09 アイム・ルッキング・フォー

高台から見下ろす村は、すでに廃村から40年以上が経ち、家屋らしい建物はそれほど残っていなかった。
地面に這いつくばるようにしてトタンや角材が転がり、プラスチック製の容器が割れ、また金属のジョウロが錆びて茶色くなっている。
手入れもされておらず、かつて道路として整備されていた道も草に覆われ、また周囲の木々も好き放題に伸びている。

「…流石にもう戦闘の痕跡はないか」

五条は高台からひと飛びで村の入り口に降り立ち、4月に残されたナマエの呪力の痕跡を辿ろうとするが、残念ながら日が経ちすぎているために霞のような濃度であった。
村の入り口近くには地蔵菩薩像が並び、いずれも倒れていたり欠けていたり、人の手が入っている様子はない。

「五条さん、帳は…」

ひと飛びで降り立った五条とは違い、急いで道路をまわって降りてきた伊地知が、息を切らしながら五条に言った。
五条は「いらないでしょ」と返事をして村内を見渡す。

「伊地知、車まで戻ってて」
「…五条さん、地形が変わるくらいの損壊は勘弁してくださいよ…」

伊地知は五条が車に戻るよう指示した理由を正しく理解し、人知れずため息をついた。

「大丈夫だって」

そんじゃ。と手をあげ、五条は村に足を踏み入れる。夏だというのにあたりの空気は薄ら寒く、遠くから濃度の高い呪力の気配を感じた。
ざり、と足元の地面を鳴らし、廃村の中を見て回る。
殆どの建物が倒壊し朽ちていく中で数軒の家屋はしぶとくその形を残していた。
子供が無邪気に遊んでいただろうセルロイドの人形も、こんなところに転がっていれば薄気味悪さを増長させるアイテムでしかない。
これは昼間に来ても充分気味が悪い場所だろうな、とセルロイドの人形を爪先で転がす。

「あっちか」

思いの他村中の道は入り組み、所々五条の胸ほどの高さの石段が備えてある。
恐らくかつてはこの石段の上に柵が備えられていたはずだ。これを回避するには右に左に大きく回り道をしなければならない。外敵を容易に村中に招かない工夫だろう。近代に始まったこととは考えづらいから、この村がそれ以前の、少なくとも刀を持って戦っていた時代からあっただろうことが推察される。
もちろん、五条にとってこの石段が進行の妨げになることはなかった。
ひょいっと石段を登り、最短距離で進んでいく。いくつかの石段を越えたあたりで、赤く滲むような光が見えてきた。
件の呪霊だろう。ざわざわと周囲の木が風で鳴る。

「ふぅん、これが例の呪いね…」

五条は目の前の呪いをまじまじと観察する。薄ぼんやりと白み、ゆらめく霧のような様子だったのが、五条を前にしてたちまち輪郭を動かし始めた。
それはやがて行灯を持った女の姿となり、そのうちに見知った女の顔を真似た。
ナマエだ。

「ふんふんなるほど、これが風姿を模倣するって件ね」

どういう基準でこの呪いは真似る人間を選んでいるのか。呪霊の認識した人間を真似るという線はないだろう。何せ五条はこの呪いに初めて対面したのだから、4月の時点でナマエの前で五条を真似ることは出来なかったはずだ。
無作為に人間の姿を模倣する呪霊もいなくはないが、それもまた今回は当てはまらない。五条もナマエも顔見知りを真似られている。

「全ッ然似てねぇな」
『火を…』

祓うことは簡単だ。術式を使うまでもなく、この程度の呪いならもちろんすぐに処分できる。
しかしそうはいかない問題があった。ナマエの呪力漏出だ。
現在はいわばナマエの呪力を人質に取られているような状態にある。
万が一縛りを課せられてたり、祓った瞬間の力が紐づいてナマエまで届けば、彼女がただでは済まなくなる。

「さて、オマエは何の呪いなんだ?」

目の前の呪いに向かってそう言葉を投げた。
呪霊は白い顔をぼうっと五条に向ける。手の中の行灯の炎が、ごぅっと燃え上がった。

『火を、貸してくれませんか』
「火ィ?」

行灯の中では炎が燃えている。だのにこの呪いは火を貸せという。
五条は炎をじっと観察した。普通の炎ではない。鬼火…いやそれも違う。この違和感は何だ。一体。

『火を、貸してくれませんか』

人語を話すとはいえ、コミュニケーションは取れないようだ。先ほどと同じセリフを繰り返した。
熊野、夜、炎を求め、人に化ける。

「ああ、なるほど」

五条は数ある呪いの可能性を思い浮かべ、ひとつの結論に辿り着いた。
ーーこれは肉吸いだ。

「しかもいくつか混ざってるな」

肉吸いとは、主に熊野をはじめとするこのあたりの地域で言い伝えられている妖怪の一種である。
女の姿に化け、火を貸してくれと言って道ゆく人間から行灯を取り上げて、闇に乗じその肉を喰らう。
しかしこの呪いはそれだけでなく、性別を問わず人の風姿を真似る。しかも呪力の表層から、対象の人間の意識を読み取り知人に化けるらしい。

「随分良く出来た呪いだな」

五条は間合いを詰めないまま、肉吸いの挙動を観察した。
この呪いの厄介なところは、単純な呪力の問題というより面倒な性質だろう。呪力で言えば精々二級、ただナマエとは相性が悪すぎた。

『火を、貸してくれませんか』


ナマエがまだ入学して間もない頃だった。

「オマエの術式、炎だろ」
「な、なんで知ってるんですか…」

突然かけらた言葉に、ナマエはひどく驚いていた。
彼女を雑魚呼ばわりした日から、この後輩は如実に五条を避けていた。廊下ですれ違う時は目を逸らし、談話室でも七海か灰原の背後に隠れる。
その日はたまたま二年生が任務に出ていて、ナマエは伊地知と二人で過ごしていたようだったが、伊地知が何か忘れ物でもしたのか寮に入っていく姿を見かけたのだ。
タイミングを見計らい、五条はグラウンドに続く石階段へ腰掛けるナマエに声をかけた。

「見えてるから」

そう言って自身の六眼を指差せば、ナマエは納得したような様子だった。

「そ、そんなことも見えるんですね…」
「まぁな。で、オマエはそんないいモン持ってて何で弱いわけ?」
「えっと…その…」

伊地知や二年生と話す時と違って、明らかに萎縮していて無性に腹が立った。何でそんな顔するんだ、ムカつく。

「わ、私ビビりで…近接戦闘怖くって…あの…」
「ハァ?炎なんかいくらでも応用効くだろ」

ナマエは膝の上で組んだ手をぎゅっと握った。
腰を折るようにして顔を覗き込むと、強く唇を噛み、泣くのを堪えているようにも見えた。

「何で術師なんかやってんだよ」
「り、理由を見つけるためです」
「理由ぅ?何のだよ」
「ミョウジ家相伝の術式を、わ、私なんかが持って生まれてきた理由、です…」

生まれというものは平等に不平等だ。
選ぶことも、逃げることも出来ない。容姿、家柄、血縁。呪術師にとっては呪力、術式も加えられる。
そんなものに理由なんてない。あったとしてもそんなものは後付けだ。
五条家、六眼、無下限呪術。五条は思い浮かべた全てに苦い顔をする。

「ンなモンあってたまるかよ」

五条の言葉に、ナマエはびくりと肩を震わせた。
望んでもいないものをこれだけ与えられ、その上理由なんてつけられたらたまったものではない。
ナマエは怯えていたが、それをフォローしてやる気はなかったし、そもそもそんな気があるならもっと言葉を選んでいただろう。

「ま、いいや。オマエ、なんかすぐ死にそーだし」

見つけたから思わず話しかけてみたけれど、これ以上話していても面白いことはなさそうだ、と五条は踵を返す。
弱いやつは嫌いだ。疲れるし、何より苛々する。


「ナマエも相変わらず引きが悪いね」

教え子と二人で映画でも見ているだろう彼女の顔を思い浮かべる。
ビビリのくせに相伝の術式を継いで、しかも高専じゃ僕みたいなのに苛められて。その上それからずっとその厄介な男に好かれ続けている。出会った頃から、運の悪いやつ。

『火を、貸してくれませんか』

五条は肉吸いの行灯を避けるように呪力を小さく放ち、その腕を切り落とす。
正体が解れば、手加減も読み合いも必要ない。
ギェ、と鳴き声のようなものがして、行灯が音を立てて地面に落ちた。
和紙のような囲いが破れ、炎が漏れ出す。地面に落とされてなお消えない炎は、ナマエの呪力で作られる炎だ。

「ビンゴ」

五条はそのまま肉吸いとの距離を詰め、先ほどよりも大きな呪力を放つ。肉吸いはそれを煙のように避けると、暗がりからぐわんと口を開いて五条めがけて飛びかかった。
ナマエの見た目でそれやられんの最悪だな、と考えながらふいっと体重の移動だけで躱す。
すると肉吸いは再び輪郭を無くして蠢き、今度は男の形を取った。長い髪を後頭部でひとまとめにし、前髪をひと房だけ顔に垂らす。切長の双眸と薄い唇。大きな耳たぶに重そうなピアス。

「オマエ、それは悪手だな」

ーー五条のたったひとりの親友である。

『火を、貸してくれませんか』

五条は人差し指を胸の前で天に指し、呪力を込める。
夥しいほどの力がそこに収束し、空気の流れさえ変えた。ごぉ、と呪力が鳴る。

「術式反転、赫」

その言の葉とともに放たれた呪力は空間を弾き出し、目を見張る速さで肉吸いの体を貫いて廃村の奥の山まで到達した。
ざざざざと呪力が進んだあとを追うように、木々が音を立てながら倒れていく。奥の山まですっかり一本の道が出来上がってしまった。

「その顔は半年ちょっと前に殺したばっかりなんだ」

五条の放った術式により肉吸いの体は霧散し、同じく肉吸いの呪力で構築されていたであろう行灯もどろりと溶けていく。
続いてナマエの炎は波を引くように地面に吸い込まれていった。
行灯が檻となり、ナマエの炎を囲っていたのだった。
五条は肉吸いの呪力が再構築されないことと、吸い込まれていったナマエの呪力の方角を確認し、長いコンパスで来た道を戻ってゆく。

ふと、村の入り口までたどり着いて空を見上げた。新月の夜だから、星の輝きがいつにも増して濃紺の空に煌いている。
高専も充分に山奥にあるが、それと同じか、それ以上のまばゆさをもって夜の主役たる趣きである。
星座の名前など五条にはわからないし興味も無いことだが、ナマエは知っているのだろうか。脳裏で笑うナマエの顔が浮かぶ。

「伊地知、終わったよ」

黒塗りのセダンの前に立って待っていた伊地知に、五条は軽く手を挙げた。
伊地知はホッとしたような顔をして、後部座席のドアを開ける。五条がそれに乗り込むことを確認してから扉を閉めると、回り込んで運転席へと着席した。

「ナマエには祓ったことまだ言わないで」
「えっ」

エンジンをかけると、車を走らせもと来た道をゆく。
走り出して数分で五条がそんなことを行って、伊地知は思わず声を上げた。

「…ですが、呪力が戻ったならミョウジさん自身でわかるのでは…」
「いいんだ」

五条の声があまりに静かで、続く言葉は見つけられなかった。
五条は目を閉じ、昔の、まだ学生だった頃のことを思い浮かべる。あの頃に比べて、ナマエは五条の前でも随分笑うようになった。

「もう少しだけ、探したいからさ」

何を、と伊地知が尋ねることはなかった。
車は夜の山道を走る。マンションにたどり着くまで、何かいい理由が思いつくだろうか。
五条はナマエと暮らすようになってからずっと、理由を探し続けていた。

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