19 失せもの、証明、繰り返し


尾形と連絡が取れないまま、それからまた五日が過ぎた。その間に勇作から一度連絡があったが、様子を窺う内容で尾形の所在が掴めたわけではなかった。今年の仕事納めは28日だ。午前中だけ通常営業という事にはなっているが、こんな年の瀬に通常稼働している業者のほうが少なく、実質ちょっとした業務と大掃除の日として認識されている。

「あ、こんなところにあったんだ」

自分のデスク周りを早々に片づけたナマエは共用スペースの掃除を買って出ていた。主にカタログ類が置いてあるそのキャビネットを整頓していると、隙間から黒い名入りのボールペンが出てきた。書かれているのはイニシャルでM.K。それだけだといくらでも該当者がいそうだが、あいにくナマエはこのボールペンの持ち主を予め知っていた。

「菊田課長、前に探されてたボールペン、キャビネットの脇から出てきましたよー」
「うえぇ、マジかぁ」

仕事が出来ることでお馴染みの菊田だが、整理整頓が苦手なところが彼の数少ない欠点だった。今はペーパーレス化が進んでマシに待っているそうだが、社歴の古い社員によれば、紙での管理がメインだった時代はデスクの上に書類が積まれ、相当酷かったらしい。

「これですよね?」
「ああそうそう。キャビネット周りも探したんだけどなぁ」
「探し物って諦めた途端に出てくるとかあるあるですよね」
「確かに」

不思議なもので、探し物というのは必死になって探せば探すほど出てこないものである。諦めると、不意な場所からころりと出てくるものだ。それが何度探してもなかったはずの場所から出てくるから、本当に不思議なものなのだが。
キャビネットの整頓を終えると、別の女性社員と一緒に給湯室の掃除をした。普段は中々やらないコンロ周りも重点的に掃除をする。

「ミョウジさんって、年末年始どこか行ったりします?」
「あー、私は特に。安定の寝正月ですかね」
「あはは、ゆっくりできるいい機会ですもんね。うちは夫の実家に帰らなきゃいけないんでもうプレッシャーで」
「青森でしたっけ?」
「そうなんですよ。田舎あるあるっていうか、女の人が朝から晩まであれこれ支度して宴会してって感じで忙しなくて」

手を動かしながらそんな話をした。彼女の旦那の実家は青森の田舎のほうで、絵に描いたような田舎の付き合いが未だに色濃く、しかも高齢者は言葉が聞き取れないこともあって難儀をしている、という話は何度か聞いたことがあった。

「ミョウジさんはご実家帰ったりしないんですか?」
「年末年始外して帰ってます。新幹線も混みますし」
「確かに。混まなくていい時期に帰省でいいなら絶対そっちの方がいいですもんね!」

シャカシャカと中性洗剤をつけたスポンジでコンロを磨く。基本的に湯を沸かすこと以外に使われることは少ないから、汚れと言っても大したことはない。あっという間に給湯室の掃除が終わって、自分のデスクに戻る頃には全体も粗方片付いているように思われた。こうしてオフィスの掃除をすると仕事納めを如実に感じる。今年ももう一年が終わってしまう。


1時間弱の部署での納会を終え、郵便局に寄って帰宅してもまだ5時前だった。もう毎日この時間に帰ることが出来たらいいのに、と少し現実逃避をする。

「はぁ。今年はなんか……後半が怒涛だったなぁ…」

ぽつりと独り言を漏らす。運悪く妙な男に絡まれ、それを助けてもらった。今度は助けてくれた男を助けることになり、なし崩しで一緒に暮らして、いつの間にか好きになって、お互いよく知りもしないまま恋人になった。職業も下の名前も知らない状態で付き合うなんて、我ながらどうかしている。
ぽつぽつそんなことを考えながら歩いていると、あっという間にマンションに辿り着いた。エントランスに入り、エレベーターに乗る。そのまま5階に辿り着き、自分の部屋のある右側にくるりと曲がる。するとどうにも自分の部屋の前に見覚えのある人影があった。黒いコートにツーブロックの髪をオールバックにする、猫のような目の男。

「え……」
「おう」
「うそ、え…ひゃ、百之助…!?」

あろうことか、自分の部屋の前にいたのは尾形だった。ナマエは呆然と立ち尽くし、どさりと持っていた鞄を落とす。尾形が緩慢な動作で歩み寄り、落としたナマエの鞄を拾い上げる。

「今日早いな。ああ、仕事納めか?」
「う、うん……そう、だけど…」

あまりに平然とそう言うものだから、頭の中でいろいろと考えていたはずの言葉は何一つ出てこない。数歩進んだ先でナマエがついてきていないことに気が付き、ふっと振り返る。勝手知ったる様子でポケットから鍵を取り出し、鍵穴にかちゃりと差し込む。

「なんだよ、風邪ひくぞ」

そのうちにエレベーターが5階に止まる気配がして、はっとそこで我に返ってご近所にあらぬ噂を立てられるのはまずいと尾形と二人部屋の中に転がり込む。ああ、そういえば尾形がこの部屋に住みつくきっかけになった日も、こんな風になだれ込んだのだった。

「百之助、なんでここにいるの!」
「同棲してんだから俺の家みたいなもんだろ。帰ってきちゃ悪いかよ」
「そういうことじゃなくて!」

掴みかかるような勢いで尾形に言って、言葉が喉の奥で絡まってそれ以上出てきてくれない。いままでどこ行ってたの。なんで何も言わずに出ていったの。どうして連絡もくれなかったの。

「……寂しかった」

掴みかかる姿勢のまま動けなくなって、すると尾形がナマエの肩を引き寄せるようにして抱きしめる。ああ、尾形だ。間違いなく彼だ。もういろんな感情がないまぜになって、最後は彼にまた会えた嬉しさで上書きされてしまった。

「…ちょっと訳アリでな。お前のことを詮索されたくなくて隠れてた」
「言ってくれればいいじゃん。心配した。百之助は私に飽きちゃったのかなって、もう会えないのかなって思った」
「飽きたとか誰も言ってねえだろ」
「そうだけど……連絡くらいちょうだいよ」

ナマエがそこまで言うと尾形が折れて小さな声で「悪い」と謝った。謝るところなんて初めて見たかもしれない。尾形の胸元に額を押し付ける。彼の香りと、自分の家のものとは違う柔軟剤の匂いが香ってきた。


尾形のボストンバッグをリビングの隅に置くと、座ってろ、と尾形が言いつけてキッチンに立つ。飲み物を淹れてくれるつもりらしい。しばらく待っているとコーヒーを手にした尾形が戻ってきて、並びあってソファに腰かける。当然のようにブーツ型のお揃いのマグカップを使っている。

「ん」
「…ありがと」

マグカップを受け取って、ちらりと彼のほうを見ればふうふうと執拗に息をかけている。両手で包むようにマグカップを持ち、ずずず、とひとくちコーヒーをすする。

「百之助、どこにいたの?」
「ギャラリーの腐れ縁の部屋に逃げ込んでた。で、もうさっさと帰れって締め出されて戻ってきた」
「締め出されてなかったら戻ってこなかったつもり?」
「いや、どっちにしろ年末には戻るつもりだった」

それもどうだか分からないが、いまここでそんなことを責めても意味がないだろう。ナマエは少し腑に落ちないものを感じながらも、うら寂しくなっていた部屋の穴を埋めてくれていることを嬉しく感じた。

「あ、そうだ。連絡しないと」
「あ?何のだよ」
「百之助の安否の報告。花沢さんに」

尾形の無事を確認できたのだから、仔細はともあれ勇作に無事だけは報告する必要があるだろう。ナマエがスマホを取り出すと、尾形はぎょっとしてスマホを操作するナマエの手を掴んで止める。

「おい待て、なんでお前があの人の連絡先を知っている」
「え?先週百之助のこと探しに来て、安否も確認できてなかったでしょう。だからどっちかがもし連絡がとれたらお互い知らせようって……」
「まったく余計なことを……」
「勝手にそんな話してたのは申し訳ないけど…花沢さんって百之助の弟なんでしょ?安否確認の連絡くらいはしてあげてもいいんじゃ……」

中々複雑な関係らしいことはうかがい知れるところであるが、安否確認の報告ぐらいしないと最悪捜索願を出されかねない。そんなことは流石の尾形も本意ではないだろう。尾形は腹の底からため息をつき、ひらりと落ちる髪の一束をかき上げる。

「だから隠れてたんだよ」
「え?」
「勇作が俺を探してるんだ。それであいつの身動きの取れない年末を狙って戻ってきたんだよ」

まさか勇作から逃げるために姿を消したなんて想像もしていなかった。尾形は苦虫を噛み潰したような表情になりながら、自分と勇作の関係について打ち明けた。

「お前も聞いたかもしれんが、あのひとは弟と言っても異母兄弟で、しかもあっちは警察官僚の家系、俺はその私生児だ」

父は警察官僚、母は水商売の女で不倫相手。自分は望まれない子供で、結局自分と母親は手切れ金を渡されるようなかたちで捨てられた。尾形の存在は内密に隠匿されていたはずなのに、いつからだったか、何処からか聞きつけた勇作がまるで本当の兄弟のように接してくるようになった。

「……問題は何年か前からだ。俺はセフレに無理心中を図られた。それがきっかけであの人は俺の身辺をいつも勝手に調べてるんだ」
「はぁ!?無理心中って…大丈夫だったの!?」
「ああ。それ自体は大したことなかったが……いちいち兄様兄様と付き纏ってきやがる。お前のことも調べられたらたまったもんじゃねえだろ」

想像の何倍もこじれた人間関係は、到底ナマエに理解できるような事ではない。しかし先日顔を合わせた勇作から、何か悪意のようなものを感じたかといえばそれは否だ。二人には二人にしか解決できないことがある。ナマエは慎重に言葉を選んだ。

「花沢さん、百之助のこと心配してるんだよ」

ナマエの言葉も尾形は「身勝手な話だ」とばっさり切り捨ててしまった。どうにもこの問題は根が深そうだ。他人の自分が早々口を出せる話ではないだろう。尾形はさらに続けた。

「あの人は愛されて育った。愛し合う親の元に生まれて、愛を受けて、それを他人に振りまいて生きているような人だ。俺とは違う」

尾形の掠れた声が吐き出される。愛、とは、尾形百之助という人間を構成する上で欠かせない大きなピースのように思われた。スランプから脱却するために生活を撮影したいと話をされたときも尾形は愛の話をしていた。嘲笑するように口を歪める。

「俺には愛がないらしい。今まで散々言われてきた。正反対のあの人とはまるで分かり合えない」
「百之助」

ナマエはマグカップをテーブルに置くと、体勢を整えて尾形に向き合った。尾形は何も言わないまま視線だけナマエを一瞥し、感情の読めない顔のまま視線を逸らす。ナマエはそうはさせるものかと尾形の手を掴んだ。

「百之助に愛がないわけじゃないでしょ」

尾形の身体がピクリと痙攣するように動き、ナマエは逃がさないように覗き込んで目を合わせる。何を考えているかイマイチわからないと思っていた猫のような目が、いまなら何を考えているのかよくわかる。

「兄弟の問題には口出しできないけどさ、百之助に愛がちゃんとあるってことは、私もよくわかってる。一緒に暮らしてて、百之助はわかりづらいところもあるけど…ちゃんと私のこと愛してくれてるなって、何度も思うことあったよ」

例えば帰宅したときに出迎えてくれるところ、例えば金曜日は晩酌だからとそれに合う料理を作ってくれるところ、例えば自分が落ち込んでいるとき、そっと寄り添ってくれるところ。確かに愛情を感じていた。だからこそ、それが失われてしまったのかと思ってショックを受けた。最初からないと思っているなら、ショックの受けようもないはずだ。

「百之助が不安なら、私がずっとそばで証明する」
「ナマエ……」

尾形が大きく何度かまばたきをして、黒々とした瞳に自分が映っているのを確認した。愛とは何だろう。目に見えないものの存在を証明するには、繰り返すしかない。心の底から信じられるように何度も何度も、ここにあることを言葉で、声で、身体で、証明し続けるしかできない。果てのない話だ。

「今日、百之助が料理作ってよ。私、百之助の料理好き」

ナマエがそう言えば、尾形は黙ってこくりと頷いた。今日は和食か、洋食か、それとも中華か。まさか今日帰ってきてくれると思わなかったから、冷蔵庫の中身はかなり寂しいはずである。尾形が腰を上げてキッチンに立ち、冷蔵庫を開けてナマエを振り返る。

「おい、ロクな食材がねえ」
「じゃあ、今から一緒に買い物行こ」

ナマエの声に尾形は脱いだばかりのコートをまた着て、ナマエも通勤用のものではないコートを羽織った。顔を上げれば尾形は既に靴まで履いてナマエを待っていた。まるで散歩を待つ犬ならぬ、散歩を待つ猫である。

「本当に、諦めた途端に出てくるもんなんだなぁ」

こぼれたナマエの言葉に尾形が「何の話だよ」と尋ねる。べつに説明したって良かったが、それよりもなんだか秘密にしたい気分になって「こっちの話」と誤魔化した。






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