13 イッツ・ノット・オーバー

ナマエに与えられている寮室は二階の西側だった。
一番隅の部屋で、夕方になると差し込む西日が眩しい部屋だけれど、角部屋で落ち着けるところが気に入っていた。

高専二年のある夏の夜、風呂も済ませてもう眠ってしまうばかりというとき、こつん、こつん、と小さなものが窓にあたる音がした。
なんだろう、と思って窓に近づくと、裏庭に見知った男の姿があった。

「えっ!ご、五条先輩!?」

どういうつもりなのか、五条は黙したままナマエのことを見上げていた。
ナマエがおろおろとしていると、口の動きだけで「おりてこい」とナマエを呼んだ。

「え、え、こ、こんな時間にですか?」

届いているのかはわからなかったが、ナマエがそう声に出すとあからさまに顔を歪めた。少なくとも意図は伝わっているらしい。
ナマエはこれ以上待たせて機嫌を損ねてはあとが怖いと慌てて引っ込み、吊るしてあったパーカーを羽織るとぱたぱたと寮の階段を降りた。

「遅ぇ」
「す、すみません…」

はぁはぁと息を切らして五条の元まで辿り着いて、開口一番そう文句をつけられた。突然降りてこいと言ったのは先輩なのに、と思ったけれど、もちろん口答えなど出来るはずもない。
よくよく見ると、五条は何かが入ったバケツを手に持っていた。「ん」とだけ言う。言外について来いと言っているようだった。こんな夜中にどこへ、と思いながら、ナマエは後ろをついて歩く。
しばらく歩いて辿り着いたのは高専の敷地内の、寮から少し離れた空地だった。

「えっと、あの…?」
「オマエ、この前手筒花火に派手にやられたろ」

この前、というのは一週間前、珍しく学生で出かけようという話になって訪れた祭りでのことだった。
ナマエと伊地知と五条、それから七海が半分強制連行されるような形で足を運び、家入だけは面倒くさがって不参加を決め込んだ。
祭りのメインで手筒花火があげられるというので、4人は揃ってそれを見に行った。手筒花火は花火師があげるものではなく、青年会などの地域の男衆によってあげられる。神に奉納する花火である。
男衆たちが並び、それぞれの手筒花火に点火すると、天に響くような轟音とともに火柱が上がる。男衆たちはそれに仁王立ちで耐え、最後にどんっという爆発音とともに手筒の底が破裂する仕組みになっている。この最後の爆発を「はね」と呼ぶ。
4人に一番近い男衆のひとりが途中ぐらっとバランスを崩し、運悪くその瞬間に「はね」が起きた。
破裂した手筒花火の底がナマエめがけて一直線に飛ぶ。避けられる、と思ったが、ナマエの後ろには祭りに来ている一般人がいる。ナマエが避ければ彼らに当たる。
「受けるしかない」と覚悟を決めたとき、胸元に飛んできたはずの破片はナマエにぶつかる直前でぴたりと動きを止めた。

「ナマエ、トロ過ぎねぇ?」

五条の無限だ、とすぐにわかった。
破片はぽとりと落ち、一連の事故に周りがざわつき始める。祭りは中止も同然だった。
結局そのあと4人は駆け付けた祭りの運営スタッフたちに、どうにか怪我をしていないことの言い訳をつらつら述べたのだった。

「あの時はありがとうございました」
「オマエ、避けれたろ」
「まぁ、一応…でも私が避けたら後ろの人に当たっちゃってたので…」

五条はハァーと大きく息をつくと、バケツの中身をがさごそと取り出す。中身は線香花火だった。
ナマエは近くの水道からバケツに水を汲み、二人で向かい合うようにしてろうそくに灯した火を線香花火に移した。

「五条先輩、線香花火好きなんですか」
「はぁ?俺がこんな地味なモン好きなわけねぇだろ」

パチパチパチ、線香花火は五条の噛みつくような声とは裏腹に静かに弾ける。
「じゃあなんで」と聞こうとしたら「オマエ、花火やりたいっつってたじゃん」と先に五条の声が飛んできた。確かにあの祭りの日、伊地知とそんな会話をした気がする。

「覚えてくれてたんですね」
「たまたまな」

線香花火のささやかな光が五条を照らした。その明りにゆらゆら影が揺れ、五条の美しい顔の陰影をつぶさに描き出す。
五条をじっと眺めていると、それに気が付いた五条が緩慢な動作でナマエを見た。

「あ?なんだよ」
「あ、いえ、何でもないです」

ほんの少しの、なんてことない仕草さえ、ナマエの視線をととらえて放さなかった。
線香花火の火の玉は、ぽとんと落ちてしまった。
青い草木のにおいが、夏を鮮明に感じさせる。


五条が最後の学年を過ごすことになった2009年。ナマエは三年に進級していた。
モラトリアムとして自由を許されるこの年に五条が選んだのは、凡人のナマエには想像もつかないものだった。

「ナマエ、ちょっと手伝って欲しいんだけど」
「えっ、なんですか?」

この頃には同期の伊地知は補助監督の道に進むことを決めており、二級になっていたナマエは単独任務や後輩との任務が多く、最終学年である五条とは校内での接点はほとんどなくなっていた。

任務も授業も無い珍しい休日、連れてこられたのは埼玉県某所の古びたアパートであった。
こんなところに何の用だろう、と思いながらナマエは五条の後ろをついて歩く。
やがて五条は二階の一室の前に立ち止まり、勝手知ったる様子で玄関を開ける。

「やっほー、津美紀ちゃん、恵くん」
「あ!五条さん!」

ナマエはぎょっとした。
家の中にいたのは、まだ小学生の、しかも低学年だろう姉弟ふたりだった。

「あれ、五条さんのお友達?」
「そうそう。今日から仲間に入れてやってよ」

その子供たちへの対応に、ナマエは更に驚くことになった。あの五条が、当たり前に柔らかな態度で子供に接している。
確かに二年前の秋以降、五条の様子は地に足の着いたというか、傍若無人なところは変わらないのだが、幾分も落ち着いたような様子にはなっている。それにしても、まさか子供に対して淀みなくこんな態度を取るほどとは思ってもみなかった。

「初めまして、ミョウジナマエです」
「はじめまして、伏黒津美紀です。ほら、恵も」
「…伏黒、恵です…」

これが、ナマエと伏黒姉弟との出会いだった。
五条は遠慮もなしにアパートに上がりこみ、二人も当然のようにそれを受け入れた。

「ミョウジさんもどうぞ」
「あ、ありがとう」

津美紀にそう声をかけられ、ナマエも部屋の中に足を踏み入れる。
姉の津美紀は快活で賢く、恵はまだ人見知りがひどかった。仔細は五条から聞かされていないから推測するしかないけれど、どうやらこの姉弟には両親がいないらしい。
部屋の中にはちゃぶ台とカラーボックス。二人分のランドセルや勉強道具が見受けられる。古い部屋ではあったが、きちんと生理整頓をされた空間であった。

「ナマエ、料理得意なんだよ。津美紀ちゃん料理覚えたいって言ってたよね」
「うん!ミョウジさん教えてくれるの?」
「えっ、あ、私でよければ…」

こうして突然出来た小さな友人に、ナマエはこの日から料理を教えることになったのだった。


ひとしきり姉弟と過ごしたアパートからの帰り道、ナマエは五条に尋ねた。

「あの、五条先輩、津美紀ちゃんと恵くんって一体…」
「ああ、あの二人ね、最近僕が後見人になったの」
「こ、後見人!?」

思いもよらぬ発言に、ナマエは思わず大きな声を上げてしまって、咄嗟に両手で口を塞ぐ。

「弟の恵くんのほうが禪院家の血筋なんだよ。まぁ色々あったんだけど、二人とも両親がいないからさ、禪院家の老害どもに手出しされる前に僕が面倒見ちゃおうって話」

さも当然のようにのたまっているが、とんでもないことを言っている。
「ご両親の許可とかは…」とナマエが言うと「恵くんの親父の許可はあるよ。あと二人の意思も確認済み」と返事が返ってきた。
懐いている様子からして、二人の意思というのは疑う気はないが、父親の許可というのが真っ当なものであるかは大いに疑わしかった。

「恵くんは十種影法術持ってるんだよ。そんなのバレたら禪院家の老害どもが黙ってるわけないだろ?」
「え、十種って…禪院家相伝の?」
「そう」

なるほど、事態は思っていたよりも深刻なものらしい。
てっきり五条の気まぐれかと疑ったが、ごく真面目に二人の後見人という立場を選んだようだ。

「ナマエを連れてきたのは津美紀ちゃんの世話をしてほしかったから。今はまだいいけど、男の僕じゃ足りないこともこれから出てくるだろうしね」
「それはわかりましたけど…どうして私だったんですか?女手が必要なら家入先輩でもいいのに…理由がわかりません」

女児の世話に、男である五条だけでは不足が出てくるというのは理解できる。まぁそもそもまさか五条がそんな気遣いをするというところが驚きなのだが、この際それはどうでもいい。
女であれば、同期の家入のほうが気安い仲のはずだ。彼女も術師らしく多少変わり者ではあるけれど、子供の面倒を見れないほどではないだろう。

「はぁー、おまえも理由とかそういうの好きだよな」

ナマエの言葉に五条は大げさなほど溜め息をついた。
がしがしと自分の髪を乱し、面倒そうに口を開く。

「じゃあ一応言ってやるけど、理由は二つ。ひとつ、硝子はこのあと医師免許取得で忙しくなるってどうせ断られるから。ふたつ、津美紀ちゃんが料理が出来るようになりたいっていうのに、教えるのはナマエの方が適任だと思ったから」

納得した?と最後に尋ねられナマエは「はい」と答えた。

「僕もなるべく顔出すようにはするけど、実家のこととかあってずっとは見てやれないからさ、ナマエも時間あるとき見に行ってやって」
「わかりました。なるべく会いに行くようにします」

流れるような自然さでナマエは五条の話に乗る形になってしまい、それから休みの日には時間を作り、伏黒姉弟の家へ通う生活が始まったのだった。


伏黒姉弟は、よく出来た子供たちであった。
父親は数年前から、母親はつい数ヶ月前から帰らなくなったと言っていたけれど、恐らく母親が帰らなくなる前からそれなりの時間を二人きりで生活していたのだろうと思う。
ナマエが伏黒姉弟の家を訪れるようになって、気がつけば一年近くが経過していた。その間、タイミングのせいなのか、五条と出くわすことは一度もなかった。

「こんにちは」
「ナマエさん!」

津美紀はナマエによく懐いた。弟の恵も、始めのころよりは随分と気を許してくれるようになていた。
家を訪れるときは大抵津美紀と一緒に台所に立った。子供でも比較的安全に簡単に調理できるレシピを教えれば、覚えのいい津美紀はどんどん料理のレパートリーを増やしていった。

「最近は五条さん来てる?」
「うん、丁度昨日来てくれたよ。恵と一緒に出かけてたみたい」
「そっか」

五条は相変わらず時間を見つけてここへ通っているようである。
恵のことはどうやら術師として育てるつもりらしいし、きっと訓練にでも連れて行っているに違いない。

「この前ナマエさんに教えてもらったハンバーグをね、恵と五条さんと三人で食べたの。ナマエさんに教えてもらったんだよって言ったら五条さんすごく喜んでたよ!」
「本当?気に入ってもらえたみたいで良かった」

ここで一緒にご飯を食べることもあるんだな、と、津美紀の言葉から察する。
自分をここへ連れてきたくせに、五条はあまりナマエに語ることはしなかった。

「ただいま」
「あ、恵!おかえり!」
「恵くんこんにちは、お邪魔してます」

津美紀と話をしているうちに恵が学校から帰宅した。そこから三人で台所に立って、今晩のメインである生姜焼きの調理に取り掛かった。

「…五条さんとミョウジさんって、恋人なんですか?」

出し抜けに、恵がそんなことを言った。最近の小学生はマセているなぁと思ったが、彼らの生い立ちのことを考えればそう不自然なことでもないかと思い直した。
恵を見下ろすと、じっと緑色の瞳でまっすぐナマエを見つめている。

「違うよ、ただの高専の先輩と後輩」
「…ふぅん」

恵は少し不満げにそう返した。
それにしても、津美紀はともかくとして恵がこういった立ち入った話を聞いてくるのは初めてのことだった。学校で何かあったのだろうか。

「恵くん、何かあったの?」
「…あの人が…五条さんが、ミョウジさんの話するときは、すごく楽しそうだから」

恵の声で返ってきたのは、予想とは斜め上の台詞だった。
内容というよりは、五条がここで二人ときちんとコミュニケーションを取っているんだということに意識が向いた。

「五条さん、恵くんたちと話せるのが楽しいんだよ」

人は変わっていくものなんだなぁ、と、ナマエはぼんやり思った。
きっかけは知らないが、五条の一人称は「俺」から「僕」に変わった。苛烈な様子も昔に比べればどんどん成りを潜めている。尤も、後輩であるナマエや伊地知に対する突拍子もない悪戯には未だに悩まされているけれど。
線を引くのが上手くなったというか、線を引くことを覚えたというか、これが大人になるということなのだろうと、ナマエは美しい男のことを考えていた。


こつん、こつん。何かが窓に当たる音で意識が引き戻される。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。音方向を見ると、またこつん、と小さなものが窓に当たって音を立てた。ナマエは、この音をよく知っている。
五条悟という男が高専の時分から得意でなかった。
その男はいとも簡単に、ほんの少しの仕草でナマエのペースを乱してしまうから。

「五条さん…」

窓の外、暗がりの中。
透き通るような白い髪の、美しい男が立っていた。

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