18 空白、マフラー、ご用件


クリスマスマーケットに行った翌日、目が覚めると尾形が消えていた。普段なら同じベッドで寝起きをしているのに隣はもう冷たく、リビングの一画を占拠していた荷物もなくなっている。いくつか忘れたかのように衣類が残されていて、それだけがナマエの心を支えていた。尾形はもう五日間帰っていないし、連絡さえとれない。

「……もう、ダメなのかな…」

たかが五日だけれど、されど五日だ。連絡が取れている状態ならさほど気にしないが、ふらりとまるで猫がいなくなったようなこの状況では、もう二度と会えないのかも知れないと思うにあまりある。今日まで毎日同じ部屋で暮らしていたのだから、空いた穴はぽっかっりと大きかった。
ふと、スマホが鳴ってナマエは飛びつく。しかしそれは期待していた尾形からの連絡ではなく、スケジュールアプリのリマインダーだった。

「そうだ、マフラー……」

もう無用の長物になってしまうのかもしれない。買いに行ったところで、尾形にはもう会えないかもしれない。探しに行こうにも当てがなかった。尾形の燃えたアパートはニュースで見たから、正確な住所は知らなくてもどのあたりなのかはわかっているが、別宅は場所も聞いたことがない。仕事はどこかに所属している写真家というわけでもなさそうで、しかも休業中。結局のところ、尾形のことはほとんど知らない。少しは近づけたなんていうのは、驕りに過ぎなかったのだ。


ナマエは木曜日の仕事終わり、例のセレクトショップに向かった。予約したマフラーを受け取りに行くためだ。

「すみません、予約していたミョウジですが」
「ミョウジ様、お待ちしておりました」

にこやかな店員に出迎えられ、レジのそばで品物を確認する。依頼通りのカーディナルレッドがナマエを待ち構えていて、店員にラッピングの必要を尋ねられたので、一瞬迷ってやはりラッピングを頼むことにした。

「包装紙が二種類ございます。どちらにいたしましょうか」
「あー…えっと、じゃあネイビーの方で…」
「承知いたしました」

はきはきとした好感の持てる接客を受けても、少しも気分が上がらない。当たり前だ。このラッピングもマフラーも、渡す相手がいなくなってしまった。勿論そんな事情は店員には関係がなく、菊田と来店したときと同じ店員だから余計に「クリスマスに恋人にあげる大切なプレゼント」としてマフラーは丁重に扱われている。

「お待たせいたしました。お包み確認いただいてもよろしいでしょうか」
「あ、はい。大丈夫です。ありがとうございます」
「彼氏さん喜んでくださると良いですね!」

にっこりと他意のない言葉が投げかけられる。ナマエは固まってしまいそうな表情筋をなんとか動かして笑顔をつくり「はい」と精一杯愛想笑いを浮かべた。


会計前だったし、次回店頭入荷分を取り置きしてもらっただけで、取り寄せというわけでもなかったからこのマフラーはキャンセルも可能だった。なのに購入してあまつさえラッピングまでしてもらったのは、尾形のことを諦めきれない証拠だった。荷物が殆どなくなっているということは彼が自発的にナマエの部屋から出て行ったということである。何か事件や事故ではないだろうということがわかるのは不幸中の幸いだった。ナマエはマフラーのラッピングをそっと撫でた。がさりとささやかに音を立てる。

「自分で使うのは…はは、気が重いかも」

尾形に渡せなくても、流石に勿体ないから捨てるわけにはいかない。自分で使うのも何だか気が重いし、フリマアプリなんかで売ってしまってもいいかもしれない。部屋の中には尾形と暮らした時間の鱗片が残り続けている。
食器、シェーバー、歯ブラシ、寝巻。まるでまた数日後にふらりと戻ってきそうなようで、そう言えばもともと野良猫が棲みつくみたいにして現れたのだと思い出した。
夕飯の支度も億劫で、トーストしてもいない食パンにそのまま噛り付く。別にいままでは充分美味しいと感じていたし、食パンの味が変わったわけではない。けれどどこか味気なくて、半分くらいまでなんとか食べたところで手が止まってしまった。

「……ひゃくのすけ」

名前を返事などあるはずがない。野良猫が寝床を変えるように突然、彼はナマエの手のひらからこぼれ落ちて行ってしまった。尾形が来るまでは過不足がないと感じていたはずの部屋は、途端にうら寂しい場所のように感じた。暖房をつけても寒くて、布団に包まっても少しも温まらない。ベッドを半分開けて寝るのが癖づいていると気付いて、それがさらにナマエのことを虚しくさせた。


いくら生活が侘しくなろうが、社会人は毎日仕事をしなければ仕方がない。尾形のいなくなった一週間をようやく乗り越えた金曜日、ナマエは仕事帰りにコンビニに寄り、お気に入りのメーカーの黒ビールを購入した。うっかり二人分買ってしまって、レジを通したあとにその必要はなかったのだと気が付いて落ちこんだ。
マンションまでの道を歩く。前までは金曜日だというだけで嬉しくて、ビールでひとり晩酌するのが楽しみで仕方なかった。けれどそれがいつの間にか一人ではなくなっていて、また一人に戻ってしまった今は一人の時間を前より寂しく感じるようになった。

「あの……すみません」

不意に背後から呼び止められ、自分の事かと思って振り返る。声の主は先日クリスマスマーケットで尾形に声をかけていた温和な面持ちの青年だった。どうしてこんなところに、と動揺していると、男のほうが先に口を開いた。

「突然申し訳ありません。警察庁の花沢勇作と申します。尾形百之助さんのことをお聞きしたくて伺ったんですが……」
「け、警察庁…?」

ひらり、と名刺を差し出された。確かにそこには警察庁の文字と所属と職務、それから階級と名前が載っている。警察の、しかも警視庁でも所轄でもなくて警察庁の人間がどうして尾形を追っているのだろう。彼は不届き者の類ではないと納得したはずなのに、もしかして、とまた疑念が蘇る。

「あの、ひゃく……尾形さんがどうかしたんですか…」
「怖がらせるような言い方をしてすみません。今日は職務ではなく、個人的なことで伺ったんです」

名刺を見せたのはあくまでも身分を照明するためであるらしい。確かに職務であるなら名刺ではなく警察手帳を見せるのが筋だろう。しかしそれはそれでどういうことか。本人不在の状態で他人に滅多なことも言えない。

「あの、どういうご用件ですか」
「…実は、なんと言いますか……私と尾形百之助さんは腹違いの兄弟なのです。私はいま兄の所在を探しています」

え、という短音が声に出せていたかどうかは定かではない。名字も違うし、年上のはずの尾形が敬語を使っているところを見るかぎり、例えば離婚再婚だとかの単純な異母兄弟の関係ではないとみえる。問題なのはその用件のほうだが、残念ながら力になれることはないだろう。ナマエだって尾形の行方を知りたいくらいなのだ。

「尾形さんなら、うちにはもういません。日曜日に出て行ったきり、どこに行ったのかわからないんです」
「そうですか、やはりあなたの家でご厄介になっていたのですか」
「それは……」

しまった。余計なことを言った。そうか、そもそも尾形は勇作に対して所在を明かしていなかったのだ。しかしそう思ってもあとの祭りである。今更言い訳も通じないし、これ以上はせめて余計なことを言わないようにしなければ。

「私にお話しできることはありません。もう尾形さんもいませんし、どこへ行ったかなんて想像もつかないんです」

ナマエは話を切り上げるためになるべく突き放すような口調で言った。勇作はそれくらいで怯むことはなく、次の言葉を頭の中で探している。ナマエは何かを言われてしまう前に先手必勝とばかりに言葉を続ける。

「だいたい…弟さんなら私なんかよりよっぽど尾形さんの居場所を知ってるんじゃないですか」
「私は……」

勇作が言い淀む。流石によく知りもしない相手に言い過ぎただろうか。大人げなかった。勇作は軽く唇を噛み、少しためらうようにして言葉を溢す。それはナマエに向けたというよりも独り言に近いように感じる、急斜面を滑り落ちるようなどうしようもなさだった。

「私は兄様のことを、何も知らないのです……」

勇作は整った眉をぎゅっと寄せる。クリスマスマーケットでの態度といい、ここでのやり取りといい、どうにも円満な兄弟関係とは思えない。とはいえ話せることがないのは事実だけれど、苛立ちをぶつけるような自分の振る舞いを恥じた。

「…無神経な言い方をしてすみません。でも、申し訳ないんですけど本当に私にも何もわからなくて…」
「いえ、こちらこそ突然呼び止めて申し訳ありませんでした」
「その、尾形さん、誰にも連絡していないんですか?」
「ええ、私が確認出来る限りではどこにも」

ぞっと背筋が寒くなる。自分から荷物を纏めて出て行っただけだと思っていたが、弟でも連絡を取れないなんて、ひょっとして何か不測の事態にでも巻き込まれたのだろうか。勇作は警察なのだからなにかそういう話であれば耳に入っているのでは、とも考えたが、交通事故などならまだしも、事件などであれば立件されていない限り捜査も行われないのだから情報を得ようもない。

「あ、あの、私にできることがあれば言って下さい。ご協力します」
「ありがとうございます…」

勇作が少しだけ笑う。異母兄弟というだけあって、あまり似ていないと思った。その場で勇作と連絡先を交換し、尾形に関する情報を得た際にはお互い連絡をすると約束を取り付けた。ここまでするなんて本当に行方不明の類いなのだろうか。
勇作と別れたナマエはそのままマンションに戻り、エレベーターで5階まで上がる。ひょっとして廊下に尾形がいたりしないだろうか、と思って見てみても、その姿はどこにもなかった。

「…誰にも連絡しないで…どこ行っちゃったんだろう」

ナマエはため息交じりにそう溢し、コンビニの袋をがさりとテーブルの上に置いた。何となく今日は飲む気にはなれずにとりあえず二本とも冷蔵庫で冷やし、習慣でテレビをつける。丁度音楽番組をやっているようで、流行りのアイドルグループがクリスマスソングを歌っている。

「…そっか、明日イブだ」

本当だったらあの赤いマフラーを渡す予定だった。クリスマス当日に渡すのが正しいらしいが、きっとイブにパーティーをする流れで渡していただろう。キリスト教徒でもないしクリスマスが特別な日だと思っているわけではないが、だからといって幸せそうなクリスマスソングを聞くような気分にはなれず、そのままチャンネルを替えて適当なバラエティ番組を流す。
食事をするのも億劫で、とりあえず水だけ飲んでおこうと食器棚からマグカップを取り出す。ブーツ型のマグカップが行儀よく並んでいて、思わずそちらを手に取った。

「ねぇ、百之助。もう飽きちゃった?私の部屋より居心地のいい寝床、見つけちゃった?」

カシャリ。聞こえるはずもないのにシャッターの切られる音が聞こえてくるような気がした。愛は目に見えない。だから何を信じていいかわからなくなる。彼から自分への愛は確かに存在していると感じていた。けれど愛は不変のものではない。なくなってしまったって、なにもおかしいことではないのだ。

「私じゃだめだったのかな」

愛を可視化するとナマエにカメラを向けるようになった。もしかすると写真を撮るうちに「ナマエではない」「ナマエでは愛を可視化できない」と感じたのかもしれない。ナマエは揃いのマグカップの片割れだけを抱きしめ、その場にじっとうずくまる。カシャリ。シャッターの音はどこからも聞こえてくることはなかった。






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