春の海


まだ寒いこんな時期に海に行こう、なんて、本当に馬鹿げていると思う。日本海はまだ冬の装いを残したままで、吹く潮風はうっすらと寒いまま。誰が好き好んでこんな時期の海に来ようというのか。そんなことをする奴は頭がイカれているに決まっている。神々廻は目の前の元凶に視線をやった。

「はぁー、寒いねぇ」
「当たり前やろ、まだ三月やで」

ぶるりと肩を震わせる。特別海は好きでも嫌いでもないので、自分からこんなところに来よう何て思わない。仕事でもないのに。

「神々廻、海好きじゃなかったっけ」
「好きでも嫌いでもないわ。好きやったんはお前の元カレやろ」
「あはは、そーでした」

へらりと笑う。それがむかつく。時おり砂を巻き上げ、遠くで鳴る船の汽笛の音が鈍く聞こえてくる。もちろんこんな季節に人影なんてほとんどなくて、観光地というわけでもないのだからうら寂しいものだった。潮の匂いが鼻の奥まで届く。

「今度の夏は海行こっかって話してたんだよねー」
「おん」
「んで、一緒にかき氷食べよっかって」
「おー」
「それから山にも行きたいよねって」
「あー」

ぽつぽつと続くナマエの言葉に神々廻は曖昧な相槌を打ち続けた。ナマエが半歩先を歩き、神々廻がその後ろをのろりとついていく。ナマエは神々廻を振り返ることなく歩き続けた。

「星が綺麗なところでキャンプしようって。だけど私虫苦手でしょ?だからそれで言い争ってさぁ」
「しょーもな」

ぴくり、ナマエの肩が少しだけ揺れる。ざざざん、と波の音だけが響いて、ナマエが黙ってしまえばそれまでだった。知っている。彼女が恋人とどう別れたのか。それを聞くのは今日が初めてではなかったし、その前の男も、もうひとつ前の男もどうやって別れたのかを神々廻は知っていた。

「それが、最後になちゃった」

声は砂浜に落ちるようにして埋もれていく。ナマエの恋人は仕事で命を落とした。今回の男も、その前も、もうひとつ前の男も。珍しいことではない。業界にいればそこそこ良くある話で、それこそ自分たちだって明日は我が身なのだ。ナマエが立ち止まり、一度俯いてから顔を上げる。

「ほんと、しょーもないね」

神々廻はナマエに手を伸ばしたが、それが着地する前に引っ込めた。彼女との腐れ縁ももう随分長くなってしまっている。


殺連に所属するようになって数ヶ月のころ。神々廻はとある先輩に腰巾着の如くくっついてまわっていた。もっとも、神々廻の意思というよりはそういう指導だったという方が正しいのだが。
神々廻は関西殺仁学院を中退しているという経歴上、殺連の中でもどこの派閥に所属するというわけでもなく、それが幸か不幸か神々廻を孤立させていた。

「あーっ!殺連焼きそばパン売り切れてるじゃん!」

きんっと甲高い声が響く。じろりと声のほうに視線をやれば、自分と同い年くらいの女が食堂近くの売店でがっくりと肩を落としていた。自分の手の中に視線を落とすと、先ほど買ったばかりの焼きそばパンが未開封のまま納まっていた。

「ナマエちゃんホントに焼きそばパン好きねぇ」
「だっておばちゃん、焼きそばとパンが一緒に食べれるんだよ?しかも焼きそば食べるのに手も汚れないし!」

焼きそばパンをそうも誉めそやしている女なんて初めて見た。別に好きでも嫌いでもないが、こうも焼きそばパンを渇望している人間を見た後にこれを食べるというのは何とも後味が悪そうだ。神々廻は未だ焼きそばパンを賛美する彼女に歩み寄った。

「そんなに食いたいんやったらこれやるわ」
「え?え!うそ!いいの!?」

神々廻が声をかければ、彼女は前のめりになって焼きそばパンを受け取った。まるでもっと特別なものを賜ったかのような大袈裟な態度が面白い。彼女が神々廻に向かってにっと笑みを浮かべる。

「ありがと!今度なんか驕る!」
「べつにいらんし」

彼女の名前はナマエ。神々廻と同い年で、殺連の殺し屋。養成学校の類いを卒業していないというところも共通点だったし、玉ねぎが嫌いというところもそうだった。お互い派閥らしい派閥にも属していないということもあって、任務以外の時間を何となく一緒に過ごすようになった。

「ねぇねぇ神々廻。今度一緒にパンケーキ食べいこ?」
「いやや。なんであんな甘ったるいもん食べなあかんねん」
「えー、いいじゃん。映えだよ、映え」

休憩室でスマホをいじりながらそんなことをいうナマエを軽くあしらう。多少我が儘なところはあるけれど愛嬌があるし、殺しの腕も確かだし、見た目も整っている。過ごす時間が長くなるうちに神々廻の興味は友情に変わり、それはすぐに愛情に変わった。ナマエは暇さえあれば神々廻の元を訪れていて、だからこんな言葉が返ってくると思わなかった。

「いいもん。じゃあ彼氏と行くし」
「は?」
「今度休み合うのいつだったかなぁ」
「な、ん…お前、彼氏なんかおったんか」
「うん。こないだ告白されたの」

ナマエはどこまでも普段通りだった。神々廻のことなど眼中にないと態度で示されているようで、心臓の奥に氷でも放り込まれたような気分になった。なんで、どうして。彼女の一番近くにいるのは自分だと思っていたのに。

「……ナマエのこと好きやって物好きもおるもんやなぁ」
「ね、ほんとだよ」

へらりと笑う。ああむかつく。自分もその「物好き」の一人であると、もっと早くに打ち明けてしまえばよかった。


ナマエは恋人とは長く続かなかった。請け負った仕事で命を落としたらしい、と事務所の噂で聞いた。彼女は泣いているだろうか。この業界では仕事で命を落とすなんてよくあることで、しかし恋人を喪ったのは初めてのことのはずである。
神々廻は売店で焼きそばパンを買ってナマエを探した。無駄に広い関東支部はあれこれと隠れられる場所が多いが、何となく予想はついていた。エレベーターを使って最上階へ。そこから非常階段で屋上に上がる。金属製の扉を開けると、びゅう、と突風が吹きすさぶ。

「……ナマエ」

いた。屋上の右端に設置されたベンチの上でナマエが膝を抱えながら空を眺めている。気配も消さずに歩み寄れば、ナマエはパッと神々廻に視線を向けた。

「神々廻じゃん。おつかれ」
「……おん。なにしてんねん。風邪ひくで」
「あはは、平気だって。健康優良児だから」

恋人の死が彼女にどこまで深く刺さっているのか図ることが出来ず、神々廻はそれ以上そこには踏み込まずにベンチの隣に腰かけた。それからぽいっと焼きそばパンを投げる。

「なにこれ」
「あー、思ったより腹減らんかったからやるわ」

まったく苦しい言い訳だ。ナマエも「なにそれ」と笑った。包みをばりばりと破ると、ナマエが大きな口を開けてそれを頬張る。少しだけ鰹節とソースの匂いが風に乗る。パンケーキの甘ったるい匂いなんかじゃなくていい。このくらいが丁度似合う。

「あっけないよねー、人生」
「まぁ、そんなもんやろ」
「神々廻ってばドライだなぁ」
「普通や」

返すべき言葉は探り探り見つけていった。悲しんでいるのか、苦しんでいるのか、はたまたさほど感傷的にはなっていないのか。本当のところを読み取ることは難しい。

「神々廻は私が死んだら泣いてくれる?」
「絶対泣いたらへんわ」
「あはは、神々廻っぽいね」
「健康優良児はそうそう死なれへんねんで」

空を見上げる。せいせいするほど青い。飛行機雲が渡る。上空は湿度が高いらしい。明日は雨かもしれない。


それからナマエの恋人は立て続けに三人死んだ。神々廻はいつもそのそばにいた。関係は変わらなかった。むしろ変わらないほうが好都合で、彼女の一番近くに立ち続けることが出来るのは結果的に神々廻だけだった。

「私と付き合うと皆死んでいくって噂になってんだって」
「三人連続外れなしやからな」
「ねー。だから私疫病神って呼ばれてんの」
「あほくさ。実力なかったから死んでっただけやろ」

珍しくナマエは弱気だった。それだけ今回の男には本気だったのだろうかと思ったが、どちらかと言えば三人も立て続いたことが原因かもしれない。立て続いたと言っても、本当に単に実力不足が祟って死んだだけなのだ。ナマエが原因だなんてことはあるはずがなかったし、業界内恋愛をしていれば取り立てて不思議なことでもない。

「あーあー、私に彼氏は一生無理かなぁ」
「彼氏欲しいんか?」
「そういうわけじゃないけどー」

砂浜をしゃくしゃくと鳴らしながら歩いた。観光地ではないとはいえ、これだけ長く浜が続いているのだから夏になれば海水浴客はそれなりに集まるのだろう。見る予定もない夏の様子に思いを馳せる。ナマエの言葉は続かないように思われたが、消えてしまうような声が続いた。

「……そばにいてくれるひとが欲しい」
「は……」
「だって、神々廻もいつか彼女出来ちゃうかもしんないし」

何でよりによってお前に言われなあかんねん。作ろうと思えばいまやってすぐに彼女くらい出来るっちゅうねん。そんなん今やって俺の隣にはお前しかおらへんやろ。
いくつも台詞が頭の中を走って行く。そのうちのひとつを口にしようと唇を動かせば、あろうことかナマエは海に向かって駆けだした。

「あはは!やば!さっむ!!」

ばしゃばしゃと盛大に音を立てる。三月の海に飛び込むなんてどうかしている。水飛沫が春の淡い光を反射して真珠のように光った。その中で水面を蹴散らすナマエがスローモーションに見える。

「はぁ!?お前なんッ…!ほんまなんでやねん!!」
「やばいよ!いけるかなって思ったけど全然無理!」
「アホすぎるやろ!」

ナマエは膝の真ん中くらいまでを海に浸し、振り返って神々廻に笑いかける。やっぱりこんな時期に海に来ようなんてイカれている。なのに少しも目を離すことが出来ないくらい眩しい。
ナマエは数メートル先の海から両手をメガホンのようにして頬の隣に添え、神々廻に向かって必要以上に大きな声をかけた。そんなことをしなくても、彼女の声を聞き洩らすわけがない。

「ねー神々廻!絶対私のこと好きになんないでよ!」
「なるかいな。お前みたいな焼きそばパン女」
「あはは!ひど!」

まだ寒い春の風が吹いていく。波間がさざめく。およそ半歩。それが彼女との適正距離。きっと近づけば逃げられてしまうだろう。浜へと上がってきたナマエへジャケットをかけてやれば「神々廻のにおいする」なんて馬鹿丸出しの顔で笑う。

「今日はかき氷やなくてあったかいもんにしとき」

海でかき氷だろうが山で天体観測だろうが上等だ。どうせ引き返せないところまできている。好きだなんて、死んでも言ってやらない。





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