06 乾杯、相席、アウトロー


金曜日の夜、普段ならコンビニでビールを買って帰るところをぐっと我慢し、定時退社を決めたナマエは意気揚々と帰宅した。今日は尾形と居酒屋に行く約束をしている。酒が生きがい、なんてアルコール中毒のようなことを言うつもりはないが、仕事終わりに飲む酒が格別なのは事実だ。

「ただいま戻りました!尾形さん!行きますよ!」
「…おう。やたらめったら元気だな」
「だって金曜日ですから!」

もはや尾形のテリトリーと化しているリビングスペースに声をかけると、尾形はのろのろと立ち上がって高級そうな形のいいコートに袖を通していく。ブランド名なんかは知る由もないが、ナマエが普段着ているものよりもよっぽど高価なことは間違いないだろう。

「で、居酒屋ってどこなんだ?」
「駅と反対側に歩いて五分くらいです」

ごそごそと支度を整え、一回も座ることなくまた玄関に立つ。尾形もノロノロと後ろをついて歩いてきた。がちゃんと鍵を施錠して、軽い足取りでマンションの廊下を進む。エレベーターを待って一階まで降りると、ひゅうっと寒い風が吹き抜けた。今は随分寒いが、飲んだ後にこの風にあたるのがまた気持ちがいいのだ。
軽快に歩いていると、寒さに背を丸めた尾形がじろりとナマエを見て口を開く。

「そんなに楽しみか」
「はい!店主さんが面白いんですよ。常連さんも風変りな人多くて話聞いてるのも楽しくて」
「ほう……」

じっと考える素振りのまま、尾形はナマエの半歩後ろをついて歩いた。宣言通り、目的の居酒屋までは5分も歩けば辿り着く。赤ちょうちんの吊り下げられているレトロな雰囲気のそこは「呑み喰い屋 房ちゃん」と看板が掲げられている。

「…やっぱりここか」

尾形がぼそりとそう言ったが、がらりと戸を引く音でナマエの耳には届いていなかった。店内からは程よい熱気が流れ出てくる。19時そこそこの時間であるが、もう客はそれなりに入っているらしい。

「こんばんはー!二人空いてますか?」
「おーナマエ!奥の席使えよ」
「はーい」

良く通る声は凡そ接客業とは思えぬ言葉遣いであるが、それが少しも不快でないところがこの店の、というか店主のすごいところだ。彼は随分な長身を厨房に押し込めていて、長い黒髪を首の後ろできゅっとひと括りにしている、強い瞳が印象的な美丈夫だった。名前は海賊房太郎と名乗っているが、恐らく本名ではないと思われる。尾形が背後で舌を打つ。

「あれ!尾形じゃねぇか!!」

一等大きな声で房太郎がそう言い、ぎょっとして尾形を見る。尾形は面倒くさそうに髪をナデナデと撫でつけた。房太郎が厨房から出てきて、尾形のそばへとぐいぐい寄っていく。

「なんだよなんだよ。こないだ刺されたって聞いたから心配してたんだぜ?元気そうじゃねぇか!」
「くそうるせぇ…」

なにがなにやら全く分からないが、とりあえず房太郎と尾形が知り合いであることだけは確からしい。約三週間前に刺されたことまで知っているようだ。
尾形は半ば房太郎を無視するように奥の席に腰かけ、嫌そうな顔をするわりに帰らないんだなと変に感心をした。
向かい合う位置にナマエも腰を下ろすと、おしぼりを持った店員が楚々と近づいてくる。にこにこと愛想の良さそうなナマエも馴染みの店員である。

「ミョウジさん尾形さん、いらっしゃいませ…です」
「辺見さんこんばんは。私は生で…尾形さんどうします?」
「俺も同じでいい」
「じゃあ生二つ」

ナマエが指で2を作り、辺見は注文を手元の用紙に書きとっていく。辺見という男は、威勢のいい房太郎の店で働いているにしては随分控えめに見えるが、なにか不思議とこの店に馴染んでいるように思える。どこがそうさせるのかは今のところわからない。

「あといつもの」
「はい、いつもの…ですね」

尾形が勝手知ったる調子でそう言い、辺見も心得ているようだった。状況からしてナマエよりも尾形の方がよっぽど常連客であるとみえる。

「ちょっと尾形さん、お店知ってるなら言って下さいよ」
「お前が店の名前を言わなかったからだろう」
「…確かに」

隠し立てするつもりではなかったが、まさか尾形が知っているなんて思わなかったから店の名前まで言わなかったのだ。「だって知ってるなんて思わなかったんですよ」とそのまま言えば「俺は何となくここかと思ってたがな」と返ってきた。予想していたならやっぱり一言くらい言ってくれればよかったじゃないか。

「思ってたんなら言ってくれれば…って、あれ?」

尾形との今日までの話を振り返る。そういえば、知り合いのやっている居酒屋の帰りに刺されたといっていなかったか。まさかその居酒屋というのがここなんだろうか。ナマエがぐるぐると考えているうちに辺見が生中のジョッキをふたつ運んでくる。

「お疲れさまです?」
「ははっ、なんで疑問形なんだよ」

乾杯という雰囲気でもなければお疲れさまというのも違う気がして、それでもどちらかと言えばお疲れさまの方が相応しいかとそう言ってみれば、尾形が軽く笑った。緩められた目元に心臓がどきんと鳴る。こんなに柔らかく笑うこともあるのか。

「尾形さん、もしかして刺されたのってこの店からの帰りですか?」
「ああ。よくわかったな」
「連れてきといてなんですけど、来ちゃって大丈夫なんです?」
「問題ない。犯人は知り合いがカタをつけてる」

よくわからないが、その言い方では警察には通報していないようだ。やはり通報できないだけの事情があるんだろう。好奇心はあるが、首を突っ込むと恐ろしいことになる予感しかしない。
ナマエは「尾形さんが良いならいいですけど…」と言葉を濁し、きんきんに冷えたジョッキに口をつけた。肌寒い季節とはいえ、やはりビールは冷えているに限る。

「はぁー、金曜日はビールだなぁー」

ナマエが少しおやじっぽくそう言うと向かいで尾形が笑ったのが空気の振動で伝わってくる。案外笑う人なのか、それとも笑ってくれるようになったのか。尾形もジョッキをぐっと傾け、ビールを喉に流し込んでいく。ごくごくとその動きに合わせて隆起する喉仏から目を離すことが出来ない。

「知り合いがやってる居酒屋って言ってましたけど、尾形さんも房太郎さんの知り合いだったんですか?」
「まぁ、直接って言うよりは間接的な知り合いだが」

いわく、この店には出資してる老紳士がおり、その老紳士を経由してこの店に連れてこられたことがあるらしい。付け加えると、あれほど常連のように見えたが来店自体は数回なのだという。辺見には「いつもの」といって通じていたが、そうであればあれは辺見の覚えが良いからというほうが正しいだろう。

「ハイお待たせ。季節の刺身盛り合わせ」
「ありがとうございます」

丁度房太郎自ら皿を運んでやってきて会話らしい会話が途切れる。刺身の盛り合わせはいつも通り新鮮でつやつやと輝いていた。房太郎は厨房へ戻ることなくニコニコと二人を見下ろしていて、ナマエは疑問符を浮かべながら彼を見上げた。

「それにしても、尾形とナマエが知り合いだなんてなぁ」
「お前には関係ない」
「水臭いこと言うなよ。俺とお前の仲じゃねぇか」

随分と仲が良さそうに見えるけれど、これは房太郎特有の距離感であり、彼は初めて会った人間とその場で友達にもなれるような男である。房太郎が勝手に隣の腰かけて肩を組むようにすると、尾形があからさまに眉をひそめた。それにも気付いていてやめないところが房太郎のすごいところだろう。

「そうだ、あいつ、あの後どうなったんだ?」
「あいつってどいつだ」
「ほら、一回尾形を迎えに来た女だよ。お前の女なんだろ?」
「だからどれだよ」

目の前でぽんぽんと続けられる会話のキャッチボールをぼんやりと聞く。尾形を迎えに来た、ということはそれなりに関係の深い女性なんだろうか。しかも尾形はそれだけじゃ誰の事かも分からない様子だ。彼のことはよくわからないし出会い方も突飛過ぎて受け落ちていたが、結構な色男なのではないか。言い寄ってくる女性が山のようにいる、と言われても違和感はない。

「ナマエも尾形の女なの?」

突然ボールが自分の方に飛んできて思わず必要以上に大きく「えっ!」と叫んでしまった。房太郎はニコニコとこちらを見ていて、隣の尾形は「おい」と低い声で房太郎に抗議をしている。もっとも、そんな脅しで発言を撤回するような男ではない。

「あはは、そんなんじゃありませんよ。尾形さんとは、えーっと…」

房太郎の言葉を否定しながらちらりと尾形に視線をやった。尾形はナマエの部屋に半ば強引に居候しているだけの相手だ。その関係を第三者に正確に伝えることは難しい。昔からの知人というわけでもない異性を家に泊めているというのも冷静に考えればおかしなことだろうし、甚だ説明に困る。

「おい海賊、こいつに絡むな」
「ははッ、悪い悪い」

尾形が先ほどよりも低くそう言うと、声色の変化に気が付いた房太郎が両手を上げて口先だけで謝った。流石にこれ以上は面倒ごとに発展しかねないと判断したらしい。
房太郎は「たくさん注文していけよ」なんて適当なことを言いながら厨房に戻っていき、別の客の注文に取り掛かったようだった。

「尾形さん、やっぱりうちに避難してきてるってことは言わな方が良いですよね」
「べつに。海賊が面倒なだけだ」

そうは返ってきたけれど、やはり言わないほうがいい気がする。どうせ一か月のことだ。しかももう一週間が経過していて、つまり尾形がナマエの部屋にいるのもあと三週間だけのことである。思いのほか快適な毎日に慣れ切ってしまっていた。

「食わねぇのか」
「えっ、あ、いただきます」

ぼうっと考えてしまっていて全く料理に手を付けていなかった。尾形に促されてはっとして、ようやく箸を手に刺身を摘まみ上げたのだった。


あれこれと適度に飲み食いをして一時間が経った頃、がらりと店の戸が開いて新しい客が来店する。辺見の声で「いらっしゃいませ」と聞こえた後にその辺見が「あぁぁぁッ」と嬌声めいた悲鳴が上げた。何ごとだ、と思って入口の方を見ると、随分と男前の客が来店しているようだった。

「すっ、杉元さんッ…いらっしゃいませ…です」
「ああ、辺見さんこんばんは。今日二人空いてる?」
「えっと……」

あいにくと、狭い店内はそれなりに混み合い、二人分の席が空いている場所がない。すかさず厨房から房太郎が店頭に出てきて「白石に杉元じゃねぇか。相席でもいいだろ?」と声をかける。辺見のみならず房太郎も名前を知っているということは今きた二人組も常連なのだろう。

「ああ、別にいいぜ」

相席か。こんなに混んでるのだからそれも手だろう。他人事のように考えていると、房太郎が真っ直ぐにナマエと尾形の席までずんずんと足を進め、それによって「相席ってこの席か」と理解をする。尾形が嫌がらないのであれば別に構わなかった。

「杉元、このテーブル。尾形だから」
「おい海賊……」

尾形は抗議をしたが、わざわざ「尾形だから」と言ったところを見るに二人組の、少なくともどちらかとは知り合いだろうと思われる。男前の後ろから坊主頭のひょろりとした男が入店してきて二人組の全貌を知る。坊主頭の方が白石だろう。

「あ、ほんとだ。でも今日連れいるみたいだし、俺らは構わないけど…」

杉元がそう言いながら視線を向け、ちょうどナマエとかち合う。どうしたらいいものかと思いながらひょこりと会釈をした。尾形がそれ以上何かを言う前にすかさず房太郎が割って入り、ナマエと視線をあわせて「ナマエちゃんもいいだろ?」と尋ねる。

「えっと…私は大丈夫、ですけど…」
「ほらほらそう言うことだから」

房太郎はにこにこと笑顔で押し切って、目の前の尾形が「断れよ…」と面倒くさそうに声を出した。いや、これはどう言ったとしても上手いこと押し切られるパターンだったと思う。杉元がナマエの隣に座ろうとして、向かいに座っていた尾形が先に立ち上がってナマエの隣へ移動する。結局ナマエの向かいに杉元が座り、尾形の向かいに白石が座ることになった。

「ごめんね。相席になって。えっと…ナマエさん?」
「あ、いえ私は全然…」
「悪いと思ってるなら帰れよ」
「てめぇには言ってねぇクソ尾形」

尾形と杉元は相性が悪いのか座るなりそんな応酬が始まった。白石はというとそんなことは意にも介さず「辺見ちゃん、俺生中で」とマイペースに注文を進めている。本当に仲が悪いなら相席などせず店を変えるだろうし、嫌よ嫌よも好きのうちというやつなのだろうか。

「そういや尾形ちゃん、刺されたって聞いたけど大丈夫?」

白石が頬杖をついて言った。まるで日常茶飯事かのような言い回しに内心ギョッとする。人が刺されてこんなに平然としているなんて、房太郎を含めて三人とも「アッチ側の世界」の人間なのか、それとも尾形の素行が悪いのか、一体どちらなのだろう。






- ナノ -