10 コンステレイション・ライン

五条が戻ったのは、翌日の昼前のことだった。

「たっだいまー!」
「五条さん、お帰りなさい。お疲れ様です」

もうすぐ帰る、と連絡を受けていたナマエは玄関で待ち構え、そう声をかける。
ナマエの晴れた表情に、五条は少し驚いていたようだった。

「ただいま。悠仁はいる?」
「はい。今リビングで一緒に映画見てたんです。ちょうど終わったところですよ」
「まさか夜通し?」
「まさか!昨日の晩に二本見て今朝もう一本だけ見ようって」

五条はひょいっと靴を脱ぎ、ナマエはそれを自然な仕草で揃える。五条がリビングに足を踏み入れると、丁度虎杖が入り口のほうに顔を向けていた。

「先生おかえり!」
「ただいま悠仁。どうだった?お泊り会」
「楽しかったよ!結局先生んちでも映画見ちゃった」

お泊り会って、と呆れ半分で五条の背中を見るが、楽しそうに話している二人を見ているとすぐにどうでもよくなってしまう。
虎杖はどんな映画を見ていたかを話し、五条と感想を共有した。ナマエは再生の止まったディスクを取り出し、ケースへしまう。

「じゃ、そろそろ高専戻ろっか。下に伊地知待たせてるし」
「えっ!伊地知さん待ってんの?」

虎杖は伊地知を待たせてると聞き、あたふたと準備を始める。と言っても、持ち物などそう多くは無いのだが。
借りていた五条のルームウェアから自分の衣服に着替えると、五条と二人連れ立って玄関へ向かう。ナマエは後ろから見送りのためについていった。

「ミョウジさん、お世話になりました!」
「ううん。私のほうこそありがとう」
「頑張ってね!」
「うん、頑張るよ」

虎杖に「何を」と具体的な話はひとつもしていない。けれど、昨晩のことであることは言わずとも通じ合えた。
暗号のように主語のない会話を成立させる二人を交互に見て五条が「なになに?」と興味津々で尋ねる。ナマエは「秘密です」と言って、人差し指を口の前に立てた。

「えー。まぁいいや、今度絶対聞くから」

拗ねた様子で五条が言った。虎杖もナマエもそれをくすくす笑う。
玄関でそれぞれ揃えられた靴を履いて、がちゃりと大きなドアを開ける。

「ナマエ、すぐ戻るからお洒落して待ってて」
「え!?お洒落、ですか!?」

じゃあね、と出て行く二人の背中に「行ってらっしゃい」と声をかけた。


一時間と少しで、五条がマンションへ戻って来た。
どこへ行くかも知らされていないが、お洒落、と言われたからにはそこそこの格好をする必要があるのだろうと判断したナマエは、五条に買い与えられたシャツワンピースを着ていつもより丁寧に化粧を施した。

「おかえりなさい、五条さん」
「ただいま」
「出かけるって言ってましたけど、どこに行くんですか?」

靴をぽいっと脱ぎ、五条はすたすた廊下を進む。
ナマエは靴を揃えてからその後ろを追った。

「秘密」

出掛けの言葉を根に持っているのか、五条はわざとらしくナマエが使った言葉と同じ言葉で返す。ぽかんとするナマエを置いて、そのまま自室に入ってしまった。
中からがさごそと衣擦れの音がして、着替えているのだと察したナマエは慌ててリビングに移動した。


五条がナマエを連れてきたのは、都内のプラネタリウムだった。
移動はもちろん五条の街乗りだという高級外車で、相変わらず下車時には相当目立っていたが、初めの頃と比べると緊張もかなり減っていた。

「ちょっと意外でした」
「何が?」
「五条さんがプラネタリウムに来てまで星を見ようだなんて思うことが、です」

プログラムの上映開始までの間、ナマエと五条は併設するカフェで期間限定だというドリンクを飲んでいた。
ナマエは夏みかんのソーダ、五条はマンゴーのシロップがたっぷりかかったデザートドリンクだ。

「昨日の出張先、結構星綺麗でさ、ナマエなら星座の話とか色々知ってんのかなって気になって」
「え、知らないですよ?」
「じゃあ丁度いいじゃん。夏の課外学習ってことで」
「ふふ、学生じゃないんですから」

虎杖と話したおかげか、数日前までの変な気遣いとかそういうものがなくなっていた。マンションに暮らし始めて少し慣れた頃のような、そういう自然さが戻ってきていた。

「どうかしました?」

ふと視線を上げると、サングラスの向こうの青い瞳が、ゆるく細められたまま、ナマエのことを見ていた。

「いーや、なんでも」

五条はそう言ってはぐらかし、そろそろ行こうか、と言ってドリンクを飲み干して立ち上がる。ナマエも大人しくそれに続いた。
自分の分は自分で払います、なんていう悪あがきは辞めた。

二人でチケットをスタッフに手渡し、プラネタリウム特有の真上を難なく見えるよう設計されたリクライニングチェアに並んで座る。
五条の足が長すぎて不恰好に余っているのがおかしかった。

「ナマエ笑いすぎでしょ」
「だって…足が長いって本当はかっこいいことのはずなのに…ふふ、五条さんでもそんなかっこ悪い体勢になることあるんですね」
「おまえ後で覚えときな」
「えっ!」

五条は脅し文句のようなことを言うけれど、今日はそれが本気でないように聞こえる。五条の言い方が変わったのか、自分の捉え方が変わったのか。

「ほら、始まる」

アナウンスとともに、照明が落とされていく。
天井に満点の星が映し出され、聴き心地の良いプラネタリウムのスタッフによる解説が始まった。

プログラムの内容は、夏の星座だ。
天井には7月の夜9時ごろの空が映写された。こと座のベガとわし座のアルタイル、はくちょう座のデネブで形成される夏の大三角が東の空に見える。南の空にはさそり座のアンタレスが真っ赤に輝き、南南東にいて座が昇る。
このいて座は、さそり座の赤く輝く心臓を狙っているのだそうだ。
天の川もよく見える。夏は天の川が最も美しい季節で、夏の大三角はその中心にある。
少し先の話だが、8月になればペルセウス座流星群が見える。空の暗いところでは、1時間に50個以上の流れ星を観測することができる。
高専でも相当の数の星々を視界に入れているはずだが、改めて向き合うとこんなにもたくさんの見えない線で繋がった星座があるのだと、ナマエは舌を巻いた。
ちらりと隣を横目で見ると、五条がその視線をしっかりと天井に向けている。例えば今解説されている星の神話に出てきそうな美しさだと、ナマエはその輪郭を視線でなぞった。

40分程度でプログラムは終わり、場内が明るくなる。
小さい頃にプラネタリウムに来たときは早々に眠ってしまった記憶があるが、今日は少しの眠気も催さなかった。

「意外と面白かったね」
「はい。私はすごく面白かったですよ」

リクライニングチェアに腰掛けたまま、五条がナマエに言い、返事を聞いて満足そうに笑う。

「いて座とかさそり座とかって夏の星座なんですね」
「あー、それ僕も思った」

星座といえば占いなどでよく耳にする十二星座のイメージが強く、そう大して普段から星座に興味を持っていない二人にとっては少し新鮮な事実だった。
二人は人波に乗りながら席を立ち、出入り口へ揃って歩いていく。

「僕、いて座なんだよね」
「え、五条さん誕生日いつでしたっけ」
「12月7日」

冬生まれのイメージは昔からあったが、日付までいつと意識はしていなかった。
南斗六星を有するいて座の生まれらしい。

「じゃあまだしばらく先ですね」

冬は、五条によく似合う季節であると同時に、五条をどうしようもなく孤独にさせる季節であるとナマエは思っている。
それは透き通るような髪の色のせいでもあったし、昨年起こった事件のせいでもあった。
もし今年のその日、彼のそばにいられたなら、どれだけいいだろう。

「誕生日、ナマエが料理作ってよ」

考えを見抜かれたみたいなタイミングでそんな言葉をかけられ、ナマエはぎょっと隣を見る。五条はまっすぐ前を向いていて、視線が絡むことはなかった。

「何でですか、五条さんなら物凄いレストランとかでディナーでもしてるでしょう?」

昨年までの誕生日をどう過ごしていたかは知らないが、五条ほどの人間が誕生日をひとりで過ごしているとは到底思えなかった。
それとも冬の間まで、もしかするとこの先ずっと、呪力が戻らないまま家政婦を続けろということだろうか。

「ナマエがいいんだよ」
「…理由がわかりません」
「ほんっとに好きだね、理由とかそーいうの」

五条が少し馬鹿にしたみたいな声音で言うから、むっとして見上げると、今度はかちんと視線が噛み合った。
真っ黒のサングラスの向こうの瞳は、一体どんな温度でこちらを見ているのか、ナマエにはわからなかった。

「ほら、次はランチに行くよ。デザートのケーキが美味しいとこ見つけたんだ」

そう言うと同時に、五条はナマエの手をぎゅっと掴んでしまった。ナマエは突然のことに何の反応も出来ずに、されるがままで手のひらが触れ合う。まるでこんなのデートだ、と思った。

「デートみたいでしょ」
「えっ、なんですか?」
「…なんでもなーい」

五条が言った言葉は、前に向けて発したものだから、ナマエの耳にはろくに聞こえなかった。
ひょっとすると、五条の行動のすべては同情ではないのかもしれない。はっきりとした感情のカテゴライズはされていなくても、もしかすると同じ気持ちでいてくれるのかもしれない。
そんな淡い期待が、ナマエの胸のあたりをくすぐった。


少し遅めのランチを終えて、それらかふらふらと五条の買い物に付き合ったあと、夕方にはマンションに戻って来た。
どうやら、五条はこのあとまた任務に出て行くらしい。

「明日の夜には帰るよ。多分20時くらいまでには」
「わかりました。いってらっしゃい」

玄関先で五条を見送る。
五条はナマエの頭をぽんぽんと数回撫でると「いい子にしてるんだよ」とまるで小さい子供に言い聞かせるようなふうに言った。
小さくなっていく背中を見つめ、エレベーターに乗り込んだところまでを見届けて、ナマエは部屋に戻った。

今日は楽しかったな、と一日のことを振り返る。
朝から虎杖と映画を見て、五条が戻ってきたと思えば突然プラネタリウムに連れて行かれた。人工とはいえ映し出される星々は美しく、解説もわかりやすく面白かった。
そしてなにより、五条が隣にいた。

「お誕生日かぁ」

まだ数ヶ月も先の話だ。季節はこれから夏本番というところで、寒さとは程遠い。
その頃の自分は一体どうしているのだろう。

「…え…あれ…?」

ふと、温度のない液体が注ぎ込まれたような感覚がナマエに宿った。
ナマエは自分の手のひらをじっと見つめる。違和感がある。
いや、違和感という言葉は正しくない。この感覚は、ついこの間の4月まで、自分の中で当たり前のように感じていた感覚だからだ。

「呪力が…戻ってる…?」

腹の真ん中あたりで生まれた呪力が、胸を渡り、肩を通り、全身に巡っていく。
どうして急にこんなことが。いままでずっと呪いを見ることさえ出来なくなっていたと言うのに。
そうか、とひとつの仮説にたどり着いた。それが真実であったとしてもそうでなかったとしても、選べる道はひとつしかない。

「…この生活も終わり、か」

喜ばしいことのはずだ。
呪力が戻れば術師の仕事が出来る。そうすれば五条に頼ることもない。部屋は探さなければならないだろうが、それは瑣末な問題だ。
もとの生活に戻れる。

「さみしいな」

漏れ出た本音は誰の耳にも届くことなく、広々としたリビングの隙間に消えてしまった。
大きな窓の向こう側のビル群は、今日もそ知らぬ顔で空を占拠している。

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