11 ジャスト・セイ・グッドバイ

翌日、呪力が安定してきていることを確認したナマエは高専に向かった。
あれだけ自分から呪力がなくなったことを不安に思っていたというのに、いざ戻ると今の生活を手放すのが惜しくなる。我が侭だな、と自分を笑った。

学長室に向かい、扉をノックする。夜蛾の応答を待ってから扉を開けた。

「失礼します。お時間頂いてすみません」

夜蛾は手を止めているものの、周りには呪骸の材料になるだろう羊毛フェルトが積まれている。何年経ってもこのギャップには慣れないななどと思いながら、ナマエは報告をするべく夜蛾の前までとことこと足を進めた。

「呪力が戻ったそうだな」
「はい。昨日の朝から徐々にです。今は以前と変わらないくらい安定しています」
「そうか。体に異変は?」
「ありません」

短く報告を続ける。
夜蛾は報告書でも確認しているのか、手元のタブレットをすいすいと動かした。

「形式上とはいえ監視生活は気疲れもあっただろう、すまなかったな」

夜蛾の言った言葉に、ナマエの思考がびしりと止まった。監視。この恩師はいま、監視と言った。
夜蛾はナマエの異変には気づいていないのか、タブレットを眺めたままだった。

「繁忙期ももう終わりだ。数日休んだあとにテストがてら軽い任務に就いてから本格復帰の方向で考えていてくれ」
「あ、はい、わかりました」

止まったままの思考で、ナマエはなんとか返事をした。
夜蛾に挨拶をすると、部屋を出てふらつく足で高専の中を歩く。今日は学生がみんな揃って高専にいるらしい。グラウンドから組手をするような声が聞こえていた。

敷地内をふらふら歩いていると、後ろからよく知った声で名前を呼ばれた。

「ミョウジさん、お疲れ様です」
「あ、伊地知くん…」

声の主は伊地知であった。仕事の途中なのだろう、タブレットを片手に携え、少し疲れた様子だった。

「今日はその…報告に?」
「…うん」

ナマエの覇気のない様子に、伊地知はどう声をかけたものかと考えあぐねる。
ナマエは考え事をしているのか、どこかぼうっとした様子だ。

「少し、歩きましょうか」

その伊地知の言葉に、ナマエは「うん」と頷いた。
じゃり、じゃり、小さな砂粒の音をさせながら、二人であてもなく敷地の中を歩いた。

「…呪い、祓えたの?」
「えっと…その、はい…」
「そっかぁ」

伊地知の気まずそうな返答を聞いて、五条が恐らく口止めをしたのだろうことはすぐにわかった。
一昨日の夜、出張に出て行ったのはどうやらナマエの呪力漏出の根源となった呪いを祓うためのものだったらしい。
だとして、何故祓除したということを五条は言わなかったのだろうか。ナマエにはわからなかった。

「怪我とかはしてない?」
「はい、五条さんも私も、特に問題ありませんよ」

よかった、とナマエは小さく言った。
二人で歩いていると、そのうちに二人でよく腰掛けていたグラウンドへと続く石段に辿りついた。どちらともなくそこに腰掛け、遠くで組手に勤しむ学生を眺める。

「伊地知くん、今回の件、報告書って見せてもらえる?」
「いや、あの…その…」
「お願い」

どうやら報告書を見せることも止められているらしい。
本来であれば閲覧の権利があるナマエがそう強く言うと、伊地知はいくらか考えた後「わかりました」と言ってタブレットを取り出した。

「ありがとう」

受け取ったタブレットをすいすいと操作する。

ーー記録、2018年4月熊野市山間部旧××村(1972年廃村)において三級呪霊、及び二級呪霊の発生を確認。高専所属担当術師、ミョウジナマエが当該呪霊の祓除の任務にあたる。
祓除後、未報告の呪霊(二級相当)の発生をミョウジ術師が視認。継続して祓除を遂行する。
遂行後、呪霊の消失を確認。同時刻よりミョウジ術師の呪力漏出が始まる。
翌朝高専に帰投後家入硝子による診断を受けるが、肉体的な異常は無し。
五条悟の六眼の観測により、ミョウジ術師の呪力漏出を確認。約6時間でミョウジ術師の呪力が非術師相当まで低下。術師としての稼動が困難と判断される。
また漏出した呪力は消滅しておらず、何らかの形で搾取されていることが予測される。
搾取先での呪力の暴発、ミョウジ術師への逆流、及び呪霊、呪詛師等からの洗脳、操作防止のため、五条悟にミョウジ術師の監視、本件の解決を一任する。
2018年7月、特級術師五条悟へ当該呪霊の調査、祓除任務を命ずる。

前半は、自分の提出した報告書に基づき書かれたものだ。この先に、一昨日行われたであろう祓除任務のことが追加されるはずだが、どうやら五条はまだ報告書を提出していないらしい。
当たり前だ。帰って早々ナマエを連れ出して、その上夜にはまた違う任務に出て行ってしまったのだから、そんな時間なんてあるわけがなかった。

「監視って、私知らなかった」

馬鹿だね、とナマエは情けない声で言った。
伊地知は隣でどう返答したものかと気まずそうに視線を泳がせる。
遠くで学生の声が聞こえる。蝉ももう鳴き始めた。家政婦として働くようになってから、三ヶ月が経過していた。それはすべて監視という任務だった。

「伊地知くん、私ね、五条さんのこと好きなの」

膝を抱えて、その隙間に落ちていくような声だった。
困惑した。家が無くなって、呪力が無くなって、どうしようもないと思って、そうしたら五条が助け舟を出してくれて。どんな無理難題を吹っかけられるのかと思えば、穏やかで静かな時間だけが流れていった。

「もしかしたらさ、五条さんが私のこと家政婦とか言って面倒みてくれたのは、ちょっとでも同じ気持ちでいてくれたりするのかなって、勝手にそう思ってた」

まるでただの同棲みたいだと浮かれて、それを打ち崩されて。
だけどまだ自分は戦ってもいないのだからと奮い立たせて。
同情でも良かった。そばにいて、自分のことを見てもらえるようになろうと思った。
なのに。

「ほんと、馬鹿だよね、はは」

これらはすべて同情でさえなかった。ナマエを自分のマンションに住まわせ、一緒に生活をしていたのは、任務の一環だったのだ。
五条の感情はきっとそこにはない。

「伊地知くん、あの、寮の部屋って申請できるかな」
「…わかりました。空いてる部屋をすぐ用意してもらいます」

蝉の声が聞こえる。
うだるくらいに暑いはずなのに、いまは芯から冷えていくような感覚だ。

「私、一度家に戻って五条さんに報告してくる」

ナマエは立ち上がり、スカートについた砂をぱんぱんと払った。
幸い五条は今日帰ってくると言っていた。急な予定の変更さえなければ、会えるはずだ。


マンションに戻ったナマエは、ここへ来てから五条に買い与えられたものをずらりと並べる。
服や食器は返せるからいいが、化粧品類は迷うところである。高価なものはなるべく返してしまいたいけれど、使用済みだし返されてもどうしようもないだろう。
そんなことをしていると、いつもの調子で五条が玄関のドアを開けた。

「たっだいまー!」
「五条さん、お疲れ様です」

ナマエはいつも通り玄関まで出迎えに行き、五条の脱いだ靴を揃える。

「今日さぁ、出張先でめちゃくちゃ美味しいスイーツ見つけたんだけどーー」

自室に戻るまでの廊下で五条が機嫌よく話をしていて、リビングに辿りついてふっと言葉を止めた。
五条の眼前にはナマエが先ほどまで並べていた私物が鎮座している。

「…ナマエ、何、これ」
「あ…これ、お返ししようと思って」
「はぁ?」

ナマエの言葉に、五条は噛み付くような速度でそう返した。
ぐいっと目隠しを上げ、その青い目でナマエのことをじっと見つめる。
不思議と、今日は少しも怖いとは思わなかった。

「呪力が戻ったので、家政婦のお仕事もお暇させてもらおうと思って」
「だからって何で返すって発想になるわけ?」
「だってこんなに高価なものいただく理由がありません」

どん、と大きな音がした。五条が自身の拳で壁を殴った音だった。
部屋の中の温度が、空調の設定温度より何度も低く感じる。しんとした室内に、ごくささやかな機械の音だけが聞こえた。

「理由理由っておまえホントそればっか」

這うような声だった。普段この人は道化のようなことばかりしている男だ。こんな声を聞いたのは久しぶりだ。
ナマエはじっと五条を見上げる。震えてしまいそうな唇を律して言葉を吐き出した。

「呪力の回復も確認出来たので、監視の必要ももうないんです」

五条が、ぐっと息をのむのがわかる。
暴いてしまったな、と思った。でももう後戻りは出来ない。それは二人ともが良くわかっていたことだった。

「ナマエ、それ…」
「今日夜蛾先生に聞きました。報告書も読みました」

家までなくしたのは偶然だろうが、ナマエがこのマンションに住むように仕向けたのは五条だ。そしてそれは五条の意思ではなく、ただの課された任務だった。

「…監視目的でここに住むよう誘導したのはわかります。原因もわからなかったわけですし、私を介して呪いの呪力が逆流なんてことがあったら一般人に被害が出かねませんし」

ちゃんと、監視と言ってくれればよかった。家政婦なんてラベルを貼らずに、二次被害の防止のための監視だと言ってくれればよかった。
そしたらこんな期待、せずに済んだのに。

「ナマエ」
「でも…それならあんな、思わせぶりなこと、しないでください」

ホットチョコレートを作ってくれたのも、笑えていなかったことを気遣ってくれたのも、わざわざ休みを潰して買い物に連れ出したことも、優しい顔をしてくれことも、手をつないで歩いたり、誕生日に手料理が食べたいと言ってくれたことさえ。

「…さすがに、傷つきます…」

期待なんてしたくなかった。
泣いてしまいそうだ。

「ナマエ、僕は」
「いろいろ気を遣わせてしまってすみませんでした。今日は高専に申請して寮に泊めてもらうことになっているので、失礼します。あとこれ、今までのお給料です。ろくに働いてませんでしたから、お返しします」

ナマエは早口でそう言うと、いままでの給料袋をぐっと五条に押し付ける。
必要なものだけを詰め込んだボストンバックを持って、何か言葉をかけられてしまう前に玄関に向かって歩き出した。これ以上何かを喋れば、すべて涙に変わってしまう気がした。
乱暴に靴へ足を突っ込み、部屋を出る。五条は追ってこなかった。


ナマエはその足で高専に向かった。
荷物はそう重くはないはずなのに、ひどく重いように感じた。高専に続く階段を登ると、入り口に人影が見える。

「あ、伊地知くん」
「部屋の用意、出来てますよ」

仕事終わりの伊地知が、ナマエの到着を待ってくれていたらしい。
「鞄持ちましょうか」と言われ「大丈夫だよ」と断った。久しぶりに歩く寮までの道は、昔と少しも変わっていない。
高専に出入りし続けているとはいえ、卒業後はあまり寮の方へ足を向けることはなかった。

まだいくらか明りのついている寮に足を踏み入れると、談話室のほうから学生の声が聞こえた。
その中に聞き知った声がいくつかあった。

「伊地知さん、ミョウジさん、お疲れ様です」
「恵くん、こんばんは」

挨拶をしてきたのは、伏黒だった。伏黒の後ろから釘崎が顔を出し「知り合い?」と関係を尋ねる。

「五条先生の後輩。昔いろいろ世話になった」
「そうなの?一年の釘崎野薔薇です」
「初めまして、釘崎さん。今日からちょっと寮室借りることになるので、お邪魔します」

挨拶をする釘崎にナマエは必要なことだけを伝える。伏黒はナマエが五条のマンションで暮らしていると知っているはずだ。何か追求されやしないか、少し肝を冷やした。

「ミョウジさん、こちらの部屋です」

伊地知が気を回したのかそう声をかけ「じゃあね」と二人に言ってから伊地知の後を追いかけた。
二階へ続く階段を登る。伏黒はナマエの背中をじっと眺めていた。

「ごめん、伊地知くん。助かった」
「いえ…」

寮の部屋は、二階の西の隅の部屋だった。奇しくも高専在学中に使っていた部屋と同じ部屋だ。
ありがとう、と言って伊地知と別れようとすると、伊地知が「あの」とナマエを引き止める。

「ミョウジさんが休職している分の任務、五条さんが全て請け負って回ってるんです。出張がこれだけ増えたのも、その影響で…」

それを聞いて、あのとき、出張のことを尋ねたとき、伊地知が言い淀んでいた本当の理由が分かった。ナマエは予想だにしていなかった話に言葉を詰まらせる。

「なんで、そんな…」
「五条さんには口止めされてるんですが、その…ミョウジさんの監視というか、調査の権限も、五条さんがほとんど無理矢理もぎ取ったものなんですよ」

すみません、ここまで言うつもりはなかったんですが…。と伊地知は申し訳なさそうに肩をすくめた。

「今日は休んで下さい。明日は私も内勤ですので、もしも相談があれば時間を作りますから」

おやすみなさい、と言って、伊地知は今度こそ踵を返した。
伊地知の言葉がぐるぐると頭の中を回る。古い寮の床板は、伊地知が歩くたび、ぎいぎいと音を鳴らしていた。

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