07 自覚、感覚、芸術家


新しく一週間が始まり、平日の夕食を尾形が用意することになった。必要な食材を予め買っておくというのも煩わしいし、それに足りない食材を帰路で購入しなければならないというのもな、と尾形に合鍵を預けることにした。尾形は「やっぱりのん気な女だな」と合鍵を預けることに関して警戒心の欠如のようなものを笑ったが、別に尾形ならいいだろうと判断したからだった。

「私だっていい加減大人ですから、尾形さんを信用して預けるんです」
「それがのん気だと言っているんだ」
「じゃあ合鍵渡しません」
「べつに受け取らないとは言ってないだろう」

それならもう初めからそんなこと言わずに受け取っておけばいいものを、彼はどこか皮肉っぽくて理屈っぽい。大体彼だって一週間外に出られなくて不便だったに違いない。

「私、人を見る目には自信があるんで」
「はは、そりゃ結構なことだ」

尾形がぐいっと髪をかき上げる。その時に首筋の隆起が目に入り、何となく視線を外すことが出来なかった。白い肌はナマエよりも白いのではないかと思ったし、いくつかは知らないけれど肌艶も良くて綺麗だ。それに万人受けするようなタイプではないのかもしれないが、エキゾチックな瞳がこちらを見ていると何だか背筋がそわそわとする。

「……尾形さんって、その、彼女とかいるんですか?」
「いるのに女の家に厄介になってたら不味いだろ」
「いやー、なんかそういうことしててもおかしくないって言うか…」
「お前俺を何だと思ってるんだ」

ヤクザ、とは勿論思っていても言えるはずがなく、ナマエは「あはははは」と適当に言葉を濁した。

「そうだ、尾形さん連絡先教えてください」
「ああ、そう言えば知らねぇな」

いろんなものの順番がぐちゃぐちゃになり過ぎて初歩中の初歩の連絡先の交換より合い鍵を先に預けてしまった。連絡先を知らないなんてたとえ同じ部屋に住んでいなくても不便だろう。ナマエがスマホを取り出すと、尾形はそれを引っ手繰ってポチポチと登録していく。そんなことをしなくても言われれば差し出すのに、そんなに自分のスマホの画面を見られたくないのだろうか。

「ん。登録した」
「あ。ありがとうございます」

ぽいっと戻されたスマホをキャッチして画面を確認する。オガタとカタカナで表示されているアカウントのプロフィール写真は黒猫だった。

「猫ちゃん好きなんですか?」
「べつに」
「尾形さんって猫っぽいですよね」
「はぁ?お前男相手に何言ってやがる」

黒々とした大きな目は猫みたいだし、縫合痕と髭がなんとも猫を彷彿とさせる。それからなによりふらりと野良猫のようにナマエのもとへやってきたのが、彼女の中で尾形と猫を結びつける要因だろう。

「ははっ、何ならニャンとでも鳴いてやろうか?」

はんっと鼻で笑ってみせて、冗談だとはわかってはいるがちょっとだけ興味はあった。「お願いします」と言ってみたけれど「誰がマジでやるか馬鹿」とデコピンを食らうことになった。


その週の土曜日、ナマエは中学時代の友人と久しぶりに会おうという話になり、最寄りからは20分程度離れた大きな駅でランチをしていた。彼女に会うのは八ヶ月ぶりで、地元が同じ友人という枠の中では間違いなく一番よく会っている。

「最近活動はどう?」
「今度大学時代の先輩とグループ展するよ」
「本当?私も行っていいやつ?」
「もちろん。今度チケット送るよ」
「いやいや、買わせてよ」

ぽんぽんと軽快に言葉のキャッチボールをするのは心地が良い。このところキャッチボールの球速が遅い尾形と話すことが多かったから、女性特有の軽快なやりとりは久しぶりだった。

「すごいなぁ、芸術家」
「まぁまだ殆どフリーターみたいなもんだけどね」

ははは、と友人が笑った。彼女とは地元が同じなだけで、中学卒業後の進路は全くかすりもしていない。都内の有名な芸術大学をストレートで入学、卒業をした彼女は、現在アルバイトで生計を立てながらアーティストとして活動している。主に彫刻作品を発表していて、時おりギャラリーや個展などで販売もしている。夢を追っている姿はかっこいいと思って尊敬していたし、芸術家らしくひととは変わった視点から出てくる話はいつも面白かった。

「最近ナマエはどうしてるの?たしか前会ったときは引っ越しするとか言ってなかったっけ」
「ああ、引っ越ししたよ。仕事もまぁ普通…だけど…」

口元をもごもごともたつかせる。今日彼女には聞いてほしいことがあった。ナマエの家になし崩しで居候することになった男、尾形のことだ。会社の人間には相談したくないし、いい距離感だと思っていた房太郎や房ちゃんの常連客に相談してみようと思っていたが、尾形まで顔見知りだと知って断念せざるを得なかった。適度な距離感を持っていて、かつ尾形のことを知らない人間と考え、白羽の矢を立てたのだ。

「あのさ、ちょっと話聞いてほしいことがあって」

珍しくナマエがそんな切り口で話すものだから、友人も一体何ごとだとカトラリーを置いてナマエの言葉を待つ。どんな言葉が適切だろうかとあれこれ考えてみて、結局なにも浮かばなかった。ナマエはそのままのことを口にする。

「今、その…男のひとと同居?してて。出会ったばっかなんだけど、なんか目が離せないっていうか、まだよく知らないのにちょっと……だいぶ気持ち持ってかれてるっていか…自分でも変だなって思うんだけど」

取り留めのなくなっていく言葉を友人は辛抱強く聞いた。うっかり手を貸すことになり、それから半ばなし崩しで一か月間の同居をすることになったこと、黙っているときでも空気が少しも重たく感じず、むしろ心地よくいられること、ふとした瞬間に見せる柔らかな顔から目が離せないこと。それがひどくむず痒い。

「最初は面倒なことになったなって思ってたはずなのに…彼女いないって聞いて内心喜んでる自分がいて」
「好きなんだ?」

友人の言葉が真っ直ぐに飛んでくる。あれこれ言い訳を述べたが、つまるところそういうことだ。ナマエはきゅっと唇を噛んでからこくりと頷いた。友人は目を細め、口元を緩めながら言った。

「きっかけなんて何でもいいんじゃない?」
「…そう、思う?」
「思う思う。いつどんな人を好きになるかなんて自分で決められることじゃないし。まぁ、世の中ヤバい奴もいるんだから警戒心なさすぎなのは心配だけど」
「それは申し開きのしようもないというか…」

しゅんと肩を下げるナマエを「あはは」と笑う。尾形をうっかり部屋へ上げたのは自分でもどうかと思っているからご指摘の通りだが、きっかけなんて、と言ってくれたのが嬉しかった。そもそも実のところ、周りとは少し違った感性を持つ彼女なら肯定的な言葉をかけてくれるのではないかと期待していた。

「ねぇ、どんな人?」
「えっと…オールバックで、顎に猫の髭みたいに手術の傷があってクールな感じで…どっちかというと無口で、あと声が低くてなんか色っぽい」
「ナマエのタイプじゃなくない?」
「そうなんだよね。ニコニコ笑う人の方が好きなはずなのに」

今までの恋人は軒並み愛想のいい男ばかりだった。ニコニコ笑っているからといって性格が良いとは限らないわけだが、表情の乏しいタイプより豊かなタイプの方が一緒にいて楽しいと思っていた。尾形は雰囲気のある色男だとは思うけれど、そもそも好きになるようなタイプではないはずなのだ。だけど。

「あと尾形さんと食べるご飯美味しいんだよね」
「ふぅん、尾形さんって言うんだ」

にやにやと友人が笑みを浮かべている。そういえば下の名前はなんていうんだろう。名字だけ知っていれば不便はなかったから聞いたことがなかった。友人は尾形という名字が何か記憶のあるのか「尾形…尾形……最近どこかで見たんだけどな」と言いながら何やら思い出そうとしている。

「別に尾形って珍しい名字じゃないんだから」
「そうだけどさ、なんかどっか印象的な……ギャラリーかなんかで見た気がするんだよねぇ」
「ギャラリーってことは芸術家でってこと?」
「うん、多分…」

芸術家と絞れているのなら多少調べようはあるんじゃないのか。提案してみたけれど友人は「脳の活性化のために絶対思い出してやる」と譲らず、必死に頭を抱えていた。
二人の地元の中学には尾形という名字の同級生はいた覚えがないけれど、言うほど珍しい名字でもない。これだけ人口密度の高い東京で暮らしていれば目にもするだろう。ナマエは彼女がギャラリーで見たというのだから彫刻家かなにかだろうか、と、性別も年齢もわからない推定芸術家の尾形さんに思いを馳せた。


ランチ会を解散して自宅までの道のりを行く。結局友人は最近見かけたという「推定芸術家の尾形さん」のことを思い出すことが出来なかった。思い出したら連絡するから、と言われたが別に頼んだことではない。まぁ彼女は言い出したら聞かない性格だから、それはそれとして水を差すつもりはなかった。

「はぁ……」

友人に言えなかったことがある。尾形が職業不詳ということだ。はっきりと聞いてはいないが、まともな職業の人間が道端で刺されたり、そのたった二週間後に自宅に放火されるとはとてもじゃないが思えない。堅気の人間ではないと考えるほうが自然だろう。そういう人間と関わるなんていままで考えたこともなかった。
いつの間にか最寄り駅まで辿り着いていて、ナマエはトボトボと家までの道のりを歩く。流石に尾形が危うい世界の住人だと知れば誰しも反対してくるに違いない。ナマエだってもしも逆の立場だったら一旦は止めるに決まっている。

「おい」

不意に背後から声をかけられた。振り返ると、尾形がスーパーの買い物袋を下げて立っている。どうやら買い物の帰りらしい。

「今帰りか」
「……尾形さん。夕飯のお買い物行ってくれてたんですね」
「まぁ、お前、晩飯は家で食うって言ってたしな」

ナマエが立ち止まり、自然と並んで歩くようになった。ちらりと隣の尾形を見上げると、彼もこちらを見ていたせいで予想外に視線がかち合ってしまう。慌てて視線を逸らして、すると「どうした」と声が飛んでくる。

「いえ、別に…」
「なんだよ、もったいぶって」

勿体ぶっているわけではない。これ以上もたついているとうっかり頭の中身を話してしまいそうだ、と、ナマエは話題を探す。尾形と共通の話題なんてそうそうあるはずもなく、口をついたのは今日会った友人のことだった。

「今日会った友達、芸術家なんです。やっぱり感性が独特って言うか、話してると面白くて」
「ほお、芸術家か」
「はい。あ、尾形さんって彫刻とかインスタレーションとか興味あります?今度その友達がグループ展やるらしいんですけど」

言ってしまってからハッとする。グループ展の日付は知らないけれど、少なくともあと二週間以内ということはないだろう。もちろん開催されるなら尾形が出て行ってからで、そのとき彼は自分と連絡を取ってくれるかどうかもさっぱり分からない。

「彫刻のことはよくわからんが…インスタレーションは嫌いじゃない」
「…よ、よかったです。友達に場所と日付聞いときます」
「おう」

行く、と返事は返ってこなかったが、興味がないとも言われなかったからそう返した。彫刻のほうが万人に分かりやすい芸術のような気がするけれど、尾形はインスタレーションに興味を引かれているようである。そもそもインスタレーションと言ってそれがどういうものかと聞き返されることもなかったし、彼はもしかしてそこそこ芸術に興味があるのだろうか。

「お前はやるのか?」
「え?」
「だから、お前は彫刻とかインスタレーションとか…まぁ絵画とか何でもいいが、活動してるのか?」

何を聞かれているのかと思えば、芸術活動の経験の有無を問われているらしい。あいにくだが、友人とは中学の同級生というだけであってナマエ自身は美術部だったことさえなく、何なら小学校の時から図工の成績は良くなかった。芸術を生み出す側とはまったく無縁である。

「何にもやってません。不器用な方だし…美術館とかは好きですけど。あ、でも作品見てなんとなくいいなって思う程度で。尾形さんはそういうの興味あるんですか?」
「さぁ、どうだかな」
「答えさせといて自分はだんまりとか酷くないです?」
「はは、別に答えなくなって良かったんだぜ?」

尾形が笑う。そんなことを言われても聞かれたら相当嫌なことや差し支えることでない限り答えるだろう。ナマエの足がなんとなくグッと重くなり、隣を歩いていたはずの尾形と徐々に距離が開いていく。2メートルほど距離が開いたところで尾形が振り返った。
普通の人じゃないかもしれない。好きになったらいけない人かもしれない。それでも。

「ほら、帰るぞ。何突っ立ってやがる」

それでも今更、なかったことには出来そうにない。






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