02 出勤、食パン、恩返し


慣れ親しみつつある自分の部屋に手負いの男がいる。フィクションのような文言であるが、これが目の前の現実なのだから、小説よりも奇なりというやつだろう。男は腹を押さえながら上半身を起こそうとしてナマエはその背中に手を添えて動きをサポートした。

「それにしても……見ず知らずの男を部屋に上げるとは…危機管理能力死んでんのか?」

男が髪をナデナデと撫でつけながら言った。助けられておいて随分な言い草だ。確かに一晩寝て起きてとんでもないことをしているなという自覚はあるけれど。

「一応初対面じゃないので…その、命の恩人に恩返し的な意味もありまして」
「ア?どっかで会ったか?」

男はじっとナマエを見つめる。黒々とした大きな瞳が印象的だった。彼からしてみれば些細な出来事だったのかもしれない。それにしても、やはり堅気じゃないと直感で思ったのは間違いがなかったようだ。

「覚えてないかも知れないですけど、路地で絡まれてるとこ助けていただいて…」
「……ああ、あったな、そんなこと」

じっと何とも言えない沈黙が落ちる。一応は思い出してくれたようだし、これ以上話題を広げることもあるまい。

「朝ごはん作りますけど、食べられます?」

どっこいしょ、と立ち上がってそう尋ねると、男はきょとんと目を見開いたあとでコクンと首を縦に振る。こういうときの食事ってどういうものなんだろう。残念ながら、おなかをざっくり刺されたときの療養食なんて見たことも聞いたこともない。無難にお粥でも用意すればいいのか。ナマエは冷凍ご飯と一人用の土鍋を取り出し、お粥づくりに取り掛かる。土鍋でお粥を作るなんて久しぶりだ。

「……のん気な女だな」
「えっ、何か言いました?ごめんなさい、聞こえなくて」

リビングのほうから何か言われたが、調理の音で良く聞こえなかった。顔だけで振り返ってみても、彼は「何でもない」と言って顔をそらしてしまったから真相はわからない。独り言だったのだろうか。
柔らかく仕上がったそれに塩昆布を乗せ、小鉢に梅干しを乗せてローテーブルに運ぶ。それを見て男がのそのそと動き出し、土鍋の前に腰を下ろした。

「味薄かったら適当にお塩足して下さい」
「……ああ」

お粥が正解だったのかどうかは分からないが、とりあえず不正解ではないらしい。男はスプーンを手にして土鍋の中のお粥に向き合う。冷凍ご飯はあいにく今のお粥で使い切ってしまった。自分の朝食はどうしようか。

「ま、今日はこれでいっか」

電子レンジの上に転がしていた食パンの袋を手に取り、適当な皿に乗せてローテーブルに向かう。普段はトーストを作らないのでジャムやマーガリンがない。気まぐれにフレンチトーストを作ろうとした時の名残りである。
横とも向かいとも言えない距離に腰を下ろし、ナマエは「いただきます」と手を合わせて食パンに噛り付く。そのままでも案外美味い。そのまま数回かじって咀嚼していると、視線を感じてそろそろ目を向ける。案の定男がジィっとナマエを見ていた。

「あの…なにか?」
「…そのまま食うのか」
「え、あ、はい。そのままでも結構美味しいですよ」

生肉を食べているわじゃあるまいし、そんなに怪訝な顔をされる言われはない。男はそれ以上何も言わなかったが、何か言いたげにナマエを、というか食パンを見つめたままだ。ひょっとしてパンの方が好みだっただろうか。

「パンの方が良かったですか?」
「は?」
「ごめんなさい、これ最後の一枚で…」

がっつり噛り付いてしまっているから今更交換も出来ない。それに我が家にはマーガリンもジャムもないし、お気に召す食べ方は出来ないだろうと思う。ナマエの言葉に男は「そういうことじゃねぇ」と相槌を返してきた。ではどういうことだろうか。

「そのまま何にもつけずに食べるなんて変な女だと思っただけだ」
「変って…そのままでも結構美味しいんですってば」

食パンは何もつけないままでも美味いものである。製パン会社の企業努力の賜物であると思う。ナマエが大真面目に返せば、それが何かお気に召したのか、彼の口元が少し緩む。そう言う表情をしていると、主に目力からくる威圧感のようなものは少し和らぐように感じた。
思いのほか普通に彼は食事を終え「世話になったな」と言って立ち上がる。立ち上がる際にはやはりよろめいて、彼の腹部に随分な傷があったことを思い出した。

「あの、大丈夫ですか?」
「問題ない。迎えが来てる」

それなら自分がこれ以上あれこれ言う必要はないだろう。そうですか、とだけ返事をしてよたよたと玄関に向かう彼を見送って、バタン、確認して靴音が遠ざかるのを確認してからこっそり廊下に出た。ここからエントランス側が見えるのだ。隙間から慎重に覗くとエントランスの前のところに黒塗りのセダンが停まっていた。男はその車に迷いなく乗り込むと、セダンは緩やかに発進して遠ざかる。

「……黒塗りの高級車」

車種までは分からなかったけど、そういうひと御用達感はどう頑張っても拭えるとは思えない。


とんでもない週末を過ごしてしまったな、と思いながら出勤をする。結局秋限定のビールは土曜の夜に持ち越しになった。これから必要になるかどうかもわからないけれど一応補充をしておくか、とドラッグストアに向かい、包帯とガーゼとワセリンの新品を買った。
日曜日は日曜日で身に起こった非現実的なことを振り返って妙な心地になり、つまるとことなんとなくソワソワした週末になってしまったのだ

「おはようございます」

ナマエの仕事は医療機器メーカーの営業事務である。契約社員の立場だけども、頑張り次第では正社員登用もされるし、その実績もいくつもある。自分のデスクに向かってパソコンを立ち上げ、朝のメールチェックをする。生産管理課から部材調達の遅れについて連絡が入っている。
営業に比べれば気楽な部分はあるが、社内外の折衝はそれなりに経験がなければ円滑にいかないし、外出することが少ないなら社内環境が悪いと一巻の終わりだ。後者に関しては恵まれていて、特に問題を感じるようなことはなかった。自分がアシスタントをしている営業社員の人柄がいいというのもあるが。

「おー、おはようミョウジさん」
「あ、菊田課長!おはようございます」

ナマエのデスクと同じ島のお誕生日席を使っているのがその営業社員で、名前を菊田といった。正確な年齢は知らないが、40代のナイスミドルである。人柄も良くて見た目も声も渋くて、なのに独身だというのだからひっそりと女性社員たちが恋人の座を狙っている。

「そういやA歯科医院さんのユニットなんだけどさぁ、内覧会の前にごく身内で集まるらしくて、そのときに間に合わせられないかって依頼があったんだけど……って、スマンスマン、まだ始業前だったな」
「いえ、大丈夫です。丁度確認してたところなので」

菊田が少し申し訳なさそうに眉を下げながら言った。始業前といってもあと15分もないし、そのくらいのことなら言ってくれて構わないのに、と思いながら先方との打合せ資料に目を通していく。
幸い混み具合もさほどではなかったから前倒しで納品も出来そうだ。搬入のトラックも都合がつきそうだし、先方の希望に添えるだろう。
ナマエの仕事は主に納期管理と客先との折衝、見積りの作成と受注業務である。メールでのやり取りがメインだが、もちろんこれに電話でのやり取りも加わる。自分のペースで処理できるメールに比べて電話は相手にイニシアチブを取られがちだからあまり得意とは言えなかった。

「ミョウジさん、△△ヘルスケアさん1番お電話です」
「あ、はーい」

ぼんやり考えているそばから外線が入る。お電話代わりましたミョウジです、という常套句で電話に出て、欠品商品の次回入荷時期についてあれこれと調べたのだった。


社会人になってから、季節感というものが日々薄れて行っている気がする。転職活動をしていた時はなんだかんだとバタついたり、それまでにないことをしたりと新鮮味のある出来事があったものだが、ここ最近はこういうこともない。
朝起きて出勤し、一日仕事をして残業もそこそこに帰宅をする。良くも悪くもそれを繰り返す平凡な日々が流れていく。ああして手負いの男を拾うなんて非日常中の非日常で、現実味に欠け過ぎてもしかして夢だったかもしれないと、二週間がたちそんなふうに思い始めた時だった。

「え」

エレベーターで5階に辿り着き、自分の部屋のある右側にくるりと曲がる。するとどうにも自分の部屋の前に見覚えのある人影がある。黒いコートにツーブロックの髪をオールバックにする、猫のような目の男。

「おう、帰ってきたか」
「え、は、えぇぇ?」

目の前にいるのは間違いなくあの日手当てをしてやった男だ。手にはボストンバッグを持っていて、今日はどこも怪我をしている様子はない。何か忘れ物でもあったのか、いや、忘れるほどものを持っていなかったように思える。

「あ、あの、何かご用でした…?」
「単刀直入に言うが、しばらくお前の部屋に泊めてくれ」
「は!?」

単刀直入過ぎて一体何の話だか理解が出来なかった。とにかく夜もそこそこの時間だというのに大声を出してしまい、慌てて自分の口を自分で塞ぐ。まさかボストンバッグの中身がお泊りセットだとでも言うのか。いや、なんでうちに転がり込んでくるんだ。

「ちょ、急にそんなこと言われても困ります!」
「世の中助け合いだろ。俺んち火事でしばらく住めないんだ」
「いや、それはお気の毒だと思いますけど…」

ごにょごにょと押し問答を続ける。そのうちにエレベーターが5階に止まる気配がして、ご近所にあらぬ噂を立てられるのはまずいと手早く鍵をあけて男を押し込んだ。ふう、と一息つけば、頭上からクククと笑う声が降ってくる。

「簡単に部屋に入れるなよ」
「いや、お隣さんに変なふうに思われると不味いじゃないですか」
「ははっ、通報なりなんなりすればいいだろ」

なんて言い草だろう。勝手に押しかけておいてこんな言い草があるか。しかも彼は怪我をした時でさえ警察を嫌がったのだ。実際通報しようものなら何をされるか分かったものじゃない。
ナマエがそんなことを思っている間に男は靴を脱ぎ、あたかも勝手知ったる様子で部屋に上がりこむ。ナマエも慌ててその後ろを追った。

「一か月でいい。特に何の世話もいらんし金も払う。寝床だけ貸してくれ」
「何でうちなんですか。お友達のところ行って下さいよ」
「友人はいない」
「や、そんな悲壮なエピソード聞かされてもですね……」

ナマエがもごもごと言っている間にも彼は我が物顔でソファに座り、ぽちぽちとテレビを操作している。そのマイペースな様子に言葉が通じなさそうだということを悟る。

「…火事って原因はなんなんですか?」
「放火」
「えッ!!」

思わずまた大きな声を上げた。放火とは火災の原因として決して特殊なものではないが、家屋での火災の場合は大概事後の警察の捜査によって判明するものだ。今日の寝床を探しに来ているようなタイミングで原因を放火だと断定的に言うなんて、なにか心当たりでもあるのだろうか。

「……だからって、なんでうちなんです?」
「この辺の場所は知り合いも住んでないし用もないからな。足がつきにくい」

言葉の端々に反社会的なアレコレが滲んでいる気がする。暴力で解決しようという素振りはないけれど、ああいう社会の人間は上に行けば上に行くほど堅気にそんなものを振りかざすことはないと聞いたことがある。

「俺はお前の命の恩人なんだろ。恩返しとしちゃ、安いじゃねぇか」

それを言われると非常に言い返しづらい。タラレバの話ではあるが、あのとき路地で助けて貰わなければ今頃どうなっていたか分かったものじゃない。ぐるぐると思考を脳みそのなかで回し、最終的にそれを吐き出すかのように大きくため息をついた。

「一か月は無理です。一晩だけ泊めますから、あとはなんとかしてください。えーっと…」

精一杯の妥協案を導き出し、彼の名前を呼ぼうとしたがまだ名前さえ聞いていないと言葉を詰まらせる。彼の方もそれで躓いたのだと理解して、小さく「尾形」と名乗った。
今日はまだ木曜日だ。明日も仕事がある。ごねて来ないところを見る限り、彼もきっとこれ以上の交渉は無理だと理解したに違いない。こんな押し問答をしていたら腹が減ってきてしまった。冷蔵庫の中のもので適当に夕飯を作らなければ。






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