依は恵に直接会ったことはない。当主が忌み子と顔を合わせるなんて許させるわけがなかった。
会ったことはなかったが、真希が恵をこっそり小屋まで連れてきて壁越しに話したことがある。

「恵、ここに私の妹がいるんだ」
「なんでこんなところに?」
「双子は忌み子だってよ」
「くだらない迷信ですね」

恵の声は大人びて聞こえる。真希によれば自分たちよりひとつ年下らしいけれど、あんまりそういうふうには聞こえなかった。

「な、ほら、外から来た恵がそう言うんだからこの家の方がおかしいんだよ」
「もう真希ってば…」

きっとそうだろうことはわかっている。だからこの家からは縁を切るみたいに人が出ていく。なのにどうして自分はここに囚われているんだろう。こんな家、出ていけたらどんなにいいか。いや、自分のことなんて本当はどうでも良いのかもしれない。真希を、真希をこの家から逃がしてやりたい。
そう思うようになって数年、突如もたらされた直毘人の死とその遺言。依頼の内容を聞いたときには驚いた。直毘人と直接顔を合わせたのは数える程度だが、そう思ってくれていたなんて思いもよらなかった。

「……真希を逃がすためなら…なんだってするわ」

真依はぎゅっと胸の前で手を握る。世界でたったひとりの姉妹、世界でたった一人の片割れ。世界でたった一人、私を見つめてくれていたひと。


大袈裟に作戦開始といっても、その内容は至ってシンプルである。昨晩も似たような展開になった気がするが、五条が仰々しく言うときはいつもこうなのかもしれない。双子を迎えに来る伊地知がポイントに到着するまで二時間弱。事態を告げて真希を連れ出し真依の小屋に向かう。禪院家の人間に見つからないように慎重に進み、合流地点に向かう。あの東屋から車道に交わる場所が合流地点だ。

「な、なにか注意事項とかあります…?」
「とりあえずヤバそうだったら全力で逃げてね」
「えっ!そんなに危ない感じですか!?」
「あはは、冗談だよ」

嘘か本当か分からない冗談はやめてほしい。へらへらと笑う五条に抗議の視線を送るが、そんなものが効くならもうとっくに効いているだろう。

「僕は真依ちゃんの小屋に直行する。ナマエちゃんは真希ちゃんに作戦を伝えてきて」
「わ、わかりました」

ナマエの役目は真希への連絡。彼女は毎朝早くから掃除を言いつけられているらしい。恵によれば、東から順に回るとのことだ。西対屋からこっそりと抜け出した五条とナマエは二手に分かれ、ナマエは物陰に隠れながら東中門へと向かった。途中人の気配がするたびに息をひそめ、そのせいで中々前に進むことが出来ない。

「…いた」

真希は竹箒を手に表の掃き掃除をしていた。すぐそばに別の女性が立っている。聞き込みの際に「ハラなんてこの家にはいません」と受け答えをした女性だ。言いっぷりからして禪院家の中でも間違いなくハラの存在を知っている。真希とは目を合わせないまま何事かを話していて、真希には近づくことが出来ない。

「……いは……よ。…あなたも…でしょ」

少しだけ声は漏れ聞こえるけれど、何を言っているかまでは聞き取れなかった。真希は女性の話す言葉に頷くことも首を横に振ることもしない。しばらく様子を伺っていても特に大きな動きはなくて、数分で女性のほうが中門廊へ戻るために踵を返す。

「ッ…!」

気付かれたか。視線を感じたような気がした。ひゅっと息をのんで物陰に隠れ、あの女性がこのまま去ってくれることを祈った。ざり、ざり、ざり、足音が近づく。こっちに来るな、来るな、来るな。足音は一旦躊躇うように止まり、数秒ののちに中門廊から屋敷の中へと入っていった。足音が充分離れていくのを確認し、それからナマエは真希に駆け寄る。

「真希ちゃん、ちょっと緊急事態で」
「は?まさか真依が!?」
「しーっ!ごめん、静かに。ハラの意味がこの家の人にバレちゃったみたいなんです。五条さんの手配した車が2時間弱で着きます。それまでに真依ちゃんを連れてこの家を脱出します」

ナマエが単刀直入にそう言うと、真希が静かに頷く。話が早くて助かる。

「真依のところには」
「五条さんが先に向かってます。私たちも出来ればあの小屋で合流したいです」
「分かった。この時間なら外から回ったほうが見つからずに済む」

周囲に目を配り、真希とナマエ東中門を出て塀沿いに南下していく。広大な敷地の中に対した人数が住んでいないというのが不幸中の幸いかもしれない。目の前で真希のポニーテールが揺れた。
この家を出たあとで、二人の人生はどうなってしまうのか。五条の口ぶりからしてなにかアテはあるみたいだけれど、それでも10代の女の子だ。生きていくにはまだ大人が必要な年齢なのに。いや、いまそんなことを考えても仕方がない。少なくともこの屋敷から二人を逃がすことがいいことだと信じるしかない。

「……あんたが何考えてるか当ててやろうか」
「え?」
「私たち二人だけで逃げてこの先どうなるんだって思ってるんだろ」

図星を突かれて黙る。彼女たちは何も夢見がちというわけでもない。現実が厳しいだろうということはきっとわかっている。それでも。それでもこの家にいるよりはどんな苦労だってまだマシだと、きっとそう思っているのだ。

「いくらでも考えた。子供に出来ることなんかたかが知れてるし、しかもこの家で生まれ育ったせいで想像以上に世間とズレてる」
「真希ちゃん……」

真希は真っ直ぐ前を向いたままそう言った。声が少しだけ震えている気がする。怖くないはずがない。真希だってこの家の外をロクに知らないのだ。ナマエは彼女に手を伸ばそうとして、触れる寸でのところで引っ込める。

「だけど、真依にとってこの家にいるよりも幸せなことは確かなんだ」

真希がそう言って、強く拳を握った。双子とは、それぞれが失った半身である。いつかどこかの本で読んだ言葉が脳裏に蘇る。例えば真希と真依も、それぞれがそれぞれの失った半身なのだろうか。

「真依を逃がすためなら、なんだってする」

その声に震えはなかった。ぞっとするほど真っ直ぐで、冴えた空気の中を刃物のような鋭さで泳いでいく。



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