14 ユー・レイズ・ミー・アップ

「五条さん…」

裏庭の五条は、黙したままナマエを見上げていた。サングラスを外した青く澄んだ瞳がナマエの思考を追い詰めていく。
あたりは暗く、時計の針はてっぺんを回って三十分が経過したところだった。学生たちも眠ったようで寮室から漏れる明りもほとんどない。
だというのに、五条はまるで光って見えた。

降りてきて。

声にはされず、口の動きだけでナマエを呼ぶ。
数時間前にあんなふうに啖呵を切って、今更どんな顔をして話せばいいのかわからなかったし、五条がわざわざ深夜に高専まで足を運ぶ理由もわからなかった。

「ナマエ」

今度は声に出して言った。
ほんのささやかな声ではあったが、この静けさの中ナマエの耳に届くには充分だった。
結局、逃げも隠れも出来ない。
何故ならナマエに、本気でそうする気などないからだ。
昔からそうだった。出逢った当初こそこの男の傍若無人な振る舞いに振り回されていたけれど、ありきたりな差し入れをしたのは自分の意思だったし、そのあと何かと構われることも本気で嫌だと拒絶したことはなかった。
伏黒姉弟のことだって頼まれれば当たり前に手伝ったし、住み込みなんて条件も、五条でなければ三ヶ月もの長期間世話になることもなかっただろう。

「いま、行きます」

ナマエは覚悟を決めるように一度呼吸を整え、壁にかけていたパーカーを部屋着の上に羽織ると、寮室のドアを開けた。

「え、あれ、恵くん?」
「夜中にすんません」

ドアを開けた先に伏黒の姿があった。五条のことで頭がいっぱいで、気配にも気づけていなかったらしい。
伏黒は何か言いづらそうな様子で視線を二回泳がせる。

「えと、何か…用かな?」

かなり世間一般の倫理観を逸脱している呪術界の高専ではあるが、女子寮と男子寮の概念くらいはある。生真面目な伏黒が、こんな夜中に女子寮までわざわざ何の用事だろうか。

「…五条先生と、何かあったのかと思って」

俺なんかが口出しすることじゃないんですけど。と、伏黒は続けた。
やはり談話室ですれ違ったとき、様子のおかしかったナマエに気が付いていたらしい。

「ごめんね大丈夫だよ。恵くんに気を遣わせちゃうなんて、大人失格だね」

あはは、と軽く笑って見せれば、伏黒は眉間のシワを深くした。
「大丈夫じゃないですよね」伏黒の声がナマエの乾いた笑いをぴたりと止めた。

「五条先生、最近ずっと楽しそうだったんで。それって多分ミョウジさんと一緒に暮してたからだと思ってて。なのにミョウジさん暗い顔して高専に泊まるって言い出すし」

伏黒はそう言い、じっとナマエの目を見つめた。緑色の瞳に、さっきまで眠ってしまっていたせいか、伏黒姉弟の面倒を見に通っていた時のことを思い出す。
昔からそうだった。聞き分けが良すぎるところはあるけれど、人の痛みを考えることができる優しい子供だった。
今日もナマエの様子を随分と気にかけていたらしい。

「あの人に付き合ってられるの、ミョウジさんぐらいだと思ってるんで」
「恵くん…」

伏黒は「すんません、それだけです」と、決まり悪そうに視線を落とし、自身の頭をがしがしと無造作にかきむしる。
会釈をして踵を返す伏黒の背中に「ありがとう」と言葉を投げかけると、立ち止まってナマエへともう一度会釈をした。

ーー君はまだ戦ってさえいないのに、どうして意味のないことだと思うんだい。

頭の中に、映画の男のセリフがリフレインする。
その声は虎杖と伏黒との声で再生され、空想の男と虎杖と伏黒とが、並んでナマエのことを見ていた。


寮の古い床板をぎいぎいと鳴らしながら進み、階段を降りると、人気のない談話室を抜けて玄関まで足を運ぶ。靴に足を滑り込ませて扉を開き、一歩踏み出した。
裏庭では、寮室の窓から見たのと同じ場所に、五条がじっと立っていた。
ナマエは少しだけ近寄って、お互いに声の届く、しかし以前よりはずっと遠い場所で立ち止まった。
風が抜ける。夏の、青く湿った空気が草木のにおいを鮮明に届ける。

「ナマエ、なんで急に出て行ったの」

口火を切ったのは五条だった。
ナマエはどう答えたものかと口ごもり、五条はそれを急かすことなく待った。夏の虫が鳴き、それから草葉が風に揺れる。それ以外の音はなにもなかった。
ナマエはぐっと息を飲んだ後、おずおずと口を開く。

「…すみません…失礼な態度を取ったことは謝ります。冷静さに欠けてました…ご迷惑をおかけしました」
「そう言うこと言ってんじゃないの、僕は」

五条の低い声に、ひゅっと喉が鳴った。
サングラスをかけていない姿だってこの数ヶ月で少しは見慣れていたと思ったのに、ちっともそんなことはなかった。
青い瞳はナマエを緊張させるし、整った顔立ちも表情を隠されれば恐ろしいほど無機質に見える。
ナマエの様子に五条は溜め息をつき、額に手のひらを当てて言う。

「…違う、怖がらせたいわけじゃないんだ」

打って変わって優しい声音だった。
五条はしばらく言葉を選び、口を開けては閉じてを数度繰り返す。

「…ナマエはさ、僕が任務だからって誰かを自分の家に住ませて、その上一緒に暮らすなんて本当に思う?」
「それは…」

五条が、じり、と一歩踏み出した。ナマエが半歩後ろに下がる。
五条の長い腕がぐんと伸びてきて、それ以上下がることは許されず、ナマエの肩を捕まえた。
気がつくと、そのまま引き寄せられ、五条の腕の中にぐっと閉じ込められてしまっていた。

「ナマエのことが好きだから、おまえのことが心配だから、僕がやるって言ったんだ」

ナマエは言葉を失い、眼前に晒された無防備な五条の温度をくっきりと感じる。
この男はずっと、ナマエに対して無限を張ることはなかった。

「好きだよ、ナマエ」

耳元で囁かれた五条の言葉がじんと鼓膜を揺らす。
ずっと、ずっと欲しいと思っていた言葉だった。絶対に、永遠に、自分には手の届かない言葉だと思っていた。
ナマエは五条の背に手を伸ばし、ぎゅっとしがみつく様に力を込める。ぴったりとくっついた耳には、五条の鼓動が聞こえてきそうだった。

「すきです…私、五条さんのことが、すき」
「…やっと言ってくれた」

五条は一等優しい声で言い、ナマエの髪をすっとほどくようにして撫でる。

「僕さ、ずっと理由を探してたんだ」
「理由、ですか?」

「そう」と相槌をうち、五条は改めてナマエの身体を抱きすくめた。
首元に顔をうずめ、指折り数えるように五条が言う。

「ナマエに何かを贈れる理由、二人で食事する理由、ナマエを僕のそばに置いておける理由。全部にナマエが納得してくれる理由」

服や化粧品を贈り、忙しい合間を縫ってでも家に帰ってはナマエの手料理を食べ、仕事が溜まって時間もないくせにプラネタリウムまで出かける。それらのすべてにそれぞれ理由をつけるだなんてことは、不可能なことだった。
何故なら、理由などひとつしかないからだ。

「でも、理由なんか一個しかなくてさ。僕、ナマエが好きなんだ。それだけなんだよ、本当に」

ぽつんと、雨粒の最初の一滴が落ちるような、穏やかでどうしようもなくささやかな声音は、ナマエの心のやわい部分をぐっと締め付けた。
好きだから何かを与えたい。好きだから向かい合って食事がしたい。好きだからいつだってそばにいたい。
単純で、でもきっと、あの時のナマエに言ったとしても到底信じないような理由だ。

「こんなありふれた理由しか思いつかないんだけどさ、これからも一緒にいてよ」

五条の言葉に返事をする代わりに、ナマエはもう一度強く、五条の体を抱きしめた。
ふたりの頭上をいま、夜が越えていく。


その夜、夢をみた。
初めて五条に会った日の夢だった。
空から、まるで天女が降りてきたのかと思った。
実際は人間で、男で、随分と激しく感情を燃やす、天女とは程遠いひとだったけれど。
美しい男だった。サングラスから覗く青い瞳は透きとおり、まるで真砂を敷いた湧泉だとか、空を閉じ込めた宝石だとか、そういう人間とは無関係の美術品のように輝いて見えた。

「悟、そんなところで何してるんだ」
「うっせ、着地ミスっただけだっつーの」

あの日そう言って、五条はナマエに見向きもしなかった。
だけれど、ナマエの瞳の奥にはその美しさがじっと焼き付き、離れることはなかった。

「伊地知くん!見た!?」
「えっ、あ、はい」
「今のが五条先輩だよ!すごくかっこよかったね!」

白は不在ではなく飽和なのだという。その如く異様なまでの完成度で、美しい男はそこに在った。
自分と同じ人ではないとさえ思ったその男が、どうしようもなく寂しいただのひとだと知った。
そうしているうちに、ナマエは彼が泣くときにはその隣で泣き、その痛みを分かち合いたいと思うようになった。
一瞬一瞬、もしもそばにいられたなら。


目を覚ますと、眼前に五条の顔が広がった。
寝起きにみていい迫力じゃないな、とナマエはまじまじその整った顔を眺める。肌の色は白く、また髪の透けるような色と相俟ってどこか光っているようにさえ見えた。
長いまつげが伏せられ、朝日によって頬に影が落ちる。
肌の上をさらさらと光が流れていく。夏だというのに、この男はこうして眠っていると温度も感じさせない。

「ナマエ、見すぎ」

ぱちり。五条の瞼が上がった。どうやら見ていたことはお見通しだったらしい。

「なに、見惚れた?」
「…からかわないでください」

ナマエが視線を逸らしてそう言うと、五条はその頬を掬い上げ、かちんと視線を合わせる。
空の宝石のような瞳に見つめられ、ナマエは逃げようともしたがそれは叶わない。五条の指が耳の裏を撫で、そのさする音が耳の奥まで響いた。

「ナマエ、かわいい」
「ご、五条さん……」

真っ赤になるナマエを愉快そうに見つめ、それから五条はナマエの額にキスをした。
じゃれつくようにナマエの髪に手を伸ばし、瞼、頬、それから唇の端と順に唇を落としていると、その流れを断ち切るようにコンコンと扉がノックされる。

「ミョウジ、起きてるか。朝食をどうするか聞きに来たんだが」

家入の声だ。ナマエはバッと上体を起こし、ここがどこであるかを確認した。
そうだ、結局あのあと遅いからと言って五条がナマエの借りた寮室に上がりこんだのだ。
「ミョウジ?」ともう一度家入が呼びかける声がする。
ナマエは慌ててベッドから飛び降り、どたどたと扉のほうへ向かってがちゃんと勢いよく開く。

「お、起きてます!」
「朝から元気だな」
「家入さん、おはようございます」

扉の先では家入が目を丸くして動きを止めていた。
自分が一体どんな顔でここに立っているのかはもはや考えたくないところだが、黙ってるわけにもいかない。

「ちょ、朝食でしたよね。あの、適当に済ましますので…」

そこまで言ったとき、ぬるっと背後から腕が這い出てナマエの肩をがっちりと掴み、ぐっと引き寄せた。
誰の、なんていうのは愚問だ。そんなのひとりしかいない。

「そーそー。ナマエはこれから僕と一緒にモーニングに行くからさ」
「ご、五条さん…!」

どうしてこのタイミングでわざわざ出てきたんだ、と抗議をしようとしたが、それは無意味なことだと悟り、ぐっと押し黙る。
家入は驚いた顔をしたあと、ふっと口を緩めた。

「伊地知から話を聞いて来てみたんだが…要らん心配だったようだな」
「はぁ?伊地知ぃ?」
「ミョウジが五条のせいで憔悴しきった様子で高専に泊まってるって話」

家入が少し愉快そうにそう言って、五条は腕の力をぐっと強めた。
「あいつ、マジビンタだな」と頭上から聞こえ、これは何としてでも庇わなければとナマエは固く決意するが、それも火に油を注ぐだけということは知る由もない。

「はは、こんな男に捕まるなんて、君のアンラッキーは相変わらず筋金入りだな」

家入はそう言って、ひらっと手を振ると来た道を戻っていく。
今回はアンラッキーなんかじゃないんですよ、とナマエはくちには出さず、自分の肩を掴む五条の手にそっと触れた。

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