01 金曜、野良猫、秋ビール
毎週金曜日はコンビニで必ずビールを買う。
近所のスーパーのほうが割安だと分かってはいるが、金曜日だけは必ずコンビニと決めていた。コンビニのほうが新商品も早く置いているし、ついでにちょっとしたつまみを買うのにも適しているからだ。
「ふふふ、秋限定楽しみ」
盛大に独り言を漏らしながらナマエは自宅マンションへの道を急ぐ。ビールは夏によく飲まれるものであり、実際売上高も暑い夏が最高である。しかしそれだけではない。秋から冬にかけては味が濃く香りの芳醇な、いわゆる秋ビールが発売される。ナマエはこれを毎年心待ちにしていた。
「はぁ、飲み比べもしないとなぁ」
この辺りに住み始めてまだ一年も経っていないけれど、マンションの近くにコンビニとスーパーが二軒あるのが気に入っている。数か月前に近くに小さな居酒屋を発見し、それもひとつ日々の楽しみになっていた。
昼間に雨が降ったせいでアスファルトがまだ濡れている。水たまりになっているところもあって、それに足を浸してしまわないように避けて歩いていく。
鼻歌でも歌ってしまいそうな勢いで自宅マンションまで辿り着いた時だった。ゴミ置き場に大きな人影のようなものが見える。
「…え?」
まさか人間なわけがない。大きなぬいぐるみか何かだろう。粗大ごみの日は来週のはずだが、ルールを守らない住民が出したに違いない。マンションに入るにはごみ置き場のすぐそばを通らなければならないため、ナマエは怯えながらそろそろと近づく。
そして近づけば近づくほどそれが間違いなく人であると鮮明に分かった。体勢からして倒れているように見える。変質者か病人か、まさか死体だったらどうしよう、と、一気に可能性が頭の中を駆け巡っていく。
「あのぅ…大丈夫ですか…?」
黙って素通りすることも出来ずに恐る恐る近寄ると、やはり人間が倒れている。それは男で、瞼は閉じられているようだった。病人なら救急車、酔っぱらいなら警察のほうがいいのかと頭の隅で考えながら男に向かってもう一度「あの…」と声をかける。
「っう…」
男が呻き、じっと目を凝らすと街灯に照らされる腹部がじんわりと赤黒くなっていることに気がついた。血だ。
「えっ、だ、大丈夫ですか!?」
怪我をしているのだと分かった瞬間、ナマエは反射的に倒れる男に近寄っていた。前髪が長いせいであまり人相は分からなかったが、顎に縫合痕のようなものがある。
「ど、どうしよう、救急車呼ばないと…」
ナマエが焦りながらスマホを取り出して119の番号をタップする。緑の発信ボタンを押す直前、白い手がぬるりと伸びてきて発信を阻止した。
「余計なことすんじゃねぇ…」
「えっ、あの、でもその怪我…」
「ンなとこ担ぎ込まれたらあいつらにバレんだろうが…」
ひゅう、と吐き出すような息と共に低い声がそう言った。随分と物騒なことを言われているが、ぜえぜえとした息遣いのためかあまり恐ろしいとは感じなかった。
「あの、その、処置とか…」
「いらん。舐めときゃ治る」
男はそこまで言ってグッと髪をかき上げる。縫合痕を見た時からまさかと思っていたが、現れた相貌には大いに見覚えがあった。
「……少しだけ歩けますか?」
あそこまで。そう言ってナマエは五階にある自分の部屋を指さした。男は少しだけ目を見開いたように見えたけれど、暗かったから思い過ごしかも知れない。背に腹は変えられないのか、男はずるりと身体を持ち上げて左半身を庇いながら歩き出す。一応肩を貸すような真似事をしてみたけれど、身長も違い過ぎるしあまり意味はなかったかもしれない。
男は上体をぐっと曲げて、時々小さく喚き声を漏らしながらずるずるとマンションのエントランスまでを進む。あらぬ誤解を受けると厄介だと周囲を見まわしたが、幸いにも他の住人の姿はなかった。なんとか五階の角部屋にたどりつき、ナマエは慌てて鍵を取り出す。
「だい、じょうぶ…ですかッ…」
「ぅぐ………」
ドアを開けてどうにか男をリビングまで引きずる。靴も脱がずに、というか脱げずに彼は引っ張られるがままナマエに続き、そのままカーペットの上に倒れこんだ。半ば衝動的にここまで連れてきて、このあとどうすればいいのかを全く考えていなかった。
あいつらにバレんだろうが、という言葉から関わってはいけないタイプの人間だと思うし、救急か警察か、しかるべき場所に連絡するのが正しい判断だと思う。普段なら絶対こんなことはしない。どうして──。
「…うっ…」
呻き声にハッとして思考を止める。とにかく手当てをしないと。すみません、と断ってから患部であろう腹部のシャツをめくる。血の滲んだシャツの下には、刃物で刺したみたいな傷口が広がっていた。
ナマエはスマホで応急処置の方法を調べ、すぐにぬるま湯とオキシドール、それからガーゼハンカチと洗ったばかりのシーツをかき集めてリビングに戻った。
「傷口触りますよ」
声だけをかけて了承も得ず、ナマエは患部をビリビリと裂いたシーツで強く押さえた。まだ少し出血が止まっていない気がする。男は額に脂汗をかきながら、ナマエの手をじっと見ていた。しばらくそうして止血をしたあと、傷口を軽くぬるま湯で洗い流す。あまり土埃やなんかの汚れは見当たらないけれど、あんなところに倒れていたんだから洗っておくにこしたことはないだろう。オキシドールを傷口にかけて、またシーツの切れ端でそこを押さえた。
ネットで調べただけの、正しいかどうかもわからない処置をしながら、この家にワセリンはあっただろうかと考える。保湿にワセリンが最強らしいなんて口コミを聞いて去年買ったものがあったはずだ。
「ワセリン持ってきます!」
傷口を押さえる手をそろりと離し、化粧品の納めてある洗面所に向かった。鏡の裏に収納スペースがあるそれを開き、ころんと転がるワセリンを引っ張り出す。どたばたとリビングに戻り、男の傷口にワセリンを塗った。触れる度に小さな呻き声を漏らし、ふうふうと胸で息をしている。
「い、痛いですよね…ごめんなさい」
「ふ…ぅぅぅ…ッ」
最後にガーゼハンカチで傷口を覆い、救急箱の中に転がっていたテープタイプの包帯でそれを止めた。素人のどうしようもない処置が終わる頃には、痛みと疲れに耐えかねたのか男は意識を失うようにして眠っていた。
どこかにかベッドか、最悪でもソファには寝かせたほうがいいのだろうけども、意識のない成人男性を一人の力で動かせる力はない。仕方なく申し訳程度に寝室から掛け布団を持ってきて、男の上にそっとかける。
「ワセリンと、オキシドールと、包帯とガーゼ…」
使い切ってしまった衛生用品たちを指折り数えた。明日にでも薬局に買いに行く算段をする。補充のためではない。明日取り替えるためだ。ロクに素性も知らない手負いの男を家に上げた挙句手当をして明日までしようなんてまったくどうかしている。なのにどうしてだか当たり前に明日のことを考えていた。
「痛み止めもあったほうがいいのかな」
素性を知っているわけではないが、この男とは初対面ではなかった。
三日前のことだった。その日は代休を取っていて、普段足を運ぶことの少ないミニシアターに映画を見に行った。わざわざ見にきた割にはさほど面白い映画ではなかったな、と少し残念な気持ちを抱えながらも、くさくさしていても仕方がないと何とか頭を切り替える。この辺りは映画館くらいしか足を運んだことがないし、せっかくだから少し街を散策して帰ろう。
道端に出ているコーヒースタンドでカフェオレを購入して、どこか公園のような落ち着ける場所はないかとウロウロあてもなく歩いた。スマホで調べたら効率的なのは承知だが、こうして歩いているのも楽しみのひとつだった。
「うわ、結構変なとこ来ちゃった?」
表通りからあまり離れた気ではいなかったが、気が付くと路地裏の随分寂しい場所に辿り着いてしまっていた。隠れ家的な店があったりしないかと探してきたものの、風営法に違反していないか怪しいマッサージ店くらいしか見当たらない。これは流石に引き返すか。そう思って振り返った時だった。
「ぅわッ…!」
どん、と何かにぶつかり、カップの中のカフェオレがこぼれていくのを感じる。ぶつかったのはどうやら人で、カフェオレが胸元にかかってしまっている。完全に不注意だった。
「すみません…!」
「あーあーあー、どうしてくれンだよこれェ……」
ナマエはぶつかった相手の顔を見上げ、サッと顔面から血の気が引いていくのを感じる。相手は金髪の男で、耳と鼻にピアスを開けている。カフェオレがこぼれたのは派手な柄シャツで、一目でわかるくらい「ぶつかっては不味い相手」だった、
「あの!不注意で…!クリーニング代お支払いします…!」
「おねーさんさぁ、このシャツいくらか知ってる?」
「す、すみませっ……あの、じゃ、じゃあ弁償とか…」
「それで済むなら俺もここまで言ってねぇんだわぁ」
見た目のわりに普通の人間というものも勿論この世にいるのだろうが、この男はどうやら見た目の通りである。助けを呼んだところでこんなうら寂しい路地裏で誰かに声が届くだろうか。警察を呼ぼうにも隙をついて通報なんて出来ないし、そもそも到着までもつわけがない。
「うるせぇなぁ……」
ぼそり、と路地の奥から別の声が聞こえ、もしかしてまだ仲間がいたのかと置かれた状況に絶望した。奥からぬるりと姿を現した男は黒いコートを着ていて、手には高級そうなカメラを持っている。オールバックに髪を整え、顎の両側には大きな縫合痕があった。目つきも随分と鋭く、堅気の人間にはあまり見えない。レイプ、誘拐、監禁、殺人、臓器売買。尽くせる限りのあらゆる物騒な単語が頭の中を駆け巡っていく。
「てめぇ……なに文句こいてんだ。ア?」
ナマエの前に立ちはだかっていた男がオールバックの男に向かってそう噛みつく。二人は仲間ではないのか。決してオールバックの男も正義の味方には見えないが、この状況ならどちらかと言えば彼のほうが正義の味方と言えるだろう。
「た、助けてください…!」
ナマエが震える声でそう叫ぶと、オールバックの男はナマエを一瞥し、それからナデナデと髪を撫でつける。ならず者の方はナマエが叫んだことに舌を打ち「このクソアマ!」とさらに大きな声を上げた。それをオールバックの男が鼻で笑う。
「テメェがごちゃごちゃとデケェ声出すせいで烏が逃げちまった。せっかくのシャッターチャンスが台無しだ」
「はァ?何言ってやがる」
そこからは一瞬だった。オールバックの男は大股で距離を詰めると、ならず者に逃げる隙を与えることなく手首を掴んだ。ほとんど予備動作もなくならず者の身体が持ち上がり、気が付けばべしゃりと地面に突っ伏している。何が起こったのか分からないのはならず者もナマエも同じだった。男はならず者の髪を掴み上げ、じろりと厳しい視線をやって低い声で言った。
「二度と俺の前に現れるな。これ以上邪魔をされたらかなわん」
「ヒッ……!」
その堅気らしからぬ迫力と身に起きた混乱からならず者は短く悲鳴を上げ、男が手を離したとたん一目散に逃げ出す。一体何が起こったのかわからないのはナマエも同じだったが。とりあえずこの男に助けられたことは事実だろう。
「あ、あの、ありがとうございました……」
「……別に」
男はさして興味も無さそうに相槌を打つ。何か礼を、と思ってもう一度男を見ると、彼は既にスタスタと表通りのほうに歩き始めていた。慌てて追いかけるもそこから人ごみに紛れてしまい、その黒いコートを見失ってしまったのだった。
瞼の向こう側が少しずつ白む。翌朝、ナマエは目を覚ましたナマエはリビングのソファでぐっと伸びをした。昨晩手当をした男はその後目を覚まさず、流石にこんな状況でビールを飲む気にもなれなくてリビングのソファで眠った。
「……やっぱりあの時助けてくれたひとだよね」
あの時はセットされていた髪が降ろされていたから半信半疑な部分もあったけれど、日光の下で見る彼はどう見ても路地裏でナマエを助けてくれた男だった。
彼を自宅にまで連れてきて手当をしたのは衝動と混乱が大部分を占めているが、恩返しという大義名分が決め手だったと言っても過言ではない。
そろりそろりと彼に近づき、手首を触って脈と体温を確かめる。この部屋で死にましたなんてことになったらどう対処すればいいのか見当もつかない。脈があることと平熱程度の体温があることを確認して立ち上がろうとすれば、今度はナマエの手がぐっと握られた。彼が目を覚ましたのだ。
「……お前…何者だ…」
「あっ、えっと、怪しいものではなくて!その、覚えてますか。昨日マンションのごみ置き場に倒れてて…」
ナマエは身振り手振りで昨日の状況を説明する。話しているうちに男も昨日のことを思い出したのか、それ以上ナマエを尋問するような素振りはない。とりあえず自分の部屋で万が一の状態にならなくてよかった、とホッと息をつきつつも、さすがにあの素人の手当ではこの後が恐ろしすぎるとナマエが進言した。
「目が覚めてよかったです。あの、やっぱり病院行った方がいいですよ」
「……ああ。知り合いのところに行く。お前の手当のせいで死んだなんてことにはならねぇから安心しろ」
知り合い、というのはまさか闇医者の類いだろうか。堅気ならざるこの男の雰囲気に妄想だけが勝手に一人歩きをした。