07 ギヴズ・ミー・コンフィデンス

五条との映画鑑賞会から数日。今日は出張に出かけた五条が帰る日である。
ナマエは家政婦としての務めを果たすべく、朝から掃除に料理に勤しんでいた。
ある程度夕食の仕込みが終わった午後、不意にスマホが甲高く鳴った。ディスプレイを見ると、五条からの着信だった。
ナマエはタオルで手を拭き、通話開始のボタンをタップする。

「はい、ミョウジです」
『ナマエ、今日だけど、今から高専直行するから帰れなくなったんだ』

ザザザ、と走るような音が電話の向こうから聞こえる。
五条は珍しく真剣な声で、これはまた何が起こったかとナマエは身構えた。

「緊急事態ですか」
『まぁね』

スケジュールの変更はよくあることで、帰ると聞いていた日にそのまま出張ということもザラにある。忙しい時期であるし、そこに対しては少しの意義申し立てもないのだが、五条の様子が少し気がかりだった。
思わずナマエは「何か、あったんですか」と、普段なら踏み込まない質問を投げかけた。

『悠仁が死んだ』
「…え?」
『伊地知からの報告だと、一年生三人が特級相手に送り込まれたらしい。細かい話は今から聞きに行くよ』

曰く、五条の出張のタイミングで起こったという少年院での呪胎発現に、対応できる術師がいなかったために高専一年生が派遣されたというのだ。
特級相当になる可能性のある呪胎に対して、一年生の派遣はあり得ない。しかしあり得てしまった。

「…任務に入れる術師が、いなかったからですか」

ぽつりと漏れた声は五条に届いていなかったのか、返事はなかった。
術師は常に人手不足だ。しかも今は繁忙期で、猫の手も借りたいほど。自分だって去年の繁忙期は寝る間もないくらい呪いを祓っていた。
自分が現場に行けたら、自分に呪力があったら。

「…私がもし呪力なくしてなかったら…代わりに行ってあげられたんですか…」
『それは思い上がりだよ』

ピシャリと五条の言葉がナマエを斬った。
ナマエはその鋭さに思わず息をのむ。

『ナマエが行ってたら、おまえが死んでただけ。特級は祓えずに、違う術師が増援に来てソイツも死んだだろう』

五条の言う通りだ。
稼働可能な術師が他にいたとして、自分が向かったとして、特級相当の呪霊に自分が敵うわけがない。
ナマエが派遣されていれば、間違いなく死んでいただろうし、増援に来た術師が最低でも一級以上でなければ被害が増えていただけだ。
虎杖でなければよかったのか。それは違う。一人の死は、平等に一人分の死である。

「すみませんでした」
『僕はこのまま高専に向かう。しばらくは帰らないかもしれないから、また連絡するよ』

はい、お気をつけて。かろうじてそこまで言い、終話のボタンをタップする。
自分は呪術師だ。仲間が死んだことも、一般人を救えなかったことも数え切れないほどある。
そのたび傷ついてどうするんだよ。と、もう一人の自分が自分に叱責した。

「五条さん」

あのひとは、きっと泣いたりしない。
強さゆえにいつも置き去りにされる彼は、きっと生徒を失っても惨めに項垂れることなどないのだろう。でもそれなら、誰が彼の痛みを分かち合うと言うんだろうか。
戦うこともできない自分の無力さを呪って、ナマエは廊下の片隅にうずくまった。


それから数日間、五条が帰って来ることはなかった。
ナマエも彼の同情を知らず知らずのうちにまるで好意のように受け取っていたのが恥ずかしくて、合わせる顔がなかったから丁度良かったのかもしれない。
そして五条の帰宅は突然メッセージアプリで知らされたのだった。

『今日の夜帰るよ。1人分多めに晩ご販よろしく』

1人分多めに、というのは、初めて言われる指示だった。
五条はこのマンションに人を呼ばない。元々来客は好きじゃなさそうだが、呼びたければ新宿のマンションに呼ぶだろう。他にもいくつか持っているだろうとも思う。
わかりました、と返信をして、冷蔵庫の中身を確かめた。メニュー変更だ。今日はビーフシチューにしよう。

一時間後、がちゃんと玄関の開く音がする。ナマエは調理の手を止めて、出迎えるべくぱたぱたと玄関まで向かった。

「たっだいまー!」
「五条さんおかえりなさ…い」

言葉に詰まったのは、五条の後ろに客人がいたからである。来客とは聞いていたが、その相手が誰とは聞いていない。
実はお付き合いをしている女性がいてその人を連れてきました、と言われた方がまだ驚かなかった自信がある。

「挨拶するのは初めてだっけ?故人の虎杖悠仁くんです!」
「オ、オジャマシマス…」

そう、五条の後ろには、数日前に亡くなったと聞かされた、宿儺の器、虎杖悠仁の姿があったのだ。


「ミョウジさん、なんか手伝えることある?」
「んーっと、じゃあお皿出してくれるかな」

曰く、虎杖は運び込まれた高専で蘇ったらしい。
心臓をもぎ取られて何故そんなことになったのかは現代医学では証明できるものではないが、彼の内に両面宿儺がいるとなれば、その身のうちで何かが起こったのだろうということ想像に難くない。
五条によると、そもそも先日の特級の件が上層部からの嫌がらせでだろうとのことで、表向きは死亡したことにしながら秘密裏に特訓を続けているのだという。

「あ、そうだ。虎杖くん甘いもの好き?」
「うん。五条先生ほどじゃないけど」
「あれは異常。美味しい葛まんじゅうがあるの。ご飯のあとに食べよっか」

五条が帰宅しなければ、一人で食べなければいけないところだった。
虎杖が手伝ったおかげで、いつもより早く食事の支度が整っていく。

「虎杖くん慣れてるね?料理出来る子?」
「あー、爺ちゃんと二人暮らしだったからそれなりに」

手際よく準備を進める虎杖に尋ねれば、なるほど頷ける答えが返ってきた。
男の子で料理出来るっていいなぁ。とナマエはぼんやり考える。
そう言えば、五条はどうなのだろう。方々で「性格以外完璧」と言われる彼のことだから、多分時間さえあれば料理も自分で出来るんだろうな、と結論付け、勝手に家政婦の存在意義の剥落に落ち込んだ。

「ナマエと悠仁が並んで料理してるっていいね」
「何言ってるんですか」

五条はご機嫌な様子でカウンター越しにキッチンを眺めている。
そもそも客人である虎杖に手伝いをさせるつもりはなかったが、彼の生来の性質からか、気がつけばキッチンで支度を手伝っていたのだ。
そうこうしているうちに出来上がったビーフシチューを食卓に並べる。普段はパンを用意することが多いけれど、食べ盛りの虎杖がいるため主食は米である。

「いただきます」
「はい、召し上がれ」

手を合わせる二人にそう返し、自分も手を合わせてビーフシチューに向き合う。
虎杖は早速ぱくりとひとくち頬ばった。

「美味っ!」
「でしょ、ナマエは料理得意なんだよね」
「何で五条さんが得意げなんですか…」

虎杖の忌憚のない意見は嬉しい。
誰かのために作る料理というものは自分のためのそれより何倍も作った甲斐があるというものだが、男子高生にがつがつと食べてもらえるのはまた違った嬉しさがある。

「おかわりたくさんあるから、言ってね」

食卓はいつもより賑やかになった。
虎杖は話に聞いていたとおり明るく人懐っこい性格で、すぐ周囲に溶け込む才能がある。
今は五条の計らいで地下室で匿われているらしく、そこでは主に映画を見ながらの呪力操作の訓練をしているらしい。

「ツカモトに今日も殴られてさ」
「ツカモトって…ああ、学長の呪骸か」
「そうそう。やっぱ眠くなるときが一番ヤバいんだよね」

起きてる間ぶっ通しで行われる訓練で、随分たくさんの映画を見ているらしい。
映画が好きな五条らしい訓練方法だな、とナマエは思いもよらない彼の教師たる姿に少しむず痒い気持ちになる。

「あ、そうだ。僕この後このまま出張行くことになったから」
「えっ、夜からですか?」
「そ。現場へ夜中に入りたくてさ」

出し抜けにそんなことを言い出した五条にナマエは驚いたように声をあげる。
虎杖のことはどうするつもりだろう。

「ちょっと五条さん、流石に虎杖君を誰にもバレないように高専に連れてくなんて私には無理ですよ」
「ああ、大丈夫。悠仁にはここに泊まってもらおうと思って連れてきたんだよね」
「えっ!ここにですか!?」

五条の隣で虎杖も「そうなん?」と言って驚いた。
どうやら何も言わずに連れてきたらしい。

「悠仁が生きてるってことはごく限られた人間にしか伝えてないわけだけど、伊地知は僕と一緒に出張だし、硝子も今晩は捕まんなくてさ。ナマエならご飯食べさせてくれるし、適任だと思って」

なるほど道理はそこそこ通っている。が、相変わらず急な上に随分な注文だ。
はぁ、と息をついて、ナマエは「着替えは五条さんの使いますからね」と断った。


程なくして五条が出張に出かけ、ナマエは二人分の葛まんじゅうを皿に盛ってリビングに移動する。

「はい、虎杖くんの分ね」
「あざっす!」

いただきまーす、と、夕飯のときより少し気の抜けた声で揃って手を合わせた。

「わ、すごい。この葛まんじゅう美味いね!」
「でしょ?目白のね、老舗の和菓子屋さんのなの。五条さんのお墨付きだよ」
「目白なんてとこあんの?俺先月東京来たばっかだから全然わかんなくてさー。目黒しか知らないや」
「あ、虎杖くん仙台だっけ」

五条の話によれば、彼が上京したのは6月のことだ。しかも2週間やそこらで地下室に匿われることになっているのだから、ろくに出かけることも出来ていないのだろうということは簡単に推測できた。

「目黒と目白は近いん?」
「どうだろう。山手線でえっと…8駅離れてるよ」

頭の中で山手線の駅を数える。駅の数で言われてもいまいちピンとは来ないのか、虎杖は首を傾げ「そうなんだ」というばかりだった。

「あのさ、ミョウジさんは先生の彼女なん?」

虎杖の言葉に、ナマエはヒュッと一瞬息を飲んだ。
他意はない。ただの疑問だろう。目白と目黒の距離を聞くような、そんな他愛も無い話だ。
そうわかっているのに、ずんと心に重いものがのしかかるような、どうしようもない気持ちになった。

「…違うよ、雇われ家政婦」

搾り出した声は、震えてはいなかっただろうか。
ナマエは冷静さを装い、簡潔に虎杖の言葉を否定した。

「そうなん?え、でも俺が生きてること言ってもいいってことは、窓かなんかの人なの?」
「あー、私ね、術師なの。今いろいろあって呪力使えなくなっちゃって…五条さんが仕方なく面倒みてくれてるんだよね」
「えっ、まじで?超大変じゃん!」
「いやいや、虎杖くんほどでは…」

ははは、と笑って言うと、虎杖は少し考えるような素振りのあと口を開こうとした。
ナマエは大人げなくそれを「そういえば」などと言って遮る。

「虎杖くん、映画見る?あ、修行で見飽きちゃってるか」
「見たい!久々にツカモトから解放されて見れるよ」

どれにする?と言って、五条の映画コレクションを並べた。
そこには五条と二人で見たあのフランス映画があった。

「あ、これ、昨日地下室で先生と見たよ」

そう言って、虎杖が指差したのは奇しくも件の映画だ。

「ヒロインの空想に出てくる男の台詞がいいよなって先生と意気投合してさー」

その様子を虎杖が身振り手振りを交えて再現した。
ナマエの頭の中に心臓を串刺しにした台詞が蘇る。

『君はまだ戦ってさえいないのに、どうして意味のないことだと思うんだい』

思い出しただけのはずなのにそれが音声で聞こえ、驚いたナマエは台詞の聞こえたほうへ勢いよく顔を向ける。
ナマエが思い出すのと同じくして、虎杖がその台詞を語っていたのだ。

「虎杖くんは、その台詞、どう思う?」
「うーん、そうだなぁ。戦えばいいのにって思うかな」

ああそうか、と、混じり気の無い言葉に心臓を掴まれたと思った。
虎杖はナマエの様子には気がついていないのか、じっと自分の手を見つめ続ける。

「戦って勝てない相手がいるのは俺も知ってるけどさ、意味がないって戦う前から決めるのは、早いんじゃないかなって。そんなの後悔しちゃいそーだし」
「…そっか」

押し黙るナマエを不思議に思ったのか「どったの?」と虎杖が声をかける。
「なんでもない」と言って、ナマエ葛まんじゅうをぱくりと口に入れた。甘いものを食べると、五条の顔が一番に浮かぶようになったのは、ここで暮らし始めてからだ。
それが怖くてこの前から甘いものを食べるのは控えていた。餡の甘みがじんと舌の上に広がる。

「私も戦ってみよっかな」
「ミョウジさん、なんかと戦うの?」
「…うん。もう少しだけ頑張ってみる」

「応援すんね」と、内容さえ聞いていないのに虎杖が笑った。
なのにそれが心強くて、今ならきっと自分にも五条にも向き合える。そんな気分になった。

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