逃げるが勝ちとは限らない


昨日の記憶がない。社会人として恥ずべき事態だが、目の前に転がる問題はそれだけではなかった。

「……うそでしょ」

ぱちりと目を開けた先で長い金髪が寝転がっている。一瞬女性かと思ったが、覗く筋張った筋肉はどこからどう見ても男だ。自分の姿を見下ろす。辛うじてショーツは履いているけれど、その他には何も身にまとっていないままシーツに包まれていた。

「んっ…んんっ……」

男が小さく呻いた。こっそりベッドを抜け出して正面に回るとさらりとした面持ちのなかの薄い唇がすうすう小さく寝息を立てている。目の前の彼が身じろぎをして起きてきそうな気配がしたので、慌ててそのあたりの床に散らばったブラジャーと仕事着を急いで身にまとって部屋を飛び出した。
ヤバい、不味い。なんでこんなことになってんだ。頭の中を様々な書体が高速で駆け抜けていくような気分になる。薄暗くてちょっとかび臭いあからさまにラブホテルだとしか思えない廊下を駆け抜けた。

「はぁ…はぁ…はぁ……」

建物を出たところでぱっと振り返る。明るいから電飾は切られているが、やっぱりHOTELの文字とご宿泊、ご休憩の文字が目に飛び込んできて、自分がやらかした失敗について明確に自覚した。


クソ部長に終業ギリギリで仕事を押し付けられ、金曜日だというのに残業に追われた。会社を出たのは午後10時前。腹が立ったからもう今日は飲んで、終電がなくなってもタクシーで帰ってやろう、と意気込んで飲み屋街に足を踏み入れた。

「飲むぞッ!」

とりあえず飲み屋街の入り口付近にあるアイリッシュパブで二杯ほどビールを引っ掛けて、それから気軽な居酒屋に入る。いい感じに酔っぱらってきたところでバーとか行っちゃおうかなぁなんて思ったが、今日は日本酒の気分だし、と別の居酒屋に足を運ぶことにした。

「れねぇ?あーしに仕事まかせてどこ行ったとおもう〜?」
「おー、どこ行ったん」
「キ・ャ・バ・ク・ラ!お気に入りの子の誕生日だからぁ〜とか喫煙室で言ってたの!まじはたらつ〜!!」

ナマエはアルコールの回りきった頭でダラダラと愚痴を垂れる。おひとりさまのカウンター席で相槌を打ってくれるのはもちろん同行者ではなくたまたま隣になった行きずりの相手である。

「そらヒドいなァ」
「でしょぉ〜?あいつ、あーしのこと目のカタキにしてんの!女にタマの営業なんか出来るか、とか言ってきてさぁ〜」
「このご時世会社で言うてええ言葉ちゃうわなぁ」

行きずりの男は相槌を打つのが上手くてどんどん喋ってしまったし、その気持ちよさもあって酒量はエスカレートしていくばかりだった。辛口のキリリとした味わいの日本酒を片手につまみは店自慢のおでんだ。出汁のしみた大根が美味い。

「だいたいねぇ…そんなだから奥さんと娘さんに逃げられんのよっ!そのくせ私にナマエちゃん彼氏いないのか〜とか言ってくんのマージで腹立つ!」
「モラハラ、パワハラ、セクハラの役満やん。っていうか、姉ちゃんナマエっていうんやや」

彼氏なんてここ四年はいない。学生時代や新社会人のときにいたにはいたが、付き合っている期間だって短かったしろくに思い出と呼べるようなものはない。

「ナマエちゃん彼氏おらんのん?」

男にそう尋ねられて、ナマエはあからさまに頬を膨らませて怒りを目一杯に表現する。彼氏が欲しいわけじゃないんだ。そりゃあ好きな人が居れば楽しいだろうと思うけど、探してまで恋人が欲しいとは思わない。

「みぃーんな、あーしが酔っぱらったの見てぇ、ドン引きすんのー。絡み酒がヤバいからぁ、女として見れないんだってェー」

歴代彼氏に振られた理由はこれだ。酒にはそこそこ強いのだけど、酔っぱらってしまうと一気に来るタイプというか、普段のフラストレーションが爆発してしまうというか、尋常じゃない絡み酒をしてしまうのだ。大概これがバレて終わる。

「ああ、まあそれは納得かもな」

男が苦笑いを浮かべてそう言うものだから、ナマエは酔って真っ赤になった顔のままじっとりと男を睨みつけた。


とまぁ、あのサッパリ誰かわからないと思っていた金髪の男が自分の絡み酒の相手であり、出会ったのが三軒目だか四軒目だかの居酒屋だということまでは思い出せた。何となく美形だったと思う…が、長い金髪と左の顎の大きな傷が印象的で、顔まではしっかり覚えていない。しかし知り合いだったら酔っぱらっていたって気付けるはずだし、知人ではないのは確かだった。

「ミョウジさん、今日ちょっと納品行ってくれない?」
「え、あ、はい…ってこれ、殺連の関東支部ですか?」
「そうそう。ヤマモトさんが病欠しちゃってるから配達の方にルート変更があってね…」

係長に指示を受け、ナマエは自分の進行中の作業のものの中に緊急性がないかどうかを確認した。問題ない。先週阿保みたいな残業をさせられたせいでむしろ業務はスムーズに進んでいる。

「わかりました。今から出てもいいですか?」
「うん。よろしくね」

ナマエは目の前の仕事に区切りをつけ、納品リストを受け取る。普段は納品先を回るのは倉庫部門の仕事だが、人出が足りないときはナマエの所属する営業部門が請け負うこともある。事務所を出て隣接する倉庫に足を向け、倉庫業務の担当者にリストを渡して配達分を集めてもらう。

「えー、今日は特注古フルメタルジャケット弾Aと特殊水中銃弾が10ケースずつと、特殊SS弾が30ケースですね」
「はい。ありがとうござます。あの、殺連の関東支部ってなんか特別な規則とかありましたっけ?」
「いやぁー、聞いたことないけど…守衛さんのとこ行けば大丈夫だと思うよ」
「了解です」

ナマエの勤務先は主に特注銃弾の製造卸売りをする会社だ。殺連は会社の中でも一番の太客である。


一応ルートはわかっているが、念のためカーナビに目的地を入力する。殺連の関東支部まで到着すると、トラックを近くに停めてすぐそばにある守衛室に向かった。納品業者の入館受付のためだ。警備員の制服に身を包む男に「お世話になります」と声をかける。

「△△工業です。納品にうかがいました」
「ああどうも。あれ、いつもの方は?」
「すみません、休みが出ちゃってルート変更してるんです。私は代打で…」
「ああ、そうなんですか」

入館者の記帳をして、入館許可証を受け取ってトラックに戻るとゲートを開けてもらって中まで入っていった。#nameのほかにも別の納入業者が来ていて、丁度検品が終わって帰るところのようだった。入れ替わりで声をかける。

「お世話になります、△△工業です」
「お世話になりますー」

受け入れ係の中年の女性にナマエはリストを渡して、トラックに戻ると倉庫の別の人間にフォークリフトで荷を下ろしてもらい、その前に来てもらって納品書と品物の数に間違いがないかを検品してもらう。

「今日もバッチリですね、ありがとうございます。そういえば、いつもの方は?」
「ちょっとルート変更で代わりに私がうかがったんです」
「あらァ。女の子が武器の配達?」
「いえ、普段は営業してまして…」

なるほどねぇ、と女性が頷く。弾薬の類いは重いし、フォークリフトの運搬が主とはいえ、実際配達をする部門に女性はほとんどいない。業務に支障が出ない程度に世間話をしていると、少し気だるげな関西弁が聞こえてきた。

「すんません、弾切れてもうたんやけど、予備もろてもええですか?」
「あらぁ神々廻さん、ちょっと待ってねェ」

その声の方に向かって会釈をしようと顔を動かしてピタッと動きを止める。長い金髪、左の顎の大きな傷、顔だちはうすぼんやりとしているが間違いない。先日やらかしたお相手その人である。

「どれ持っていく?普段はそんなに使わないでしょ?」
「あー、せやな…ノーマル…いや、あとソフトポイントももろてええですか。生け捕りが一件あったんやったわ」

ナマエは背中に冷や汗が伝うのを感じながらどうするべきかと硬直する。流石に黙って納品先を出ていくのは出来ないが、彼に見つかるわけにもいかない。なるべく物陰に隠れるようにしながら「シシバ」と呼ばれた彼が倉庫を去ってくれるのを待つ。

「あれ、あそこにあるんって△△製の特注弾?」
「ええそうよ。丁度いま△△さんが納品に来てくださっててねぇ」

神々廻達の視線が自社の荷物に向くのを感じた。普通ならここは「お世話になってますぅ〜」とでも言って挨拶をするべきところである。でも相手は自分が酒の勢いでやらかしてしまった相手だ。うわぁ、うわぁ、とグルグル頭の中を回していると、向こうから先に「あ、△△工業さん?」と気付かれてしまった。

「お、お世話になってます〜…」

頼む、気付いてくれるな。そう長いながらニコニコと営業スマイルを浮かべて神々廻に向かって会釈をした。神々廻とバッチリ目が合って、次の瞬間「あ」と明らかに気が付いた顔をしていた。

「アンタ──」
「あ〜まだ配達が〜!申し訳ございません、ご無礼いたしますぅ〜!今後ともよろしくお願いいたしますぅ〜!」

神々廻が口を開く前に割り込んでそう言って、わざとらしいくらいの笑顔で捲し立て、ペコペコと頭を下げてトラックの方へと向かった。運転席のドアにやっと手をかけたところで後ろからバンッと手をつかれて逃げ込むことを阻止される。

「逃げることないやんか」
「ヒッ…!」

視界の端に金髪が見える。神々廻だ。ナマエはからくり人形の如き動作で半分ほど振り返れば、案の定追ってきた神々廻がこちらをジッと見ていた。

「ナマエやろ」
「ど、どうして名前を……」
「飲み屋で自分が名乗ったんやんか」

ああやっぱり、酔っぱらって見ず知らずの男とラブホテルになだれ込んだのだ。いい歳してなんてステレオタイプな失敗をやらかしたんだ。ナマエがあまりにも黙ったままでいたら、神々廻が「覚えてへんのか?」と尋ねた。

「……じ、実は……」
「で、起きてビビッて逃げたんか」
「ご、ごめんなさい…まさか取引先の殺し屋さんとは思いもよらず…」
「まぁええけど」

勝手に帰ったのも覚えてないのもそもそも失礼だが、その相手が会社の一番の太客の社員だったなんて最悪だ。神々廻は大きくため息をつくと、ポケットからごそごそと何かを取り出す。殺される。さすがにそんなことはないとわかっているが、相手が殺し屋だとわかっているから思わず反射的に身構えた。

「ん。悪い思ってんねんやったら、ホレ」
「え……えっと…?」
「とりあえず、番号教えてくれへん?」

取り出されたのは銃でも武器でもなんでもなく、薄っぺらい四角い板、スマホだった。ナマエは「さっさとスマホ出し」と言われるがままポケットからスマホを取り出して、ほれアプリ開き。QRこれやから。と、まるで押しの弱い人間がポイントカードを作らされるかのようなよどみのなさであれよあれよと言う間に連絡先の交換が完了してしまった。

「俺は結構、酔っぱらっとる時のナマエ、好きやで」

スマホを口元にあて、神々廻がさらりと言う。その涼し気な笑い方にずきゅーんって来ちゃいましたって、殺し屋相手じゃ洒落にならないだろうか。





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