05 料理、洗濯、休業中


なし崩し的に始まった尾形との共同生活は思いのほか快適だった。
隣室に人の気配があるというのにも想像より抵抗はなく、むしろ天候の不安な日に洗濯物を見ていてもらえるのはありがたいなと思う。

「……お前、いままでよく無事で生きてこられたな」
「え?」
「警戒心がなさすぎる」

警戒心を抱かせるべき根源の彼から何故説教じみたことを言われなければいけないのか甚だ疑問であるが、確かに尾形が悪人だった場合ナマエは今頃どうにかなっていてもおかしくない。

「それはそうかもですけど、だったら尾形さんのことそもそも手当してないですよ」
「そりゃそうだろうな」
「じゃあ良かったじゃないですか。あのままゴミ捨て場にいたらどうなってたかもわかりませんし」

流石のナマエもまったく見ず知らずの人間だったら、いくら救急車を拒否されたところで行き倒れるようなら確実に呼んでいるだろうと思う。尾形を家まで上げて手当をしようと思ったのはなにより彼が恩人だったからだ。

「とりあえず私もう出勤なんで、洗濯物だけお願いしますね」
「……おう」

時計を見れば中々いい時間だ。駅まで走りたくないし、もう早々に家を出たほうがいいだろう。月曜の朝から慌ただしく駅まで走るのは御免だ。ナマエはパンプスに足を滑り込ませ、鍵とスマホと財布を持ったことをもう一度確認すると「行ってきます」と言って部屋を後にした。

「……洗濯物頼んで出ていくとか…あいつ本当にのん気な女だな」

そう尾形が呆れたように言っていたのは、もちろん耳に入っていない。


月曜日はそれなりに慌ただしい。パソコンの持ち出しOKの会社なんかは土日でも仕事してる人がいるくらいだし、メールが結構溜まっている。取引先から定期的に配信されるニュースレターのようなものだけでも、土日月と三通は溜まる。

「おはようさん」
「あ、おはようございます」

いつも通りの時間に菊田が出勤してきた。まだ始業前だし、あの猫のことを聞いてみよう。そう思い立ち、さっそく「あの」と声をかけた。

「猫ちゃんのお泊り先、見つかりました?」
「ん?ああ、先週相談したやつか。大丈夫大丈夫、見つかったよ」

ナマエは菊田の返答に「良かったぁ」と言葉を漏らす。最終的にはペットホテルなんて手もあるんだろうが、長期間となるとそういうところは結構なストレスかもしれない。信頼して任せられるお宅に預けることが出来るというのはきっとその方が安心できるだろう。

「ミョウジさん、猫派?」
「そうですね。犬よりは猫派かもしれません。菊田課長は猫派ですか?犬派ですか?」
「どっちも好きだけど…どっちかって言えば犬派かな」
「そうなんですね。かっこいい洋犬とか似合いそうです」

そう言いながら、頭にどうしてだか浮かんでいたのは尾形のことだった。あの特徴的な目や気まぐれなところが、どこか猫を思わせるところがあるのかもしれない。成人男性に猫っぽいだなんて、何だか変な話ではあると思うけれど。
そんな話をしているうちに始業時間が近づき、ナマエも菊田も自分のデスクに向かってその日の仕事の準備を始める。さて、また一週間の始まりである。


30分程度の残業をこなして帰路につく。残業なんて1分1秒たりともしたくはないが、そうもいっていられないのがサラリーマンの悲しいところである。帰ったら尾形の分の夕食も作らなくては。そろそろ使ってしまいたいニンジンがあったはずだし、シリシリでも作ろうか。

「お米だけでも炊いてくれてると嬉しいんだけどなぁ……」

こんなことなら洗濯ものだけじゃなくて米を炊いてくれるように頼んでおけばよかった。自分でも多少慣れすぎかとも思うが、尾形があまりにも当たり前のような顔をしてくるものだから、何だかそういうものかと流されてしまうのだ。
エレベーターで5階に上がり、角部屋までトコトコと移動する。鍵をいつものように開けてドアノブを引けば、内側から当然のように人の気配がする。

「ただいま」

自分の家でこの言葉を口にするのは何だかくすぐったい。返してくれる人がいるわけでもないから、普段はおざなりにしてしまっているのだ。
玄関からすぐのところにキッチンのスペースがあり、あろうことかそこから香ばしい料理の匂いが漂ってきた。慌ててパンプスを脱いでキッチンを覗き込めば、そこには当たり前のような顔をした尾形がフライパンを振るっていた。

「おう」
「た、ただいま……って、何してるんです?」
「見て分かんねぇか、料理だ料理」

それはわかるが。正確には「何で料理なんてしてるんですか」というところだろう。尾形はさっと視線をフライパンに戻し、食器類をしまっている戸棚から皿を取り出して盛り付けていく。その手つきは少しも余分がなく、随分と慣れているように見える。

「尾形さん、料理出来たんですね」
「べつに出来ないとは言ってない」
「確かに」

料理をしてもらおうなんて考えてもなかったから聞こうなんて頭がなかった。見た目で判断するのはなんだけれど、料理なんてしそうなタイプに見えなかったというのもある。ナマエが呆然とその様子を見つめていると「見られていると集中できない」と言ってソファのところに追いやられてしまった。この部屋の家主は私だぞ、と思うも、夕食を作ってくれる相手にそれを言うのもなんだかな、とソファに座って大人しく出来上がりを待つ。

「ほらよ」
「ありがとうございます」

十分程度で完成したようで、尾形は料理を盛り付けた皿をテーブルに運んでいく。筑前煮、豆腐とわかめの味噌汁、つくねのれんこん挟み焼き、ほうれん草のお浸しに白米。どことなく田舎の祖父母を思わせるようなメニューはまたしても彼の見た目とのギャップを感じさせた。

「いただきます」
「ん」

器はどれも週末に買ったばかりの新しいもので、見慣れないせいかそれもこの料理を特別なもののように感じさせる。筑前煮からニンジンを摘まみ上げ、乱切りにされたそれをぱくりと口に含む。出汁がしみていてじゅわりと広がった。

「んっ、美味しい…」

自分の家の味とは違うが、どこか懐かしさを感じる。これが彼の家の味なんだろうか。普段の生活も、ましてや生い立ちなんて知るわけがないのだからそれは分からないことではあるが。

「和食、好きなんですか?」
「……バァちゃんがよく…作ってたから…」

土曜日に聞いたときはあまりこだわりもないふうだったのに、よくよく掘り下げればちゃんと自分の好みがある。それにおばあちゃん子だなんてところはまたしても意外なところで、またも彼の見た目とのギャップを知った。
尾形はやはり行儀のよい箸捌きでれんこんの挟み焼きを一口大に切り、小さい口にぱくりと運ぶ。ナマエも真似るみたいに挟み焼きを頬張った。

「なんか誰かが作ってくれる料理って久しぶりだなぁと思って。良いですね、こういうのって」

ぽつりとそう溢すと、尾形が箸を持つ手を止めてナマエをじっと見つめた。外食をすることはあるが、こうして誰かの手料理を食べるなんていうのは随分と久しぶりのことだった。学生の頃にそんなことがあってような気もするが、彼氏がいるときもナマエが作ってばかりだった。

「料理できる男のひとって良いですよねぇ」

そこまで料理が嫌いというほどでもないが、なるべく楽をしたいと思うタイプであることは間違いない。食べてくれる相手がいるときは気合も入るけれど、自分一人の時はかなり適当だ。尾形が普段からここまでするのかどうかは分からないけれど、手際を見る限りそれなりに普段からやっているのだろう。

「ほう。俺みたいなのがタイプか」
「えっ!いや!そう言うことじゃなくて…!」
「なんだよ。俺はやぶさかじゃないぜ」

尾形がにやにやと笑いを浮かべる。一般論を言ったのであって、尾形が良いと言ったわけではない。しかしまぁこの流れでそう思われるのは当然で、この反応を見るにどうせ尾形はナマエがそんなつもりで言ったわけではないと分かっていてからかっているに違いなかった。

「いままで料理する人と付き合ったことないんです。実家の父もキッチンに立ちませんし…だから男のひとが料理するのって新鮮だなって思っただけですから」

むきになれば絶対にもっとからかって来るに違いない。そう思い、ナマエは一度咳ばらいをするとなるべく平坦な声でそう返した。別に本当に他意なんてないのだし、言っていることも嘘ではない。

「良かったな、今日から俺が毎日作ってやるよ」

どこに「良かったな」が修飾されているのかはイマイチ不明であるが、随分と嬉しそうにしている。私をからかうのがそんなに楽しいか、と心の中で悪態をつきつつ、ナマエは「明日はオムライスがいいです」と図々しく言ってみせたのだった。


たっぷりと美味い食事で腹が満たされ、風呂に入ればもうすっかりリラックスモードだ。風呂を出たら尾形は日課とばかりにカメラのレンズを磨いている。そんなに毎日手入れをするのかと尋ねたら何か機嫌を損ねたようだったし、これは聞かない方がいいんだろう。
今日の夕方に来た見積もりを明日に回してしまっている。朝イチで処理しなければいけないな。大したことじゃなくても、勤務時間外にうっかり仕事のことを考えてしまうと少しげんなりとしてしまう。

「尾形さん、1か月ウチにいるって言ってましたけど、お仕事とか大丈夫なんですか?」

そういえば、と思い立って尾形にそう尋ねた。彼の職業は知らないが、というか知らないほうがいいかもしれないが、そんな長期間顔も出さずにいて良いものなのだろうか。尾形はレンズを磨く手を止め、ナマエを見上げた。これは尾形の癖なのか、彼は何かを言う前にこうして少し黙ってこちらの様子を観察するような態度をとる。

「問題ない。いまは休業中みたいなもんだ」
「えっ、ああいう仕事に休業とかあるんですか!?」
「ああいう仕事ってなんだ」
「あはは…いや、何でもないでーす…」

いけない。盛大に墓穴を掘るところだった。ヤの着く自由業に休業や休職の制度があるかどうかは知らないが、あってもなくても一生知らなくていいことだろう。

「おいお前…なんか勘違いしてるだろ」
「いえ何にも!微塵も!あはは、お仕事の心配ないなら大丈夫でーす」

じとりとした尾形の視線から逃げるようにキッチンに立ち、電気ポッドの電源を入れて湯を沸かす。酒は金曜か土曜くらいしか飲まないので、風呂上がりにノンカフェインの飲み物を飲むのが日課になっている。さて今日は何にしようかとティーバックやらスティックタイプの顆粒コーヒーやらを入れているかごを取り出した。

「尾形さんなに飲みます?」
「何がある?」
「普通の紅茶と、カモミールティーとルイボスティーと…あとコーヒーです。全部ノンカフェインのやつですよ」

かごの中身を指折り数えるように読み上げると、尾形のほうを振り返る。いつの間にかカメラのレンズはバッグの中にすっかりしまわれていた。立ち上がると、自分の目で確かめでもしたいのか尾形がトコトコそばまで寄ってくる。そしてかごの中身を覗き込んで開口一番「酒はねぇんだな」と言った。

「えっ、お酒が良いですか?ビールと焼酎ならありますけど…」
「違う。嬉々としてビール飲んでたろ。好きなのかと思っただけだ」
「ああ、基本晩酌は週末って決めてるんですよ」

酒は好きだが、好きだからこそ思いっきり飲める方がいい。嫌なことを酒で流せるタイプでもないし、自棄酒の類もしたことがなかった。尾形はその言葉に特に返事もせず、代わりに「コーヒー」とだけ返ってきた。
ナマエはスティックタイプのそれをマグカップに入れると、丁度のタイミングで沸いたお湯をそれに注ぎ入れる。自分にはルイボスティーを用意して、彼の占拠するソファに向かう。どうぞ、と差し出すと、尾形は立ちのぼる湯気をじっと見つめた。そういえば彼は猫舌なのだった。

「そうだ、尾形さんお酒好きですか?」
「まぁ人並みには飲む」
「じゃあ今度近所の居酒屋いきません?見つけたばっかりなんですけど、お気に入りのお店があるんです」
「ああ、別に構わんが」

数ヶ月前に見つけた近くの小さな居酒屋。あそこは穴場というか、酒の種類も揃っているし料理が美味い。とくに海鮮が絶品で、店主自ら獲りに行くこともあるのだという。おおらかな人柄も飲んでいてい楽しいし、常連客も個性的で面白い。そこに尾形が馴染むかどうかは別として、あんなに美味い料理と酒なら味わっていて損はないだろう。

「じゃあ、今週の金曜日に行きましょう」

前回足を運んだ時から少し時間が空いてしまっている。旬のものを使った自慢のメニューはどんなふうに変わっているだろうか。






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