きんいろ


ひゅっと赤い滴が飛ぶ。いくつかを除け、それでもその中の小さな一つが白いシャツの襟元に着地した。

「うわ、これサラのんおろしたてやってんで」

神々廻はそう言い、盛大にため息をついてパンパンと手についた埃を払った。オーダー、というものは殺連選りすぐりの殺し屋、というよりも選りすぐりの便利屋なのではないかと最近思う。

「神々廻さん、お腹空いた。ご飯食べたい」
「大佛ぃ、昼飯食うたばっかりやんか」
「でもお腹空いた」

ブラックドレスに身を包んだ人形のような女が奔放にそんなことをいう。有能ではあるが、いまいちマイペースで何を考えているかがわからない。あと殺し方が派手なのでもう少しコンパクトに纏めて欲しい。

「ていうか、今日はナマエがメシ作って待ってんねん。どうせ大佛の分も作っとるやろ」

来るか?と言う意味を込めて視線を向ければ、キラキラした目をしてぶんぶんと頷いた。そうと決まれば早速殺連本部に戻って報告だ。血生臭い現場にこれ以上留まる理由はどこにもない。


ナマエという少女は、神々廻のセーフハウスに住む十代後半の少女である。殺し屋でもなんでもないごく普通の少女だ。学校にも行っていなければ仕事をしているわけでもない。ただ神々廻の帰りをセーフハウスで待つだけの生活を、同僚の南雲は「軟禁じゃん」と揶揄した。
断っておくが、これはナマエの意思であり、神々廻としては、彼女が望めば殺連の息がかかった一般の学校に通わせるのは良いと思っている。もっとも、殺連の息がかかっている時点で一般の学校と言えるのかはわからないが。

「ただいまぁ」
「神々廻さんおかえりなさい!」

マンションの扉を開けると、ナマエがトトトトと勢いよく駆け寄った。ほとんど屋内で生活しているせいか、肌は透けるように白かった。

「大佛さんもお疲れ様です」
「こんにちは、ナマエ。会いたかった」

大佛は言うや否やナマエを両手でぎゅうぎゅうと抱きしめて、頬の感触でも確かめるようにもちもちと自分の頬をあわせる。ナマエにとって大佛は数少ない交友関係のある人間のひとりだった。

「今日は肉じゃがだよ。大佛さんの分もあるからたくさん食べてね」

ナマエは二人に手洗いうがいをするように言ってから、自分だけ先に支度をするためにキッチンへと引っ込んでいった。
ナマエがせっせと食卓の準備に取り掛かる。茶碗に白米をよそい、味噌汁を器に注ぐ。メインは肉じゃがで、そのほかにはきんぴらや白和え、煮豆などが並んだ。今日のメニューは見事なまでに和食だ。食卓に出された肉じゃがには、もちろん玉ねぎは入っていない。

「今日も美味そうやなぁ」
「ふふ、美味そう、じゃなくて食べてから美味いって言ってよ」
「そらそうか」

一緒にテーブルについた大佛が「早く食べたい」という旨を無言でアピールして、ようやく食事が始まった。

「今日のお仕事はどうだった?」
「あー、まぁいつもと変わらへんわ。なんも問題ない」
「でも、襟のところ汚れてる」

神々廻はぎくりとして口角を片方だけ上げる。ナマエの食事が楽しみですっかり忘れていた。
ナマエには、自分の仕事が殺し屋であることを打ち明けていなかった。それは単純にタイミングを逸したということもあるし、そもそもナマエがこの家に来ている経緯にも関係している。ごく短い間でいくつかの言い訳を考え、何食わぬ顔で口を開いた。

「今日施設ン中の農園手伝っとってん。そんとき泥跳ねたんかもしらんわ」
「そうなの?じゃあ、あとで軽く染み抜きしよっか」
「ええって。処分するし」
「またそんなこと言って。ダメよ、洗濯したら落ちる汚れなんだから」

大して怒ってもいないくせにナマエがわざとらしく怒ったような仕草をした。神々廻がちょっとでも勿体ないことをしようとするとこうしてすかさず指摘をしてくる。庶民的というか大衆的というか、やはりナマエはどこまでも普通の少女である。

「あっ、ごめんなさい。七味出してなかったね。今持ってくるね」

ナマエが箸をおいて立ち上がり、トコトコとキッチンへ向かった。とりあえず今日も難を逃れたか、とホッと胸をなでおろす。

「…神々廻さん、今の言い訳は苦しい」
「わかっとるわ」

もぐもぐと肉じゃがを咀嚼する大佛が隣で小さくそう言って、神々廻はため息をつく。いつまでナマエに真実を隠し通せるのか。いや、もうタイムリミットは近いのかもしれない。


指令を受けて殺連本部に向かった帰り。データを見直そうとデスクに向かっていると、居合わせた南雲が声をかけてきた。

「やっほ。今日も元気に軟禁してる?」
「人聞き悪いこと言いなや」
「だってやっぱり女のコずっと部屋に囲ってるって軟禁でしょ」

南雲はいつも通りへらへらと笑っていて、相変わらず掴めない男だ。神々廻はマトモに取り合うだけ無駄だと向き合いもせず、カタカタとキーボードをタイプする。

「ナマエちゃんは?」
「あー、今日も元気に軟禁されとるわ」
「やっぱ軟禁じゃん」
「お前が言うたんやろがい」

適当に話をしながら目的のファイルを見つけ、端から順に情報を叩き込んでいく。南雲は神々廻のことなどお構いなしであれこれと話を続けた。

「でもさぁ、実際どうするの。ナマエちゃんに本当のこと知られたら」

椅子を反対向きにして背もたれの一番上に肘をつく格好で南雲が言った。思わずその言葉にピクリと反応した神々廻はそれに視線だけで応えるようにして、それからたっぷりと間を取ったあと口を開く。

「……まぁ、しゃないんとちゃう。ホンマのことやし」
「えぇぇ、でもさぁ、自分の恩人が自分の親殺した犯人とか、フツーの女のコに耐えられるかなぁ」
「……南雲」

神々廻が名前を呼ぶと、南雲はどこ吹く風でへらりと笑った。神々廻はチッと大きく舌を打つ。神々廻はナマエを天涯孤独にした張本人であった。

「女のコって意外と見てるところみてるから」
「どういう意味や」
「気が付かれてるかもねって話」

まさか。それで自分の両親を殺した男と和気藹々と暮らしているというのか。ナマエにそんな真似が出来るとは思えない。彼女は普通の少女だ。


その日、神々廻は珍しく現場で少しのミスをした。現場に予想外に無関係の子供が潜り込んでいて、それを避けた際に腹に一発を食らった。こんなミスの仕方は初めてだった。無関係の子供がいようが、今までだったら冷静に対処が出来たはずだ。
何故今回はそれが出来なかったのか。それはナマエとその子供を一瞬だけ重ねてしまったからに他ならなかった。

「あー、やば。こんなミスあとから絶対笑われるやつやん…」

白い病室の天井を見上げ、神々廻はひとりごちた。こんな初歩的かつ恰好の悪いミスを同僚はあざけるに決まっている。自分でも時間を巻き戻してやり直したいと思うくらいだった。
入院はあと二日程度でいいだろう。でないとナマエが心配するに決まっている。早く帰って安心させたいし、早く帰って顔を見たい。
自分が予想していたよりもずっと、神々廻はナマエのことを自分の領域に抱え込んでいた。

「や、怪我したんだって?」
「なんでお前がおんねん」
「だって同僚が怪我で入院なんて聞いたらお見舞いに来ないわけにいかないでしょ?」

足音もなく病室の扉を開けた南雲が胡散臭くそう言った。こんなところ見られたくなかった。最悪だ。この先ずっと話のネタにされるに決まっている。神々廻があからさまに顔を歪めても、南雲は少しも表情を崩さない。この男はそういう男だ。

「弱ってる神々廻にお見舞いの品があるんだけど」
「なんやねん。妙なもんやったら持って帰れや」
「妙なもんだなんて失礼だなぁ。ホラホラ、おいで」

南雲が廊下に向かって手招きをする。まさか、と思って可能性が一気に神々廻の頭の中で主張を始めた。さっと頭の血が引いていく。廊下からひょこりと顔を出したのはあろうことかナマエだった。

「し、神々廻さん…!」

ナマエがベッドサイドに駆け寄る。声だけでもわかるくらいひどく動揺していた。最悪だ、彼女にだけは知られるわけにはいかないのに。
ジロリと出入り口に視線を飛ばせば、いつも通り、いや、いつも以上ににっこりと笑った南雲がヒラヒラ手を振って出て行くところだった。

「あー…ナマエ…これはな……」

大怪我の言い訳を必死に探した。普通の人間ならどんなことがあれば腹に一発銃弾を食らうだろう。いや、普通の人間は腹に銃弾は食らわない。
あれこれと考えているうち、先に口を開いたのはナマエだった。

「おなか…撃たれたって…」
「え、あー、うーん…まぁ…せやな……」
「痛い…?」
「…全然…こんなん平気やで」

目の前で泣き出しそうな顔をしているナマエを見れば、ひりひり痛む腹の傷など少しも気にならなかった。
腹部を撃たれたと知っているということは、どこまでかは知らないが南雲にある程度話を聞いてきたのだろう。あの男は一体どこまで話したのか。

「あー、その…な、これはなんちゅうかその……」
「知ってたよ」

神々廻のもつれた言葉を遮ったのはナマエの声だった。震えているけれど、どこか凛としたものを感じさせる。神々廻は息をのんだ。黒い瞳と視線がかちあう。「知ってたよ」いったい何をだろう。どれをだろう。いくつも隠し事がある。それはすべてナマエを守るためのものだ。

「神々廻さん、殺し屋なんでしょ」

ひやりと喉元にナイフを突きつけられたような気分になった。殺しの現場でだってこんなに心拍数が上がることはない。ナマエは焦る神々廻に構わず言葉を続けた。

「それから、神々廻さんがパパとママ殺したことも知ってる」
「は…ナマエなに言うて…」
「パパが悪い人たちと一緒に悪いことしてたのも、だから神々廻さんが殺しに来たのも…」

ナマエの両親は、こちら側に足を踏み入れてしまっていた。秩序を乱すと断ぜられ暗殺の対象になった殺し屋と手を組んでいて、その依頼をこなしたのが神々廻だった。娘まではその限りではなく、だからナマエは殺されなかった。どこか関係のない施設に預けられるはずだった。はずだったのに。

「…わかっとって、ずっと一緒におったんか」

ナマエは俯き、シーツに顔を埋めて神々廻にかかる掛け布団の端を握る。握る力があまりに強いものだから、指先から血の気が引いて白くなってしまっていた。

「私にはもう神々廻さんしかいない…死なないで…」

泣き出しそうな声だった。いや、泣いているのかもしれない。震える声がどうしようもなく愛おしくて、神々廻はそっとナマエに指を伸ばす。ナマエは導かれるように顔をあげ、神々廻の手に頬を寄せた。

「なぁ、チューしてええ?」
「……ばか」

ナマエはそう悪態をつき、身を乗り出すと神々廻に顔を近づける。きんいろの髪をすうっと寄り分け、頬骨の上にちょこんと唇を落とした。至近距離で彼と目が合い、今度は神々廻がナマエの頬を掬い取って唇にキスをする。

「ナマエ」

名前を呼ぶだけで、何もかも伝わるような気がした。消毒液のにおいとリノリウムの床を踏む音、目の前には君と、指先にまるい頬。甘い口づけということもない無味のそれをもう一度感じたくて、神々廻はナマエを引き寄せた。





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