番外編 ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン

ナマエが術師に復帰して約三週間が経過した。調子は上々である。
相変わらずのアンラッキーさで電車を乗り過ごしたりアイスキャンディーを落としたりはしているが、不運と言ってもその程度だ。
五条と一緒に過ごすようになってからアンラッキーなことが減った気がする、とナマエはぼんやり考えた。

「あ、ナマエ、それ洗濯失敗して縮んでるけど」
「えっ!」

前言撤回。そういうことでもないらしい。


ナマエが術師に復帰して三週間が経つということは、五条のマンションで正真正銘の同棲を始めて三週間が経つと言うことだ。
居候の身であった時分にはあまり自分のものは増やすまいとミニマリストのような生活をしていたナマエだったが、この頃は人並みの生活をしている。
居候期間でもその前のことを思えばマンションには生活感はあったが、今はそれよりもっと生活感が出てきた。
封の切ってある調味料、少し固まりかけた砂糖、お徳用のサランラップ。モデルルームのように何もなかった部屋に生活の痕跡が溢れ始めていた。

「ナマエ、来週の月曜空いてるよね?」
「月曜日ですか?」

五条に尋ねられ、自分のスケジュールを頭の中で確認する。このところは連勤が続いており、その終わりが日曜のはずだ。
空いてます、と答えると、恐らく把握済みだっただろう五条は「だよね」と言った。

「星を見に行こう」
「星?」
「そ。ペルセウス座流星群。そろそろでしょ」

はっと、ナマエの脳裏にプラネタリウムでのことが蘇った。8月にはペルセウス座流星群が見えるのだとスタッフの聞き心地のいい解説で言ってた。
それを五条が覚えていたのだとわかり、ふっと口元が緩む。

「見に行きたいです。流星群」
「決まりね。昼くらいから出るから用意しておいて」
「お昼から?どこか用事でもあるんですか?」
「ちょっと遠くまで行くからさ」

遠く?とナマエが首を傾げる。このマンションからはあまり見えないかもしれないが、高専のあたりまで行けば星なんて簡単に見えるだろう。
そんな日の高い時間から出かけるのであれば、どこかに寄るのだろうとでも考えるのが自然だった。
「どこまで行くんですか?」とそのままナマエが尋ねると、五条はよくぞ聞いてくれましたとばかりに口角を上げる。
そしてもったいぶるようにして行き先を告げた。

「熊野」

ナマエは固まった。熊野と言えば自分の呪力を吸い取った肉吸い祓除の地である。万が一再発生したとしても対処法ならわかっているが、それにしても好き好んで行きたい場所ではない。
そういえばこのひと性格悪いんだった。と、目の前でうきうきと効果音さえ聞こえそうな五条を見ながら溜息をついたのだった。


呪力が戻ったからといって、等級が上がるわけでも仕事が変わるわけでもない。
二級術師のナマエに与えられる仕事は二級呪霊の祓除、事前調査、パトロールといったところで、五条のように極端な地方へ飛ばされることは稀だ。
その日ナマエは任務と任務の合間に高専を訪れていた。

「…そう言えば熊野ってどっちかっていうと京都高専の管轄なんじゃ…」

ふと、自分の派遣された任務のことを思い出した。中部地方に関してはどっちの、というのはあまりないが、基本的に東京高専は関東以北、京都高専は関西以南という区分けがある。一級術師や、それこそ五条のような特別な身分では話は別だが、一介の二級術師がそのボーダーラインを越えて任務を与えられることはあまりない。
つまるところ、そもそも例の廃村の任務が回ってくること自体が不運だったというわけだ。

「…気づきたくなかった…」
「何かありましたか?」

自分の相変わらずの引きの悪さを嘆いていると、背後から声がかけられた。
振り返って目に入ったのは、黒いスーツ姿の同期である。

「伊地知くん、お疲れさま」
「ミョウジさんもお疲れ様です」
「今日は五条さんの送迎じゃないの?」
「ええ、今日は学生の送迎を任されています」

有能な同期は今日も多忙だ。けれど五条の送迎じゃないならちょっと心労もマシかもしれないな、と自分の立場を棚に置いて考えた。
補助監督や他の術師から伊地知が「五条係」と崇め奉られていることは公然の秘密である。

「今日は胃薬要らないね」
「はい。漢方のほうで済みそうです」

いや、結局持ってるのか、と突っ込みたくなったが、伊地知が満足そうな顔をしているので水を差すこともないかと黙った。
漢方のほうが身体に負担が少ないはずなので、それで済むならまぁいいことだ。

「ミョウジさんとお付き合いするようになって機嫌のいい日が増えましたよ」
「そうなの?」

はい。と伊地知が頷く。伊地知が言うんなら間違いないことだろうけども、そもそも機嫌が悪い日に後輩に絡みまくる大人ってどうなんだろうか、と考えてしまって素直に祝えない。
しかもそういえば今は自分の恋人である。五条の良いところも悪いところもひっくるめて好きだとは思っているけれど、実際被害者を目の前にするとなんだか途端に申し訳なくなってきた。

「な、なんかごめん…」
「え、何がです?」

伊地知と並んで補助監督室まで行くことになり、暑くなってきたねだとか、この前新しいアイス食べたんだけどさだとか、特にこれといった内容もない世間話をした。
その途中でたまたま天気の話になり、今度の土曜は新月だ、なんて話に発展して五条との約束が脳裏を過ぎる。

「今度熊野行くんだよね」
「えっ、まさか現場ですか?」
「うーん、詳しい場所は聞いてないんだけど…」

ナマエの言い回しに察しの良い伊地知は「五条さんが?」と尋ね、ナマエはそれを肯定する。

「ペルセウス座流星群を見ようって話をしててさ、それをわざわざ熊野まで見に行こうって」

別に高専の近くでも良いのにねぇ。と続ける。
伊地知は約一か月前の祓除任務のことを思い浮かべた。あの日五条はどんなふうだっただろうか。

「そういえば、肉吸い祓除任務の日も五条さん、珍しく星空を見上げてましたよ」
「それは確かに珍しいね」

プラネタリウムに行こうと言い出したのも、だいぶと珍しいことだと思ったのだ。
あのときも五条は「出張先、結構星綺麗でさ」と言っていたが、プラネタリウムしかり今度のペルセウス座流星群しかり、随分と五条の心を動かしたらしい。

「ミョウジさんにもあの星を見せたいのかもしれませんね」

伊地知がそう言って、それは五条が考えるにしてはロマンチック過ぎないか?と思い見る。
真偽のほどは定かではないが、そうだったらいいな、とナマエは星も見えない青空を見上げた。


来たる月曜日、新幹線で最寄り近くまで行き、そこからは在来線を使う。
山に入る前の比較的大きな駅で下車して、予約してあったレンタカーを使って行くことになった。
受付のとき五条の運転免許証を初めて見たのだが、このひと本当に免許証持ってるんだな、と当たり前のことに今更ながらへんに納得する。
ナマエにとって五条悟いうひとは、本当にそういった俗世の生活から切り離されたような、そういうイメージのままなのだ。

「ナマエ、何考えてんの?」
「えっ、いや、何でもないです」

山道を走る車の中、ぼうっとしていたら不意にそう言われ、ナマエは気の利いた誤魔化しも出来ずにしどろもどろになった。
もちろん五条がそれを許すはずもなく「浮気?」などと笑って言うものだから、これ以上面倒なことにしてたまるかとナマエは口を開いた。

「五条さんって本当に免許持ってたんだなぁって思ってました」
「え、急にディスるじゃん」
「いや、そういうわけじゃないんですけど」

思わぬところで垣間見る五条の一般人と変わらないようなところは、何度見ても少しへんな気分になるのだ。

「そういえば、これってもしかして肉吸いの現場むかってます?」
「うん、もちろん」

当たり前のように肯定されて、予想はしていたがやっぱりか、とため息をつく。横目で見た五条はにこにこと楽しそうにしていて、それを見ていたら「なんでわざわざ現場なんですか」とは聞く気になれなかった。
途中で休憩を挟みながら山道を登る。五条の運転は相変わらず意外なほど丁寧で、この運転にもすっかり驚かなくなっていた。


目的地に着くと、あたりは夕闇に包まれていた。五条は高台の一角に車を停め、ふたりして車を降りる。
下方には廃村が見え、そうも時間が立っているわけではないから代り映えはしなかった。
ふと、ナマエは変化に気づき、村落の向こうの山を指さす。春に来たときはこんなふうではなかったはずだ。

「え、あれ…」
「ああ、ちょっと赫がノッちゃってねー」

山がざっくりと削れ、そこに至るまでがモーゼの十戒がごとくまっすぐな道になっている。
事も無げに言ってくれるが、廃村とはいえこの地形変動は相当事後処理が面倒なはずだ。ナマエはすべて丸投げにされたであろう同期のこと思い浮かべ、心の中で十字を切った。

「何時くらいが見ごろなんでしたっけ」
「うーん、一番流れるのは夜の10時くらいだったと思うよ」

日が長くなっているから、もう夜の7時を過ぎている。見ごろまでは3時間だが、それまで全く流れないというわけではない。
しばらくで日が沈み切り、一番星が上がる。日は沈みだすと早く、外灯もないために暗闇の足は早かった。
光源の確保のためにヘッドライトをハイビームにすれば、遮るものがないから五条のえぐった山の斜面までほのあかるく見える。

「ナマエ、こっち」

その場で首を上に向けていると、不意に五条がナマエを呼んだ。声のほうを見ると、五条がいつの間にかレジャーシートを広げて手招いていた。
このひと、致命的にレジャーシート似合わないな、と思いつつ、五条に言われるがまま靴を脱いでレジャーシートに座る。

「五条さん、窮屈そうですね」
「足が長くて困るよホント」

長身の五条は足を伸ばして寝転がることはおろか、膝を立てても随分と窮屈そうだ。それがレジャーシートとのアンバランスさに拍車をかけて思わずナマエは笑った。
そのまま二人で夜空を見上げていると、視界の端でちらりと星が流れる。あっ、とナマエが声を上げるより早く、五条が「流れ星だ」と言った。

「もう流れてんだね」
「そうみいたですね」

五条が立ち上がり、上半身だけを運転席に突っ込んでヘッドライトとエンジンを切る。
途端にあたりは黒く塗りつぶされ、音は風が鳴るばかりになった。
直前まで点けられていたヘッドライトの明りとの差で一瞬は真っ暗に見えたものの、目が慣れてくると次第に星々が浮き上がってきた。

「わぁ…すごいですね」
「ね、綺麗でしょ」

高専の近くでも充分見ることができると思ったが、いつも見上げている空とは方角が違うからか新鮮に見える。名前も知らない星々が夜空を余すことなく照らしていた。
暗闇の中で五条が隣に近づく気配がして、肩を後ろに引かれてバランスを崩す。「わっ!」と声をあげるナマエにはお構いなしで、気がつくとレジャーシートに二人揃って寝転がる体勢になっていた。

「びっくりするじゃないですか」
「はは、ごめんごめん」

後頭部には五条の腕が添えられていて、倒れ込んでもどこもぶつけることはなかった。
その小さな優しさがむず痒くて、ナマエは五条の方を見ずに星空を見上げる。

「五条さん、くっつきすぎで暑いんですけど…」
「いいじゃん、ほら、レジャーシート狭いから、くっついてないと落っこちちゃうよ」

なんて子供みたいな言い訳だ、と思ったけれど、それ以上嗜めるだけの理由も見つからなくてナマエは押し黙った。
恐らくナマエが押し黙った理由も全て察しているだろう五条に、なんとか少しでも言い返してやろうと口を開く。

「レジャーシートが狭いから、仕方ないですね」
「そうだね、狭いからね」

意趣返しのつもりがさらりとそう返され、ナマエはまた押し黙った。
それを五条がくすくすと笑い、ナマエが反対方向に顔を逸らすと、今度は覆いかぶさるようにしてナマエの顔の両隣に手をついた。
ナマエが横目で見ると、五条の向こうに夜空が広がっている。新月の二日後だからまだ月の光は殆どなく、星のきらめきが一層力強い。ひとつ、ふたつ、星が流れた。

「…夜空の中に、飲み込まれたみたいです」
「随分ロマンチックだね」
「五条さんこそ。プラネタリウムも流星群も、興味があるなんて知りませんでした」

この五条悟という男は、見るほどに白く美しく惚れ惚れする。宇宙の闇に浮かぶ無数の星々の中で、この男がひときわ輝かしいもののように思えた。しかしそれは、星のような遠くやわい光ではなく、ダイヤモンドのように硬質で痛烈な輝きだ。

「ナマエと見たかったんだよ」

雨のように次々に星が降り注ぐ。あの星々は地球到達する前に大気圏で燃え尽きるらしい。大して造詣も深くないくせに、夜の闇の向こうに横溢する宇宙の真理について思いを馳せる。
五条はゆっくりと顔を近づけ、逃げることのできる速度で口づけをした。唇は薄く甘く、五条の透徹した美しさに相応しい心地であった。
逃げないなんてわかっているくせに、白々しい男だと思いながら何度も落とされる唇を受け入れ、彼女はそのうちに静かに瞼を下ろした。
きらり、濃紺の幕の上をいくつもの星が流れる。

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