15 スーパーラッキーガール

勝手知ったる様子でナマエはキッチンに立ち、小さな鍋でココアパウダーと砂糖を少量の水で溶かす。
そのあと牛乳を加えて、ことこと煮立ってしまわないように注意しながらゆっくりと混ぜ合わせた。
こんな真夏にこんな甘ったるいものを飲みたいだなんて少しも理解できないが、そんなところも好きだと思ってしまうのだから、恋というものは盲目である。
砕いたチョコレートを十分に温まった牛乳に投下し、火を止める。泡立て器でまんべんなく混ぜてから、また弱火にかけて温める。
仕上げにひとつまみの塩を加えて、マグカップにとくとくと注いだ。

「はい、五条さん。真正ホットチョコレート悟スペシャル改フューチャリングミョウジです」
「はは、すっごい長い名前」

五条はそう笑いながらマグカップを受け取る。
湯気が立つ温かさだが、冷房を効かせた室内ではこのくらいがちょうどいいらしい。こたつで食べるアイスの心理と似てるな、とナマエは思った。

「明日から本格復帰だっけ?」
「そうです」

パトロールや低級呪霊の祓除などの任務を数回こなし、ナマエは明日から術師として本格復帰することになっている。
朝食にはクロワッサンにスクランブルエッグ、簡単なサラダを作った。出勤前に甘いものが飲みたいと言った五条に、ナマエは「朝からこんなに甘ったるいものを…」と思いながら、ホットチョコレートを作ったのだった。
もう監視の必要がないナマエは、こうして未だ五条のマンションに住んでいる。
そもそもの事の経緯は、高専に泊まった翌日、連れ戻された五条のマンションで説明された。


ここに初めて連れて来られた日と同じに、リビングのソファに向かい合って座る。

「呪いの正体だけど、アレ、肉吸いが変化して発生した呪いだったよ」

手始めに、五条は祓除した呪いのことを語り始めた。
ナマエはその名前に馴染みがないのか「にくすい、ですか」とおうむ返しをするに留まる。

「そ。熊野とか和歌山とかあの辺に伝承されてる妖怪の一種ね。若い女に化けて旅人に火を貸してくれって言って貸そうとした旅人から火を奪うんだ。で、暗闇に乗じてその身体を喰らう妖怪。まぁ、あいつはそれだけじゃなくて対象者の呪力から縁のある人間の姿形を真似る能力も備わってたみたいだけど」

なるほど、だからあの日五条の姿を真似ていたのか、と腑に落ちた。
あの日見た呪いの姿を思い出す。炎を纏わせた刀身で五条を模倣したらしい呪霊の腹を真っ二つに切る。呪霊の腕のような部分がぐんと伸び、ナマエは振り返りざまにそれを突き刺した。
それでも動きは止めきれず、首元に襲いかかった呪霊の顔面を振り上げた刀で両断する。一連の刀捌きのすべてに術式よって炎を纏わせていた。

「ナマエ、祓うとき最後の一撃に術式使ったろ」
「え、あ、はい」

思い出していた映像を見透かしたようなタイミングに驚いた。
五条は「やっぱりね」と言って、長い足を組み替える。

「ナマエの術式との相性が最悪だったんだ。術式で祓ったとき、その炎を貸したことになっちゃったってわけ。だからそこで縛りが成立して、ナマエの呪力が吸い取られてたんだよ」

説明には納得した、と同時にこんなに引が悪いことってあるか?と自分の運の悪さを改めて呪う。
例えば他の術師が任務に当たっていたり、自分があの時術式を使わなかったらこんな事態にはならなかったということだ。対象も術式もピンポイントすぎる、とため息をついた。

「次にナマエが気にしてる今回の僕の対応のことね。順を追って説明するけど、上と学長にナマエの経過観察を指示されたのは本当。原因不明だったし、症例もほとんどなかったから二次被害の防止のためにね」

まるで報告書の行間を埋めるように五条は話した。
ナマエがマンションを出る意思を固めた、監視、という言葉がまだ出てこない。五条の話は続くらしく、ナマエが考えているのと同時にひとつ息をつくと、また説明を再開する。

「でも、指示されたのはあくまで監視じゃなくて経過観察。監視にしたほうが良いって進言したのは僕」

この意味わかる?と五条はナマエに尋ねた。
放置しておくと危険だったから?肉吸いからの逆流を懸念して?どちらもピンとはこない。ナマエは大人しくまたいくつかの意味を考えてみたけれど、少しもそれらしいことなんて思いつかなかった。

「…わかりません」
「経過観察なら別にナマエに自宅待機でもさせればいい。そうでなくても、高専の寮に部屋を用意してやればそれで済む話だ。でも、監視となれば話は変わる。誰か特定の術師が対象者に張り付いて見ていられるし、不足の事態が起こってもその術師が速やかに対処できる」

五条の言うことは道理が通っていた。
経過観察であれば、高専の結界内で暮らすだけで事足りる。五条がわざわざプライベートの時間を割いてまで張り付いている必要はない。問題は、なぜその進言をしたのか、というところだった。

「僕がナマエに張り付いて見てられたら、何かあってもいつでも守ってやれるでしょ。だから進言して内容変えたの。おまえは納得しなさそうだから、家政婦として雇うって言って騙したけど」

臆面もなく「騙す」という単語を使ってみせた五条に、はぁ、とナマエは相槌を打った。
五条は腹の前で両手を組み、にこにことナマエの様子を見つめる。

「他には?聞きたいことある?愛の告白ついでに答えてあげる」

愛の告白ついでって、と少し呆れるが、このくらいのやりとりが心地良かった。
ナマエはうーんと首を捻り、ずっと気になっていた疑問をぶつけた。

「…あの、どうしてこのマンションだったんですか?五条さんって新宿にも新しそうなマンション持ってますよね?」
「え?だってあっち新宿だからうるさいんだもん。便利だけどさ。好きな女の子と暮らすのに深夜もバンバン車が通るような場所は嫌じゃん」

「あっちの方が良かった?」と、何を聞くのか、といったふうな様子だった。
どうやらナマエをずっと悩ませていた「元々使っていなかったマンションにナマエを住ませた真相」というのもは、想像以上にどうということもない理由だったらしい。

「え、なに。ナマエそんなこと気にしてたの?なんで?」
「…五条さんには、他に帰る家があるんだと思ってたんです。だからその…よく使う方の家には住まわせたくない理由とか…あるのかなと思っていて…」

不思議そうな顔をする五条にナマエが観念して告白すると、少しの間のあと五条はふふふと笑った。
全部話してしまうとひどく子供っぽいことで自分が悩んでいたような気持ちになる。ナマエは決まり悪く視線を左右に泳がせた。

「はは、僕がしょうがなくナマエと同棲したと思ってたんだ?」
「どっ…同棲じゃなくて住み込みです」
「でもこれからは同棲でしょ?」

五条はソファから立ち上がり「はいはい詰めて」とナマエを右側に追いやると空いたスペースに腰を下ろす。
隣あって座る体勢になって、ナマエは映画を見たときのことを思い出した。まるで恋人のようだ、なんて。

「ナマエ、どうしたの。顔赤いけど」

少しの挙動で相手にすべてが伝わってしまう距離だ。
あの日と同じ。でも、あの日とは全然違う。

「…恋人みたいだなって、思っただけです」
「みたい、じゃなくて恋人だよ」

五条はそう言って、ナマエの細い肩を抱いた。それからその手でナマエの髪を梳くように撫でる。
優しい力で五条の肩に引き寄せられ、ぴったりとくっつく。すっかり慣れてしまった五条の香りが鼻腔をくすぐった。


肩慣らしは充分した。術式の発動も問題ないようである。
三ヶ月以上仕事に穴を開けてしまったのだからその分を早く取り返せるように積極的に任務に出たい、というナマエの希望により、相応のスケジュールで任務が組み込まれている。

「ねー、マジで復帰すんのー?」

空になったマグカップを片手に五条が唇を尖らせた。
「マジですよ」と簡潔に返答をしながら、ナマエはかちゃかちゃと朝食で使った食器を洗っていく。

「いいじゃん、これを機に寿退社ってことでさ」
「寿じゃないですし、人手不足でそういうわけにもいきませんよ」

五条は「えー」と文句を言って、ナマエは手渡されたマグカップを手早く洗った。
今日は二人とも仕事がある。五条は珍しく高専で教師として、ナマエは近県で二級呪霊の祓除だ。
ごねる五条にいつもの怪しげな目隠しをポケットに予め入れた上着を手渡し、自分も仕事着に袖を通した。

「それに、私呪術師って嫌になれないんです」

ぽつんとナマエが言った言葉に、五条は立ち止まって少しだけ目を見開く。
そんな言葉がビビリのナマエから出てくるのが意外だったらしい。

「どうして?」
「…昔はなんで自分がこんな術式持って生まれたんだろうとか、どうしてこんな怖いことしなきゃいけないんだろうとか、たくさん悩みましたけど…これがなきゃ、私、五条さんに出会えなかったから」

自分がこの術式を持って生まれてきた理由の一つに、あなたに出逢うためだったと書き足しておきたいのだ。
ナマエはふっと笑った。
「さあ行きますよ」と急かし、目をぱちぱちと瞬かせ呆気にとられたまま五条は簡単に玄関まで追いやられる。
玄関まで辿り着き揃えられた靴につま先を差し入れると、そうだ、と言ってナマエが動きを止めた。

「五条さん、今晩何食べたいですか?」
「そうだね、ナマエ特製のマカロニグラタンがいいな」

了解です。と返事をして頭の中で今日の献立を考える。
仕事が終わってからホワイトソースを作るのは中々手間がかかるだろう。けれど「美味いね」と言いながらグラタンを口に運ぶ五条を想像すれば、そんなことは些細なことだと思える。

「ナマエ」
「はい?」

不意に名前を呼ばれて顔をあげると、眼前にあの青い瞳が迫っていた。
あっという間に唇を奪われ、ちゅっとささやかな音を立てて五条の顔が離れていく。
ナマエは口をはくはくと動かし、したり顔で笑う五条を見上げた。

「ほらほら急いで、遅刻しちゃうでしょ」

そう言って、五条はナマエの手を捕まえて歩き出す。
真っ赤になっているだろう頬の熱さを感じながら、ナマエはぎゅっと、その手を握り返した。

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