08 失敗、逆転、酔っぱらい


尾形への気持ちを自覚してから、彼がいなくなってしまうことをどうしようもなく寂しく感じた。そもそもこの部屋に勝手に上がりこんできた野良猫のような存在のはずなのに、、家に帰ったときに誰かがいるのは心地よかったし、ぽつぽつとゆったりしたペースで話される言葉も続きを待っていたくなる。夜寝る前にノンカフェインの飲み物を飲んで少しだけお喋りをして、それだけでどうしてだか眠りがよくなっている気がする。

「いってきます」
「おう」

眠そうな目をこすりながら毎朝律儀に見送りをしてくれる。まるで同棲している恋人みたいだ。と、そこまで考えて虚しくなってやめた。


仕事はいつもと変わらない。メールをチェックして、社内チャットの申し送りに目を通す。受注業務と生産管理課から上がっていたスケジュールをもとに客先と納期の折衝をする。そこまで高度なこともなければ資格を必須とするような専門知識が要るわけでもない。真面目に正確に日々の業務をこなしていくことが求められる職種である。

「ミョウジさん、□□メディカルさん3番お電話です」
「はい」

ナマエは他の社員から繋がれた外線電話をとる。□□メディカル株式会社とは菊田の持つ顧客の中で上から数えて4番目くらいにあたる売上金額の顧客だった。大手の医療コンサルとも付き合いが深く、それを経由して地方の開業医の案件を良く持ってきてくれる。

「お電話代わりました、ミョウジでございます。お世話になっております」
『お世話になりますー。すみません、所沢のB審美歯科さんのユニットなんですけど、納期のことでお願いがあって…』

馴染みの担当者からの話の内容にひゅっと背中へ冷や汗が伝う。先方の言うB審美歯科の受注に関してさっぱり記憶がないのだ。担当者からの依頼は納期短縮の依頼で、なんでも研修の時期が早まったため、それにあわせて納期を短縮して欲しいのだそうだ。
ナマエは話を聞きながら内心それどころではなかった。話を聞き洩らさないようにしながらも、受注入力を他の顧客で処理してしまっていないか、□□メディカルへの確認等で受注が滞ってしまっていないか。あらゆる可能性を考えてメールボックスを探していく。

「は、はい…では確認してご連絡いたしますので……」

どうしよう、完全に受注漏れじゃないか。そう確信めいたものを感じながら、一旦受話器を置いた。まずい。注文の機種は最短でも6ヶ月は納期がかかる。いまから注文を入れても研修はおろか、内覧会にさえ間に合うか微妙なラインだ。

「……どうしよう」

メールボックスをいくら確認したって注文書しか見当たらない。どこからどう見てもナマエの受注処理が漏れていたとしか思えない。ナマエはもう一度受注管理システムを確認し、席を立って菊田の元へ向かった。

「菊田課長、申し訳ありません。受注漏れを起こしてしまいました」

ナマエがバッと頭を下げると、菊田は焦った様子もなく「受注漏れ?珍しいなぁ」と相槌を打つ。自分の権限でリカバリーできないことが明らかなら、速やかに報告するしかない。

「お客さんどこ?」
「□□メディカルさんのB審美歯科開業案件です」
「あー、所沢のか」

菊田はデスクのラップトップであれこれと確認を進めていく。ナマエは注文書の届いていた時期と、担当者から研修のために前倒しの依頼があった旨を伝えた。どうしてもっと確認をしっかりしていなかったんだろう。いつもならあまりしないようなミスだ。ナマエが肩を落としたままで唇をきゅっと噛むと、菊田がラップトップから顔を上げる。

「ああ、この機種か。通常納期6ヵ月ね」
「すみません……」
「大丈夫大丈夫。これくらい何とかなるよ」

菊田はデスクチェアの背にかけていたジャケットを手に取ると、スマホをポケットに突っ込んで立ち上がる。

「ちょっと今から有古のとこ行ってくるよ。とりあえず別で任せてる△△ヘルスケアの見積先にやっといて」
「は、はい…」

有古、とは別フロアにある生産管理課の社員だ。どういう手立てを使ってくれるのかわからないけれど、即座に顧客へ連絡をとるわけではないところをみると、社内である程度調整をつけてくれるつもりなのかもしれない。
菊田を見送ると、ナマエは自分のデスクに戻って△△ヘルスケアの見積に取り掛かる。普段から慎重なタイプではあるけれど、今日はいつも以上に何重にもチェックを欠かさなかった。


結局その日、有古に会いに行くといって出たまま菊田は外回りに出かけ、チャットで「解決できそうだから明日改めて連絡をする」という旨だけが返ってきた。自分のしでかしたミスに不安しかないけれど、ジタバタしても仕方がない。業務に区切りをつけて定時そこそこに上がり、重い足取りでマンションへの帰路についた。

「ただいまぁ…」
「おう」

キッチンから尾形の声がする。こういう日に家に誰かいてくれるのはとても心強い。ナマエは自分の失態にまたぐっとこみ上げるものを感じながら、パンプスを脱いでリビングスペースに向かう。

「ハッシュドビーフなんだが、お前飯にかける派か?…っておい、ヒデぇ顔だな」
「おがたさんんんんっ!」

全文字に漏れなく濁音をつけるような情けない声を出しながらナマエぎゅっと唇を噛む。「なんかあったのか」と尋ねる尾形にナマエは今日発覚した自分のミスのことを話した。

「まぁミスはミスだろうが…その菊田課長とやらがどうにかしてくれるなら問題ないだろ」
「菊田課長に迷惑かけちゃったっていうのにもへこんでるし、そもそもミスした自分に腹が立ってるんです」
「家に帰ってまでそんなこと言っていても仕方ないだろう。メシ食わんのか」
「食べます」

だったら早く手を洗って来い、と子供みたいなことを諭され、ナマエは鞄を置くと洗面所でじゃぶじゃぶと手を洗った。リビングに戻るとハッシュドビーフと白米が綺麗に半々で盛られた平皿がローテーブルに乗っている。それからサラダとコンソメスープもついていた。
尾形と向かい合って座り、いただきますと言ってスプーンを手にする。

「はぁ、美味しい」

口に運べば、思わずそんな言葉が漏れていた。例えば一流レストランのフルコースのような衝撃はないけれど、尾形の作ってくれる手料理は庶民的で飾り気がなく、それがホッと心を落ち着かせてくれる。

「こんな料理で満足なんてお前は安上がりな女だな」
「安上がりでもなんでもいいです。美味しいもんは美味しいんで」
「そうかよ」

せっかく褒めているのに彼は皮肉屋で困る。と言っても、彼とのこんなやり取りも慣れを通り越して楽しみになってきているけれど。
尾形との生活も次の週末で丸三週間になる。つまり残り一週間で約束の一か月が終わってしまうのだ。もっとここにいて欲しい。そんな考えが頭をよぎり、ナマエはふるふると頭を左右に振ると、思考を誤魔化すようにスプーンでハッシュドビーフを口に運んだ。

「今日、尾形さんがいてくれて良かったです」

ハッシュドビーフをもう平らげる、というくらいのタイミングでナマエがぽつりと口を開いた。尾形は一体何の話だと訝し気だ。
今日、帰ってもひとりきりだったらきっと色んな悪いことを考えてしまっていた。菊田が解決できそうと言ってくれているのだから始末書レベルの事態にはならないだろうけど、それでもミスはミスだ。なんでもっとチェックしなかったのか、なんで受注漏れを起こしてしまったのかとひとりでグルグル考え込んでしまうだろうし、煮詰まった末に関係のないことにまで勝手に思考を飛躍させて自己嫌悪に陥っていただろう。

「仕事で上手くいかないことあると、なんか自分の人格そのものまでダメな気がしてきちゃうんです。前の会社のときよくあって。だから本当に、今日ひとりじゃなくて良かったなって」
「そんなもんか」
「尾形さんはそういうことないですか?」

最後のひとくちを頬張り、彼の言葉を待った。彼の職業は結局わからないままだし、推定ヤクザだとしてそういう人たちの感性というのはよくわからないけれど、自分たちと同じだと良いと思った。

「……まぁ、上手くいかないときは、全部やめちまいたくなるな」
「尾形さんでも?」

自分の求めていた答えが返ってきたことにホッと胸をなでおろす。そうだ。彼だって自分と変わらない。思っているよりきっと、きっと近しい存在のはずだ。そう信じたくて自分の考え方にバイアスをかけていく。ナマエは最後の一口を口に運んだ。


翌日、出社すると菊田のデスクに見慣れない顔があった。随分な大柄で体格のいい色黒の男だ。昨日菊田が訪ねたはずの生産管理課の有古である。彼がひょこりと会釈をする。

「おー、ミョウジさんおはよう」
「おはようございます」

ちょいちょいと手招かれ、ナマエは鞄を置くと菊田のデスクに向かう。そこで改めて有古にも「おはようございます」と言って、すると有古ももう一度会釈をして「おはようございます」と挨拶を返した。

「昨日のB審美歯科の件、有古が何とかしてくれるって。な?」
「はい。先の納期で受注してる同機種があるんですが、来週には生産上がるので、今からB審美さん向けにカスタム仕様追加します。もとの受注の方は詰めれば間に合うので問題ありません」
「ほ、本当ですか!?」

菊田が隣で「良かったなァ」とうんうん頷く。生産計画の立っている同機種にカスタムを追加できるならこれほど助かることはない。菊田が昨日生産管理課まで言って折衝してくれたのだろう。その返事を朝一で有古が伝えに来てくれたのだ。

「多分ギリギリ研修も間に合わせられるよ。設置の人員もまぁ有古が来てくれるって言うから問題ないだろうし」
「えっ、有古さんまで…!?」
「問題ありません。元は現場だったので」

自分のミスで迷惑をかけてしまったのを申し訳ないと思いつつも、改めて菊田の営業としての手腕に舌を巻いた。6ヶ月の納期を要するはずのものをカスタムの仕様追加期間を含め1か月ほどにまで短縮出来たのは、彼がひとえに先納期の顧客を持つ営業や生産管理課に話をつけてくれたに違いない。菊田課長の頼みなら、と、彼の人望をもってして解決してきた案件はいくらでも見たことがある。

「とりあえ□□メディカルさんには前倒し希望日確認しといて」
「はい!あの、菊田課長も有古さんも本当にありがとうございました!」

ナマエは最後にもう一度頭を下げると、自分のデスクで仕事の支度を整えていく。今回のミスを挽回できるよう頑張ろう。早速メールボックスを開き、今日の仕事のスケジュールを頭の中で組み立てた。


お誂え向きに金曜日だったこともあり、ナマエは軽い足取りでコンビニに寄ってビールを購入した。五階までエレベーターで上がり、角の自分の部屋をガチャリと開ける。

「ただいま!」
「おう」

昨日と打って変わって意気揚々と帰宅だ。パンプスを脱いでビールの入っているコンビニ袋をローテーブルに置くと、手洗いうがいをしてキッチンに合流する。

「尾形さん、なんか手伝います」
「今日はやけに元気だな。解決したのか?昨日の件」
「はい、おかげさまで!超有能な上司のスーパーファインプレーでむしろ納期短縮さえしてもらえました!」
「そりゃよかったな」

ふっと尾形が口元を緩め、ナマエの髪くしゃりと撫でる。自分よりも少し温かいその手のひらの温度が伝わってきてカッと首から熱くなるのを感じた。ナマエはそれを誤魔化すように「お箸持っていきます!」と遮って逃げ出す。
今日のメニューは昨日と打って変わって和食で、美味そうなマグロがあったから、と刺身を買ってきてくれたようだった。他にも長芋のステーキやチーズ入りのさつまいもコロッケなど、なんとなくツマミっぽいメニューが並んでいる。

「今日ちょっと居酒屋風ですね?」
「お前、金曜日は飲むんだろ?」

それがどうした、とでも言いたげな声音でそう返ってきた。確かにその通りだし尾形も知るところではあるけれど、それでわざわざ献立を考えてくれたのか。むずむずとくすぐったくなり黙ってしまって、尾形がそれをじっと見下ろしていた。

「い、いただきます!」
「おう」

これ以上黙っていたら何だかもっと墓穴を掘っていきそうな気分になって、話を打ち切ると箸を手に取る。今日も尾形の作ってくれる料理はどれも美味しかった。料理が美味いと酒がどんどん進んでしまって、コンビニで調達したビールはもちろんのこと「刺身には日本酒に決まっている!」とキッチンから日本酒も取り出した。尾形もそこそこに同じように飲んでいるのに、少しも酔いが回る気配がない。
一方のナマエは充分過ぎるほど酔っぱらってしまっていて、お猪口を前にぐらぐらと舟をこぐ始末だった。

「おがたさぁん、もー、あと1週間ですね」
「あ?」

舌っ足らずの声でぐでんと尾形に絡んだ。今にも溢しそうなお猪口を尾形はひょいっと奪い去る。ナマエは「かえしてくださいー」と抗議したが、酔っ払いの女の腕力でどうにかなるはずもない。
じたばたとしばらく暴れ、突然電池が切れたように動きを止める。気分でも悪くなったかと尾形が覗き込む。

「もっと……もっと、一緒にいたかったなぁ…」

ナマエは膝を抱え、ぎゅっと唇をかんだ。目尻にはうっすらと涙が浮かんでいて、顔が赤くなっているのは泣きそうなせいか酔いのせいかわからない。

「……さみしい」

ぽつんと言葉がこぼれ落ちる。それを聞いて、尾形はそっと手を伸ばした。






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